第3話 悪夢の再会

「加藤? 加藤やないのか」


 聞き覚えのある声に振り向けば、目玉をぎょろつかせた濃い顔の小男が淡い夕闇の奥に立っていた。駅前から続く商店街がそろそろ終わろうかという路上でのことである。

 男は目が悪いのか、あるいは逆光のせいか、眉根に深い縦筋を刻み、あごを突き出すようにしてこちらの様子をうかがっている。その狭い額と高く突き出した頬の先が、ちょうど正面から受ける夕日によって脂性独特の照りを見せていた。

 どうして堀井が――

 加藤耕平は息を止め、夢なら今すぐ覚めろと心で念じた。だが男は、そう都合良く消え去ってはくれず、首をすこし斜めに傾げたままゆっくりとこちらに向かって歩きはじめた。


 男――堀井孝弘は、加藤耕平の高校時代の同級生だった。


「堀井と毎日顔を会わせるのはもうたくさんだ」というのが、加藤耕平が地元から遠く離れたここ東京の大学を進学先に選んだ最大の理由である。その願いが叶って約一年、絶えず不快な緊張を強いられる日常から開放され、平穏な生活が当たり前となり、ようやく自然体で学生生活を楽しむことができるようになった矢先での、疫病神との再会だった。


 加藤耕平は胸の内に生まれたいびつな感情を顔に出すまいと、奥歯をそっと噛んで無表情を装った。それがかえって良くなかったのか、間近に迫った堀井は見る間に不機嫌な顔になり、ちっ、と聞こえよがしな舌打ちをして、下からすくい上げるような視線を投げてきた。

「おい、なんやその目ぇは。まさかオレのこと忘れたっていうんやないやろな。まさかそれはないわな」

 加藤耕平は急速に冷えてゆく心の中で、ひそかにあきらめのため息をついた。

「久しぶりだね」

「ふん、久しぶりだね、ってか。東京の大学生ともなると、たった一年で言葉づかいまで変わるもんなんや。そのわりにはお前、あいかわらずデブやのう。鼻の頭も赤いまんまやし。その体型でようスタジャンなんか着るのう。ぱっつんぱっつんで恥ずかしくないんか? まるで田舎のアメリカ人やんけ。そんなんで、なんぼ標準語しゃべってもあかんやろ。陰で東京の人間に笑われてるんやないか?」


 全然変わってない。

 加藤耕平はあらためて失望した。小学生ではあるまいし、面と向かって人の肉体的なコンプレックスをあげつらうこのデリカシーのなさはどうだ。人間関係の濃い地元にいたときでさえ疎ましくて仕方なかった男だが、東京のさらりとした関わり合い方に馴染んだ目で見ると、宇宙人と会話しているのではないかと思うほどの違和感があった。異質すぎて腹も立たない。むしろ滑稽で、笑ってしまいそうなほどである。

 それにしても――と、加藤耕平は目の前の貧相な男を視界の隅に置きながら首をひねった。

 なんで堀井がこんなところをうろついているのだ。

 素朴な疑問がいやな予感をはらみながら胸の内側に広がっていく。理由を聞くか聞くまいか。おそらく知ったところでなんのメリットもないし、過去の経験から考えれば、むしろ知らずにおいた方が良いに違いない。加藤耕平がそれだけは勘弁してほしいと願う最悪の選択肢の先で待ちかまえ、目玉を剥いてにやついている。堀井とはそういう男なのだ。


 頭上の電線がうなりをあげ、わずかに遅れて加藤耕平の首筋を冬の風が奔り抜けた。思わず首をすくめた拍子に「ほ、堀井くんは――」と声が出てしまった。さらに続けて「なんで、こんなところにいるの?」とたずねかけ、きわどいところで口ごもった。そのひと言が墓穴を掘りそうな気がしたのだ。だがもう遅かった。勘の良い堀井はニヤリと口の端をゆがめ、黄ばんだ犬歯の先をひび割れた唇の隙間にのぞかせた。

「受験や。こっちの大学の入試を受けることになってな、地方の浪人生がのこのこ上京してきたっちゅうわけや」

「えっ、でも堀井くんは国立のS大学志望じゃなかったっけ」

「なんや人の昔の志望校をよう覚えてるやないか。でもな、一年あったらいろいろ事情も変わるんや。なーんにもない田舎にこもってしこしこ受験勉強やったおかげでな、地方の国立大から天下のK大学にランクアップできるようになった、っちゅうわけよ」

 K大? 堀井がK大を受ける?

