第1話「その名はシオン」

 うう、寒い寒い、と男は体を震わせながら、少し雪の混じった風を浴びつつ夜道を歩いていた。

 大晦日だというのに、男はこの日も工場の仕事に追われ、汗と油にまみれた作業着を雑に突っ込んだバッグを提げた帰り道。職長の怖い顔を1日だけ見なくて済むのに喜んでいいやら、それとも元旦の1日だけしか休みがないことに憤ればいいやら複雑な気持ちになりながら、そうだ、酒でも飲もう、とコンビニに足を運んだ。


「ああ、すいません。もう、今日は営業してないんです────」


 好々爺としたコンビニ店員(恐らくフランチャイズのオーナー)が、申し訳なさそうに頭を下げたので、男は虚しい気持ちを胸に覚えながら再び寒空の下を歩き始めた。


「スーパーはもう、やってねぇよなぁ」


 少し歩くが、遠くの、桃城市の中心街の方のコンビニに行こうか。ああ、いっそのこと歓楽街の方で飲み歩こうか、とか考えていた時だった。

 カチャン、と箸の音がする。ままごとの音にしてはやけにはっきりしてやがる。同時に、香ばしい、かつおだしの香りが鼻を突く。

 匂いに釣られて男は歩速を上げる。どこだどこだ、と住宅街を歩いてみれば、住宅街の奥の空き地近くの路地に、一軒の屋台が在った。どうやら先客がいるようで、その様子からしてまだしばらく営業していそうな雰囲気だ。


「おでんか!」


 傍らに立つのぼりを見てはにかむと、早足で歩き暖簾を潜る。先客は黒い皮のジャンパーを羽織った女で、熱燗を静かに呑んでいる。屋台のオヤジは如何にもな白い帽子に白い割烹着を着ていて、いよいよ風情は最高と言った具合だ。ぐつぐつと煮えて熱を放つおでん鍋は、具がもう残りそう多くないが、男の冷えて減った腹を満たすには充分な量だ。


「いらっしゃいお客さん。大変ですねぇ、仕事帰りですか?」

「ええ、まあ、そんなもんです。あ、がんもどきひとつ」

「毎度!いやあご苦労さんですよ。年の瀬だってのに、こんな遅くまでねぇ」

「本当ですよ。あ、適当な焼酎を1杯」

「はいよっ」


 芋焼酎の瓶とコップと一緒に、がんもどきの載った皿が出てくる。割り箸でつまんで舌鼓を打つ。普通のがんもどきだが、冷えた体には嬉しい熱だ。


「いや助かりましたよ。上司のヘボで残業させられて、終わってみりゃどこもかしこも店仕舞いですもん。このままじゃ年が越せないって思ってたら、この屋台見つけましてね」

「おお、そりゃあ良かったですねぇ。いやね、ウチもカミさんがしばらく遠くに行っちまったんで新年祝う相手がいなかったんですわ。なんで、例年はやらないんですが、今日は屋台引っ張って来たんですよ」


 加え、この江戸っ子気質の屋台のオヤジの饒舌ぶりだ。何故先客が一人しかいないのか、不思議なくらいだ。

 先客に目をやる。相変わらず、無言でちびちびと熱燗を飲んでいる。歳は、20代前半だろうか。翡翠色の綺麗な目をした、茶髪の女。髪を後ろに結んで垂らしているが、手入れをろくにしていないのか、毛先はまるで茅葺屋根のようにボサボサだ。べっこう色の蝶の髪飾りを髪の結び目にしているのも特徴的と言えば特徴的だが、全体的な恰好は今時の派手な女子っぽくなく大人し目。しかし真っ当な仕事をしているようには見えない。

