私が変わっていい理由。
西奈 りゆ
変わることの何が悪い
ドスドス走る私はなるほど、競歩どころか早歩きにも見えないだろうし、あがった息にもつれる脚は、そろそろ解放してくれと悲鳴を上げている。
せっかく人目に付かない夜に、視線からも暑苦しさからも解放された夜に頑張っているのに。
一念発起した私のマラソン(早歩き)コースは、川沿いに1.5㎞歩いて(あ、言っちゃった)帰ってくる、計3㎞のお散歩コースだ。特に目印はないが、距離はグーグルマップで算出している。それでも息があがってしまうのだから、薄々勘づいていた運動不足の四文字は、あるいはもっと早くから警報を鳴らしていたのかもしれない。
それでも、やっと軌道に乗り始めたのだ。ラスト1㎞に至っては、疲れを通り越して心地よさを感じるまでになれたのだ。だというのに。
「だっさ」「きもっ」「ださっ」
公園にたむろした高校生くらいの男女のグループから飛んだやじは、もしかしたら私向けではないのかもしれない。何かの会話の流れなのかもしれない。けれど私は、そう受け取ってしまった。自意識過剰でも、カクテルパーティ効果でも、何でもいい。ようするに、私の中で確実に流れ弾に被弾してしまったのだ。
帰った私のシャツは、熱い汗に冷たい汗が混じって、写真部だったころに嗅いだ
だから、夜。いくらここが治安がいい田舎町だからといって、女一人でどうかと思うけれど、今まで遭遇したのは犬の散歩をしている人たちと野良猫くらいだ。それに、川沿いには家族の声が響く家々が連綿と続いている。なので、どうにかこうにか続けられていた。
歩けたのは、最初はたったの1㎞。けれどそれが、1.5㎞になり、2㎞になった。
微々たる差かもしれないが、単純に自分の成果に感動していた。気のせいかもしれないけれど、顔まわりもすっきりしてきた気がした。頑張ろう、そう思った。
そうして、歩く距離が2.5㎞になったその翌日。
俊樹は部屋を出て行った。あっけなく。それはもう、あっけなく。荷物ひとつ残していなかったし、私の財布からは5千円札が一枚なくなっていた。
いったいどうして、あんな男と住もうと思ったのだろう。若いと言われる期限が迫る女の一年を、何だと思っているのか。私の努力は、何だったのか。
それでも、と私はむくれた足をさすりながら思う。
それでも私は、変わりたい。いや、変わらなくてはいけないのだ。
一人になった2Kの家というのは思ったよりだだっ広くて、部屋を隔てる
ふくらはぎを揉んでいると、目の前をハエが飛んでいった。ボロアパートなのでどこからか入ってくるのか、一応こまめに変えてはいるけど、三角コーナーの生ごみからわいてくるのか、それともベランダか(隣の部屋が汚い)。出所は不明だが、叩き殺してもスプレーを吹いても、きりがない。だいたい私は気管支が弱いので、換気をしてもスプレーを吹くとしばらくせきが止まらない。
面倒だけれど、仕方がない。
川沿いをもう少し歩いたところに、ホームセンターがある。貧乏くささが増すような気がするけれど、いっそハエトリ紙でも買ってこよう。
半分冷水にしたシャワーを浴びながら、そう思った。
その翌日。良く晴れた日曜日の昼、私が持ち帰ったのは、ハエトリ紙ではなく、ハエトリ草だった。マリオに出てくるパックンフラワーみたいな、カスタネットのようにとげとげしい口を開けている、黄緑色の食虫植物だ。一鉢、800円。10㎝くらいの背丈で、6つの口を開いているそれが、高いのか安いのかは分からない。
店頭の説明文を読むと、まず、この草は蜜で口中に虫をおびき寄せる。さらに、口部分の内側に感覚毛と呼ばれるセンサーが備わっていて、獲物がそこに2回以上触れると、口を閉じて中身を溶かしてしまうのだという。試しに一回だけいたずらでつついてみたら、いきなりバクっと口を閉じてしまった。