 加藤耕平は、堀井の口から出た大学の名前に打ちのめされた。吸い込んだ息が胸の奥に詰まり吐き出せなくなる。堀井はそんな加藤耕平の反応を楽しむように薄い笑いを浮かべると、さらに一歩、距離を詰めてきた。


「ああそうか、忘れとったわ。明日の入試がうまいこといったら春からオレは加藤の後輩っちゅうことになるんやな。おう、ちょうどええわ。なーんもわからん東京での大学生活をいろいろ教えてもらえるやんけ。単位楽勝の一般教養とか、テストに出る講義のノートとか、役に立つ情報がいろいろあるんやろ。サークル活動も知り合いがおるとこやったら何かと都合がええやろうし。合コンとかも誘ってもらわなあかんな。加藤みたいなデブの知り合いやいうのはちょっと格好悪いけど、まあええか。なんせ一年間、暗い浪人生活やったんや。そんな思いをせんままに大学生になったヤツに、ちょっとぐらい世話になってもバチは当たらんやろ。それにしても加藤が先輩とはなあ。そうなったら呼び捨てっちゅうわけにはいかんやろな。よろしくお願いします、加藤先輩ってか。ふん、笑えるわ」

 冗談じゃない。加藤耕平は膝がかくりと折れそうになるのをひそかにこらえた。だが額に吹き出しはじめた汗を抑えることまではできなかった。

 落ち着け。

 加藤耕平は自分に言い聞かせた。まだ堀井がK大に入学すると決まったわけではない。ここで動揺する姿を見せたら、堀井はますます調子に乗っていたぶりにかかるだろう。それでは高校時代の再現だ。あの暗黒時代に再び戻ることだけはごめんだった。

 堀井はそんな加藤耕平の内なる戦いを知ってか知らずか、歪めたままの口の端をちろりと舌先で舐めると、オタマジャクシの腹のような目玉を剥いて、有無を言わさぬ視線を送り込んできた。

「ところでよ、今、K大の学生は春休みで暇なんやろ?」

 来た。ここでうなずいたりしたら、ろくでもないことにつき合わされるのは間違いない。そもそも本当に暇ではないのだ。だったら遠慮するこはない。堂々とそう主張すればいい。

 加藤耕平は知らないうちに強ばっていた肩の力を抜いて、できるだけ柔らかく、かつ軽い口調を心がけながら言葉を返した。

「春休みなのはうちだけじゃないよ。大学はどこも一緒だって。まあそれはともかく、ぼくは休みの間中ずっとバイトだから全然暇なしさ。今夜もこのあと六時から夜中過ぎまでコンビニの仕事が入ってるし」

「なに警戒してんね。相変わらず嫌なやつやのう」

 加藤耕平は「お前だけには言われたくない」という言葉を飲み込んで、無理矢理な愛想笑いを浮かべてみせた。気温は相当低いはずなのに、こめかみから頬に汗が伝う感触がある。それを見て堀井は「暑苦しいやっちゃ」とまた笑った。


「まあええわ、それより今夜のお前のバイト、何時までや?」

「え、えっと、夜中の一時までだけど」

 とっさに三時間も遅い時間を答えてしまった。普通に考えれば、そんな夜中に交替するシフトなんて不自然だと思うだろう。ましてや堀井は異常に勘がいい。加藤耕平は、自分の心臓がきゅっと縮む音を聞いたような気がして、汗ばんだ手のひらをきつく握りしめた。

 ところが意外にも堀井はあっさりと信じたらしく、目を宙にさまよわせ、ぶつぶつと独り言をもらし始めた。

「ほんなら寝るのはまあ二時っちゅうとこか。ふん、ちょっときついかもしれんけど、一日だけやしええやろ」

 何を考えているのだ。加藤耕平は体を固くして堀井の次の言葉を待った。

「おい、あしたの朝な、オレが受験会場行くのにつき合えや」

「は?」

「は、やないて。なんぼ忙しいゆうても、夜中の一時までバイトやったら次の日の午前中は予定空けてるやろ。試験の終わりまで居れとは言わんわい。朝、行くときだけでええんや」

 自分のついた嘘に断る理由を封じられてしまった加藤耕平は、ぐっと言葉を詰まらせた。それにしても夜中遅くまでバイトしているという人間に頼む内容ではない。そんな常識を堀井に期待しても仕方がないのだが、やはり腹は立つ。


「まあいいけど。でもさ、ぼくを受験会場に連れて行って、なんかいいことでもあるの?」

「一丁前に嫌味な言い方するやんけ。あのな、オレがお前を連れて行くんやないわい。お前がオレを試験会場まで案内するんや。さっき大学までの下見してきたんやけどな、山手線には内回りと外回りがあってややこしいし、朝のラッシュもきついんやろ。それにもし事故とかあってダイヤが狂うたりしたらどうすんね。そういうときに加藤がおったら、乗り換えの変更とかがなんとかなるやないか。地元の友達の道案内ぐらいしたれや」