 背筋を伸ばして静かに呑む姿は、宗教画にありそうな瀟洒な雰囲気を醸している。場末の屋台でなければ、もっと良く映えただろうに、などと出歯亀的なことを思っていると。


「旦那、知ってるかい?最近、そこの通りで殺しがあったらしいぜ」

「え?」


 顔をずいっと近付けて、オヤジは男にそう言った。


「不思議なモンでねぇ、見つかった死体には首から上がなかったらしいんですわ」

「首から上が…………!?」


 なんて残虐な、と引き気味に呟く。想像するだけで追加で頼んだ大根が喉を通らなくなりそうな気がする。仕事が忙しくて、ニュースも新聞も目にしていない。スマートフォンも連絡用にしか使っていないので、数年前のことも男にとっては目新しい話になる。その数年前と言えば、前に働いていた工場をリストラされ、必死に再就職活動をしていた時期で、多少情報に敏感になっていた程度だ。何とか掴んだ仕事のために桃城市へ来て以降は、全く情報に対し無頓着になっていた。

 しかし、殺人事件すらも知らないというのは、流石に自分の物知らずを思い知ったと言えよう。


「犯人はまだ捕まってないそうで、警察がこの辺うろうろしてるみたいですよ。この辺を夜に出歩いてると、職務質問されるかも」

「気を付けないとですね。いやあ勘弁してほしいですよ。ただでさえ、仕事でクタクタだってのに職質なんてねぇ」

「ええ、ええ、ホントですよ…………まあ、お客さんは気にしなくても良いですけどね」

「…………え?」


 急に、声が硬くなったのがわかった。同時に、寒気がした。おでんはまだ煮えているのに、急に暖簾の内側が、つまり屋台全体が急激に冷え込んでいく。暖かいはずなのに、何故か生きた心地がしない。


 男は思い出す。あれと同じだ。

 幼い頃、公園で大きな野犬に追い回されたことがある。やめてと言っても犬は追い掛けてきて、血走った眼で噛みつこうとしてくる。それが怖くて外が嫌いになり、引きこもるようになり、人生が上手く行かなくなって────。


「!」


 気付けば屋台のオヤジが、口を開けていた。否、それは口なのだろうか。頬を裂き、顎関節を過ぎ、首筋まで割れようとするその器官を、いったい口と呼べるのだろうか?キリンのように伸びてゆく首を見て、それが人間であると言えるだろうか?


怪異カイイ…………!?これが!?)


 男は、人類の敵である存在たちの総称を脳内で口にした。それは社会や自然に溶け込み、常に人間を殺さんとつけ狙う悪魔たち。人外未知にして常識が通じず、ただの人間では決して対抗できないほど強い力を持つという。物を知らぬ男にも、それくらいの知識はある。

 その怪異が、目の前にいる。一度遭遇したが最後、命はない、と小学生でさえ教わる常識だ。

 首から上がない死体。その犯人は、此奴だ。そう判断するのに時間は掛からない。当然だ。まるで人の首だけを食うように、首を伸ばしているのだから、此奴以外に有り得ないだろう。

 それがわかっても、もう体は言うことを聞いてくれなかった。


 イタダキマス。人に扮した姿を捨て、大口を開けた怪異が、そう宣った瞬間だった。


 ダン、と重い破裂音がした。それは、昔の西部劇やドラマで聞くような銃声によく似ている。

 紫色の液体が散った。鍋に掛かって、出汁に混ざった液体が具材に染み込んでいく。液体は男の手元にも飛び散って、コップも皿も台無しになった。

 そして男の首を食い千切らんとしていた怪異は、異形の首筋を手で押さえて、溢れる紫の液体に濡れていた。


「ナ、ンダ、キサマ!」


 怪異が何かに抗議する。ぎょろりとした異形の目をぐるぐる回して、ある方向睨み付ける────男も同じ方向を見ると、そこにはさっきから熱燗だけを飲んでいた女が、大きな拳銃を握っていた。立ち昇る青い煙は、もう既に発射した後だということを示していた。