動画サイトを見ると、某有名ハエ取りグッズにも勝利していて、ちょうど日当たりのいい部屋も余っているし、見ていて面白そうだったので、買ってしまったのだ。
6つある口は、すべて開いている。そして、ちょうどいいことに、目の前を横切る黒い
しばらく観察していたけれど、両者一向に近づく気配がないので、直射日光から少し外れた場所に鉢を置いて、様子を見ることにした。
日曜日は、いつもあっけない。何をしていた記憶もないのにいつの間にか終わっていて、気がついたら忌々しい月曜日へのカウントダウンが始まっていた。
ちなみに名前は、蜜から連想して「ハニー」にした。正直似合わないが、名無しよりはマシだろう。
1週間たった。ハニーの仕事ぶりは、正直なところ不明だ。
とはいえ、ふと見ると口が閉じているときもあるし、心なしかハエの姿を見かけることが少なくなった気がする。
私が昼間、狭いデスクでPCを叩いている間、ハニーも頑張っているのだろうか。
そう思うと、少し元気が出た。
1カ月経った。私の早歩きは、今はウォーキングと呼べるんじゃないかという程度にはさまになり、歩く距離も5㎞に増えた。
ホームセンターでいろいろアドバイスをもらったおかげか、ハニーは今のところ元気だ。一度だけ、その瞬間を見たことがある。
大きなハエだった。口の外側から蜜を舐めているようで、味でも濃くなっていくのか、徐々に徐々に中心部に移動する。そこからは、一瞬だった。
パンッ!と手を合わせたようなとは言い過ぎかもしれないが、口を閉じるのは早かった。たぶん、ハエも何が起こったのか分からなかっんじゃないかと思う。完全に閉じた葉っぱからしばらく羽音がしていたが、やがて聞こえなくなった。
2カ月経とうとした頃、俊樹からラインがあった。「元気? キレイになったんだってね」の一言だった。
続くであろう一言を、私はもう知っている。「また一緒に住もうよ」だ。
そういう男だということを、知りたくもなかったのに、聞いてしまった。
私は震えそうになる指で、スマホの電源を切った。ブロックは、しなかった。
暦上はとっくに秋になっていて、だいぶ遅れはしたけれど、少しずつ暑さが和らいでいた。ハニーは、冬には枯れたようになって冬眠してしまうそうだ。
実際、茶色くなってしおれてしまうし、夏のように出番はなくなるので、中にはその時点で捨ててしまう人もいるらしい。使い捨て。そんな言葉が、浮かんだ。
考えたくないが、私と何が違うんだろう。
仕事と言ったって、替えはいくらでもきく仕事。どこにでもいる人員。
相手は誰でもよかった、元同居人。時期が来たらまた利用しようとしてくる、元同居人。
あれから毎日歩いている。けれど、誰も褒めてはくれない。けなすだけけなして、あとはどうでもいい。劇的な美女と化せば違うんだろうけど、私が痩せたってただの普通の地味女だ。しかも、あんな男しか寄ってこない。いったい私は、何のために頑張っているんだろう。
引っ越そう。そう思った。
自分だけの、もう少し綺麗な部屋に。ハニーと一緒に、引っ越そう。
ハニーは、生きるため、自分のために生きている。
私がそうして悪い理由なんて、どこにもない。
ずっとそう思いたかった。
そう思うきっかけなんて、本当は何でもよかったんだ。
今年の冬をおもう。
茶色くなったハニーと、私は冬を越すだろう。
使い捨てられるなんて、もうごめんだし、するつもりもない。
思い出した。私はどうしても着たい服があったんだ。
俊樹に笑われて、忘れてしまったけれど。
きっかけなんて、何でもいい。
私は私のために、今日も行く。
誰にも文句は言わせない。
変わった私を。
ハニーは起きたら、見てくれるだろうか。
私が変わっていい理由。 西奈 りゆ @mizukase_riyu
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