 だれが友達か、とむかついたが、堀井の妙に用心深い一面を垣間見た思いがして、へえとも思った。それにもし案内を断って堀井に悪い印象を与え、その上で運悪く堀井がK大に合格してしまったら、残りの大学生活三年間がより悲惨な状況となるのは確実だった。一方、不合格ならそれにこしたことはないが、万が一堀井の恐れる列車事故でもあったなら、確実に落ちた原因を自分のせいにされ、どんな嫌がらせを受けるかわからない。つまり断るという選択肢はないのだな、と加藤耕平はあきらめた。


「わかったよ。で、どこに宿をとったのさ」

「すぐそこの駅前のSっちゅうビジネスホテルや。ほんまやったら大学の近くがよかったんやけど、予約とろうとしたときには近場は全部満杯やったんや。しゃあなしにネットでいろいろ探したら、駅前で便利な受験生の宿やいうから予約したんやけどな、じっさい来てみたら山手線の乗り換えとかめちゃめちゃややこしいやんけ。なにが受験生に最適じゃ。試験以外に気ぃ使わすな、ちゅう話や」

 ざまあ見ろと思った。そのとばっちりを明日、自分も受けるのではあるが、堀井が困ったのだと思うと胸がすく。

「加藤はこの辺に住んでるんか」

 堀井はいきなり話題を変えてきた。加藤耕平はこの不意打ちに、思わず「うん」と肯定してしまった。直後に、しまった、と思ったがこれももう遅い。とたんに顔だけでなく全身にどっと汗が出た。

「なんでまた大学から離れたこんなとこ選んだんや。この辺、家賃が安いんか?」

「まあね」

「へっ、なんやあやしいな。まあ、ええわ。オレが合格したら、その辺のこともいろいろ教えてもらわなあかんな。そや、お前のスマホの番号教えてもろうとこか」

「ああ、うん」

 やはりそうきたかと、加藤耕平は、ぱっつんぱっつんだとけなされた薄いモスグリーンのスタジアムジャンパーのポケットに、のろのろと手を伸ばした。


「あれ?」

 加藤耕平は指先がいきなりポケットの底に届いて驚きの声を上げた。あわてて反対のポケットに手をやるがスマートフォンはなかった。

「まさかスマホを忘れたとか言うんやないやろな」

「忘れた。もしかしたら落としたかも」

 堀井は自分のスマートフォンを手にしたまま、表情を一気に強張らせた。

「お前、なめてんのか?」

「えっ」

「なんじゃい、そのわざとらしいジェスチャーは。番号教えるんが嫌やったら、そう言えや。回りくどい小芝居するんやないわい」

「違うって、本当にないんだって」

「そんな都合のええ話があるかい。さっきからお前の態度見とったら、バレバレなんじゃ。どうせ今からバイトっちゅうのも嘘なんやろ。もうええわ、その迷惑そうな顔、うっとうしいんじゃ。試験の前に気分悪いわ」

 まさに言いたい放題ではあるが、その中で相手の痛いところは的確に突いてくる。こういう場合、下手に反応するとどんな言いがかりに発展するか見当もつかない。反論などもってのほかだ。少しうつむき加減でやり過ごし、頃合いを見計らって、ありもしないこちらの非を詫びるのが最短かつ被害最小の事態収拾方法である。そんな堀井に対する対応マニュアルが徐々に思い出され、加藤耕平の気分はますます沈んでいった。


「おい、人の話聞いてんのか? もうええ言うてるんやから、バイトかなんか知らんけど行ったらええやろ」

 意外に早く堀井のテンションが下がっていた。受験前日ということでいつもとは違うのかもしれない。理由はともかく、今回は謝罪を入れなくても収まりそうな気配である。ならばあと少しの辛抱だ。

「明日は七時にホテルの前で待っとれよ。もし遅れたり、来んかったりしたらどうなるか、わかってるやろな。まあ、お前にそんな根性ないやろけど」

 普通ここまで腹を立てたら、明日の案内はもういらないということになるのではないかと思うが、それはそれ、堀井の中では繋がらないのだ。

「わかってるよ。じゃあ、明日」

 加藤耕平はできるだけ抑揚を抑えた声でそう告げると、速過ぎずゆっくり過ぎずに細心の注意を払いながら、堀井に背を向けた。とたんに背中の真ん中あたりがむずむずする。あの堀井の脂性で濃い顔がこちらをじっと見ていると思うからだろう。本当は今から駅前の本屋に行くはずだったのだが、今さら向きは変えられない。加藤耕平はスタジアムジャンパーのポケットに両手を突っ込み、大きな背中を丸め、一歩一歩を意識しながら駅とは反対の方角へと歩きはじめた。


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