「ようやく、化けの皮が剥がれたか」


 女は立ち上がりながら、御猪口に残った最後の酒を飲み切ると、カチャンと音を立てて机に置く。


「認識阻害の妖術を掛けた清酒で粘った甲斐があった」


 女が腰に刀を差していた刀に手を掛ける瞬間、絵具を垂らしたように、彼女の茶色い髪が、鏡を思わせるような白銀へと変化していく。翡翠色の瞳も、その奥が淡く光り出している。


「オマエが擬態型の怪異かどうか、なかなか確信が持てなかったんで、少し可哀想なやり方で炙り出しをしてみた…………が、ドンピシャだ。オマエが私を認識できなかった時点で、オマエの敗北は決まっていたのさ」

「ホザケ、ニンゲン!」

「ああ?」


 怪異が飛び掛かろうとした瞬間だった。女が屋台を蹴り飛ばし、怪異を巻き込んで距離を取らせる。瞬間、刀を抜き斬り払う。残骸と化した屋台が、翡翠色の一閃で更に横一文字に分かれる。

 男が一瞬のうちに起きた出来事に混乱し、思わず尻餅を突いたその刹那、埃の中から異形が垂直に跳ね出た。


「クラエッ!」


 着地した瞬間、あんぐり開けた怪異の口から、無数の木片が飛び出す。屋台の残骸の破片を口に含んで、機関銃のように発射しているのだ。だがその断片の群れの先には、男がいた。


「どいて!」


 銀髪の女が、怪異の射線に割って入った。男は顔を背ける。あんな勢いの木片を浴びたら、ただじゃ済まないだろう。怪異によって、自分を守ろうとしてくれた銀髪の女がミンチにされる。そう想像したが。

 カンカンカン────まるで、スチール缶にビー玉を当てたような音が、無数に響いた。顔を上げれば、女の体に当たった木片が、どれも全てまるでコンクリートの塊に衝突したように砕け、粉々になっていく光景が男の目に映る。

 怪異も驚いたように、真っ赤な目を見開いている。人間の体の強度では、絶対に有り得ない現象だ。


「驚いたか、ビッグマウス」


 怯む、という感情を忘れたように、女は前進する。ゆっくりと歩いて距離を詰め、敵の至近まで迫る。その時には、怪異が口から射出した木材は全て、女の足元で木屑になっていた。


「GIIIIIIIIIIIIIIIII!!!!!!!!!!!!」


 怒り狂ったように、怪異が両手から爪を伸ばして引っ掻こうとする。女は背を反らして爪を避けるが、すぐ近くにあった、一時停止標識の支柱が爪によって切断される。

 切り落とされた標識を目にした怪異はそれを拾うと、力いっぱい振り回して斧の要領で女の首筋を狙う。

 だが────首筋を切断するはずだったその看板は、女の首に命中した瞬間、持ち手の支柱から先が蛇行するように折れ曲がる。先端に至っては、鉄でも殴ったかのように反対側へ折れ込んで、打撃武器としての用を為さなくなった。


