第5話 暴発

「暑いし、乾くし、最低な空調やったわ」

 待ち合わせの午前七時ちょうど、両側を雑居ビルに挟まれ肩をすくめて建つSホテルから、ポロリと吐き出されるようにして現れた堀井は、げっそりとやつれた顔で力無くそう愚痴った。どうやら一晩のうちにひどく喉を痛め、睡眠もあまりとれなかったようだ。喉に引っかかるような声はまるで別人で、そのくせいつものように耳障りだった。


 駅に続く道路は、昨夜遅くに降り出した雪によってうっすらとではあるが白く覆われている。地方ではどうということのない積雪でも、東京ではまず間違いなく交通機関のダイヤが乱れるのである。今朝は試験会場にたどり着くだけでもかなり大変な思いをすることになりそうだ。体調不良に加えてダイヤの乱れ。こんなコンディションでの受験だけはしたくないものである。


 ふん、いい気味だ。

 加藤耕平はあえて心の中で声を出してみた。もちろん顔には無表情のフィルターを貼りつけてある。それでも本調子の堀井ならば敏感に反応し「なんやその態度は」と絡んでくるだろう。だが堀井からは何のリアクションもなかった。加藤耕平自身も相当な寝不足ではあったが、かなり具合が悪そうな堀井の顔を見る内にもりもりと気力が湧いてきた。自分も体調がいいとはいえないが、それで困ることなど何もない。なんといっても今日はただの案内役なのだ。

「遅れるとやばいから急ぐよ。はぐれないようにしっかりとついて来て」

 うきうきと弾む気持ちを出さないように気をつけながらそう言って、堀井の返事を待たずに背を向けると、駅に向かっていつもよりも大股で歩き出した。


 雪の影響は予想以上に大きく、中野駅のホーム、電車の車内共に、この一年で一番の大混雑だった。乗り換えのために降り立った新宿駅の八番線のホームでは、通い慣れたターミナルであるにもかかわらず進むべき方向が一瞬わからなくなるほどであった。

 ふと不安になって振り返ると、ごわごわした黒い頭髪が肩越しのずいぶん低い位置に見えた。小柄な堀井がまるで迷子を恐れる幼子のように背中にぴたりと寄り添っているのだ。尋常ではないこの人混みの中、堀井にとっては加藤耕平の大きな背中――モスグリーンのスタジアムジャンパーだけが唯一の目印であり頼りなのだろう。意外と心配性の堀井は今、かなり心細い思いをしているにちがいない。

 試験開始の時刻までに受験会場に到着できるかどうかは、加藤耕平の案内にかかっている。

 少なくとも堀井自身はそう思っていることだろう。加藤耕平はこのときはじめて、今自分が堀井よりも優位な立場にいて、それを心地よく感じていることに気づいた。

 堀井が必死でついてくる気配を背中に感じながら、加藤耕平は南口コンコースを山手線内回りの発着する十四番線のプラットホームを目指して突き進んだ。その巨体を押し寄せる人並みの中へ揉み込み、押し広げて、続く堀井のための経路を確保してやる。あと少しペースを早めれば、背中と堀井との隙間に他人がなだれ込み、華奢で不慣れな堀井は人の濁流にのまれて、駅構内の彼方へと消えてゆくだろう。そうならないギリギリのスピードを慎重に維持しつつ足早に歩き続ける。だけど時折、ほんの少しだけ歩調を早めてみる。そのたびにつき従う気配のリズムが乱れ、直後に乾いた咳が聞こえるのが心地よかった。


 乗車を二回やり過ごし、ようやく乗り込んだ山手線の車内は、もはや自分の意志で居場所を決められる状態ではなかった。

 ドア付近のわずかな空間になんとか足場を確保し、もうこれ以上どうにもならないと思ったところへ、背後からさらに第二波、第三波の圧力が加わり、気がつけば車両の先頭方向――連結部のすぐそばあたりまで押し込まれていた。傾いてしまったアンバランスな体勢のまま身動きできなくなり、堀井がちゃんとついてきているかどうかを振り向いて確認することさえできない。

 もし堀井をホームに置き去りにしていたら――

 十分あり得る可能性に加藤耕平が冷や汗をかいたとき、背中越しに、こちらの喉までヒリヒリしてくるような激しい咳が聞こえた。

 加藤耕平は安堵の息を吐いた。気がつけば列車はすでに走りはじめていた。ならば下車駅の田町までは二十分ほどの我慢だ。あとは乗り過ごさないように気をつければよい。おそらくこの車両にも多くの受験生がいるはずだから、流れに身をまかせれば大丈夫だろう。

 加藤耕平は傾いた体勢をなんとか立て直そうと、進行方向の側にある右足に力を入れたがびくとも体は動かせず、無駄なあがきと知ってすぐにあきらめた。


 背後の咳がどんどんひどくなる。

 最初のうちはコンコンと乾いたやつが時折聞こえる程度だったのが、いつの間にか痰の絡んだような湿った音が混じり始め、咳と咳との間隔も狭まっている。原宿駅での人々の乗降で激しく立ち位置が入れ替わり、連結部脇の壁際に押し込まれたときに、堀井の胸が強く圧迫されたのかもしれない。

 咳自体は止めようがないだろうから、せめて口を手かハンカチで覆えばよいものを、音の響き方を聞く限りでは、そんな配慮はまるでしていないようだった。この混雑では腕の位置を変えること自体困難なのかもしれないが、そもそも堀井にそんなマナー意識があるはずもなく、たとえ両手が自由であっても、周囲の迷惑などお構いなしに汚らしい飛沫を撒き散らしていただろう。

 この耳障りな咳のせいで、車内の雰囲気は明らかに悪化していた。当然だ。避けようにも身動き一つできない密閉された空間で、いかにも具合の悪そうな咳を延々と聞かされたらたまったものではない。

 加藤耕平は周囲の険悪な雰囲気を少しでも堀井に伝えようと腰を押しつけてみたが、ひときわ激しい咳の返事があっただけで、むしろ逆効果であった。

 ひと言「咳するときは口を押さえなよ」とでも忠告すればよいのだろうが、そんなことをすれば、なんだお前はこの咳男の知り合いなのかと、非難の何割かを向けられてしまうかもしれない。周りの乗客たちに堀井との関係を悟られずにできそうな対処といえば、その巨体を衝立代わりにして壁際の堀井を他の乗客から遮断することぐらいである。

 ほとんど身動きできない中、加藤耕平は車両の振動のタイミングで生じるわずかな圧力の差を利用してジリジリと体勢を変えていった。こういう場合、摩擦の少ないすべすべしたスタジアムジャンパーの生地は都合が良い。時間はかかったがなんとか背中の中央に堀井が来るように体の向きを変えることができた。そうするうちにも背後の咳はますます激しさを増していく。ちらちらとこちらをうかがう乗客たちの目には、明らかに青白い炎が見えた。


 少しきつめのブレーキがかかった。小さな女性の悲鳴、低い男の怒声と共に、怒濤の人の圧力が加藤耕平の体の前面にのしかかり、こらえきれずに半歩ほど後ろへ下がった。ぐう、という低いうめきが背中越しに伝わってくる。加藤耕平は堀井を守るために両手でつり革のぶら下がるポールをつかみ必死で耐えた。腕と指が引き延ばされてちぎれそうになる。でもそのおかげで背後の堀井にかかる圧力はかなり軽減されているはずだった。それでもよほど苦しかったのか、背後から腰のあたりを肘でぐりぐりと押し返してきた。その陰湿な痛みは腰骨の奥にまで届いた。

 痛いんだよ!

 加藤耕平の中で何かが音を立てて壊れた。どうとでもなれと、人の圧力に逆らうことをやめた。もう身動きできる余地はないと思っていたが、さらに半歩ばかり体が後ろに下がった。壁と背中に挟まれた塊が右へ左へと激しくうごめく。逃すものかと両足の爪先で床を突っ張り、ありったけの力を込めてさらに押す。丸くて硬いモノがごりごりと背骨に当たる。かまわずに押す。突き出した尻にぐぎっという感触が伝わる。その瞬間、先ほどに比べればずいぶん弱々しい力ではあるが、また肘のようなものが腰骨のあたりを押し返してきた。

 しつこい!

 叩いても叩いても動きを止めないゴキブリを、スリッパの底で踏みにじっているような激情が加藤耕平を襲った。

 くそっ、くそっ、くそっ。

 押して押して押しまくる。

 ひやりとした空気が額に触れて我に返ると、車内放送が品川を出発すると告げていた。次は下車駅の田町である。周囲の乗客たちがそわそわと体の向きを変えはじめた。あらためて周囲を見渡すと、いつの間にかビジネスマンのスーツ姿はほとんどなくなり、押し黙った学生風の若者ばかりになっている。

 そうだった、受験のつき添いで朝早くからラッシュの電車に乗っていたのだ。


 これ、どうしよう。

 もうそのモノは背中を押し返そうとはしなくなっていた。だからといって壁に向かって押しつける力を弱めるわけにはいかなかった。少しでもこの姿勢を変えようものなら、支えを失ったそのモノはぐずぐずと汚らしく床の上に崩れ落ちてしまうに違いない。そうなれば車内がどんな騒ぎになるのか、想像することすらおぞましい。

 物言わぬ存在になってなお、やっかいなそれは、加藤耕平につきまとって嫌がらせを続けなければ気が済まないらしい。一度沖に引いた潮が泡立ちながら再び満ちてくるように現実が押し寄せ、息苦しさに胸を掻きむしりたくなった。

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