「だから効かねぇって」


 女はそう嘲笑うと、折れ曲がった標識を握り、それを力一杯押し込んだ。どすん、と鈍い音がして、怪異の腹に標識の支柱が突き立てられる。


「GUAッ…………!?」


 悲鳴と共に、怪異が後退るのを女は見逃さない。素早く接近し、左の逆手で刀を抜く。正中線を斬り上げる。

 紫血を散らしながら、斬撃の衝撃で怪異が上を向かされた瞬間。

風を巻くような勢いで抜いた短刀が、下から袈裟懸けに肉体を両断する。

 更に同時に、大上段に上がった刀を順手に持ち替えて、逆袈裟に斬り裂く。


「“獅電・四戒”…………己が業、地獄で戒めろ」


 バツの字に分断された四つの死体が、紫血を撒き散らしながらアスファルトに転がる時。

 それは、女の二刀も、血を振り払って、鞘に収まる時でもあった。


「────あの」


 女は振り向きながら、男に手を差し伸べた。


「お怪我は?」

「あ、いや、ない、です」


 差し伸べられた手を取って、男はようやく立ち上がった。何十分もへたり込んでいたようで、その実、たった1分ほども経っていなかったようだ。

 体の震えが止まった気がして、男はようやく、言うべきことを思い出した。


「鬼討師、さん」

「はい」

「助けてくれて、ありがとう。本当に、本当になんて言えばいいか…………このお礼は、いつかさせてくれ!」


 すると女は、申し訳なさそうに目を伏せて、少しだけ距離を取った。


「…………助かってませんよ、貴方は」

「…………え?」

「貴方は、一週間前に死んでいます。あの怪異によって、殺されているんです」


 何を言ってるんだ、と抗弁する。怪異はさっき、君が倒したじゃないか、と。だが、女は決してその曇った表情を変えることはない。


「で、でも俺はここにいるし、だいいちホラ、この冷たい雪も、感じることが出来────」


 降る雪が、手のひらに落ちると、男は口を閉ざした。

 何も感じなかったからだ。本来感じるべき雪の冷たさを、男は一切感じ取ることはなかった。

 なんで、と呟いた時、女が口を開いた。


「…………それは、私の固有領域によって発生してる、妖力の欠片です」

「こゆう、りょう…………?」


 生返事。そんな単語を語られても、神秘を知らぬ男には何もわかろうはずもない。

 だから女は一瞬考え込んでから、話し始める。


「怪異に殺された貴方は、殺されたことにも気付かず仕事に行き、そしてこの辺りを徘徊する霊魂になっていました。

 彷徨う霊魂になっていた貴方に、私が限定的な降霊をして、仮初の肉体を与えるために、この空間を作りました」


 偽物。男の脳裏に、その二文字が浮かんだ。事実、偽物だった。自分の胸に手を当てても────まるで風の吹かない湖の湖面のような静寂だけが、胸の内へ虚ろに響く。


「怪異の擬態を剥がすために、私は貴方を餌にしました。…………本当に、申し訳ありません」


 女は、銀色の髪がばらけるのも気に留めず、勢いよく頭を下げる。男は、咎める気にならなかった。


「ああ、そうか…………」


 あるのは、納得だけだった。

 この間、どうやって家まで帰ったんだろう?と男は俄かに疑問を抱く。意味のない疑問だ。記憶のないその帰路が、忘れ去っていた自分の最期だというのに気付くまで、全く時間を必要としない。

 気付くことに、そして考えないといけないことの多さに気付くのが、もどかしいほど悔しくて、けれどもうそれらを考える段階はとうに過ぎ去ってしまっていて、いくら考えても無意味になってしまった現状。

 あらゆる感情がないまぜになって、それら全てがまた空虚で無意味であることも織り込んだ上で────悔し紛れに呟いた。


「本当は、雪なんか降ってなかったんだ…………」


 はは、と虚ろに笑う。

 笑っても、出るはずの白い吐息が出ない。


「ごめんなさい。貴方の無念を晴らせなくて。こんな、冷たくて寂しい場所で貴方を見送るなんて」

「良いんだ。最後に、最期に、優しい人に会えた。冷たくて寂しい場所なんかじゃない。暖かくて、気持ちのいい終わりだよ。ありがとうございます」


 男も頭を下げた。覚えてもいない最期になって、永遠にこの街を彷徨うはずだった。自分に、最期を教えて、仇を取ってくれた。その相手を、どうして責められようか。

 体が、軽くなっていく気がする。力が抜けていくのがわかる。もうじきタイムリミット────一度乗れば二度と帰れぬ列車に乗り込んで、まさに列車が出発するという瞬間が、今この時なのだろう。

 だから最後に、男は訊こうと思った。


「お名前、伺っても良いですか?」


 女は、一瞬躊躇うように口を噤んだ。けれど、唇を舐めて決心したように、男の顔を、初めて真正面から見据えると、堂々と言った。


「影野獅音。この街で鬼討師の真似事をしている────ただの、便利屋です」


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怪異鬼譚:銀獅子 音羽ラヴィ @OTOWA_LAVIE

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