デッドストック

見鳥望/greed green

「もうこの日を迎えちまったか。あっという間だな」


 担任のウツミン事、内海敬一は卒業式という最後の日を前にしても変わらない笑顔を私達に向けた。

 あっという間。たった六文字がぴったりな思い返せば本当に一瞬の三年間だった。でもその一瞬には信じられないぐらいの収まりきらない思い出が詰まっていた。パンパンに膨れ上がり爆ぜ散ってしまうほどに色濃く辛く楽し過ぎた高校生活だった。


「さて、感傷的な話はハゲタカ校長の長話だけで十分なんだが」


 絶対に口にしちゃダメな言葉をウツミンはいつものように気軽に口にする。告げ口でもされたらどうするつもりなんだろうかと思うが、何にしても彼は無事にここまで教師を続け今日私達を見送ってくれている。そんなウツミンが私は好きだった。


「さすがに何もなしじゃ味気ないからな」


 そう言ってウツミンは机の下からごそっとビニール袋を取り出した。薄っすら中に茶色が見て取れたがそれが何かは分からない。皆して覗き込むように各々の席からウツミンの袋に首を伸ばす。


「よし、後ろに回していってくれ。あ、絶対開けるなよ」


 真ん中最後列に座っている私から見えたのは茶色い小袋のようなものだった。雑貨屋で買い物すると渡されるような紙袋。小さなピアスやイヤリング一個入る程度の小さなものが前から後ろへと流れていく。


「何だろねこれ?」


 前の席に座る綾乃が好奇心に満ちた笑顔と一緒に小袋を私に手渡す。

 セロハンテープで封がされ中身は分からない。外側から触れてみると小さな凹凸が指に伝わる。やっぱり何かのアクセサリーだろうか。でも卒業式に? 女子ならともかく男子はもてあますだろう。もしかして一人一人中身が違うのか? 

 いや、そんなわけないか。なんて色々な事を考えているうちに全ての生徒に袋が行き渡る。


「俺からの餞別だ」


 そう言ってウツミンはぐるっと教室にいる生徒達をゆっくり見回す。その顔にいつもの良い意味での軽薄な笑顔はない。射貫くようにどこまでも真剣でまっすぐな眼差しを私達に向ける。


「お前らはもう立派な大人だ」


 私はすっと背筋を正した。皆も同じく姿勢を正している。


「俺とお前らの差は何だと思う?」


 一旦ウツミンが置いた間に対して誰も口を開かない。皆ウツミンが次に口にする言葉を静かに待っていた。


「生きた年数。ただそれだけだ」


 俺はお前達の倍生きている。倍生きてれば倍の経験がある。たったそれだけだ、と。でもウツミンの言葉は、だからと言って簡単な事ではないといった空気を言外に感じさせた。


「大人はえらいわけじゃない。子供が未熟なわけでもない。大きな違いはたったそれだけだ。ただ生きるって事は、そんなに簡単な事じゃない。悩んで、苦しんで、考えて、答えを見つけて進んでいく。その繰り返しだ」


 教室を見渡し、色々な事が確かにあったなと思う。確かにウツミンの言うように悩んで苦しんで答えを出してきた事もあった。


「でもその中で、進めなくなる人間も出てくる」


 言いながら教壇の上に残った私達の手元にあるのと同じ包みを手に取る。


「これは、そんな人間への答えの一つだ」


 ーー答え?


 目の前の紙袋に視線を落とす。ここに入っている小さな何かが、人生に関わるような大きな話の答え?


「ウツミン、これ何なのさ?」


 誰もが思っていた疑問を、瀬野春香が平然と口にした。彼女のこういった突破力にはいつも惚れ惚れする。


「デッドストック」

「は?」

「これだろ? これはデッドストックだ」


 ウツミンの答えを誰も理解できなかった。当然だ。そんな名前のものは聞いたことがない。


「なんそれ?」

「分からなくて当然だ。俺がそう名付けただけだからな」

「そんなの答えになってない」


 春香は尚も突破を続ける。心の中で”行け!”と彼女を応援する。


「春香」

「何?」

「これは、進めなくなった人間の為の答えだって言っただろ?」

「だから何よ?」

「猪突猛進は間違いなくお前の長所だ。でも短所でもある。ちょっとは考えてみてくれよ。その答えを本当に今知る意味があるかどうか」


 そこまで言われると春香はすんっと黙ってしまった。はっきりと答えが分かったわけではない。でも何となくその意味を考えて何かに行き着いたのかもしれない。


「合法?」


 今度は箕輪宗太が違う疑問を口にする。


「安心しろ。大人としてのルールは破っていない」


 ふーんと言いながら箕輪もすぐに黙ってしまう。

 

 ーーこれは一体何?


 開けて見ればすぐそこに答えがある。でも誰もそれを実行しない。


「今から言う言葉が、この中にあるもの、そして俺からお前達に送る最後の言葉だ」


 最後という言葉に、自然に背筋が伸びた。


「これから先の人生で、どうあがいても、どうにもならないと、本当に絶望した時、確信した時。その時は、これを開けなさい」


 沈黙。そして一秒、二秒、三秒。刻々と時が進む。誰も何も喋らない。

 

 ーーそれだけ?


 高校生活を締めくくる言葉が、たったのこれだけで終わり?

 

 ーーもっと何か喋ってよ。ねぇ、ウツミン。


 パン。


 途端に教室に乾いた破裂音が響く。全てをリセットするかのようにウツミンが打った柏手が教室の空気を一掃した。


「ってなわけで! お疲れ皆! 後はお前らの時間だ。今日という一日、そしてこれからの人生、大事に! しっかり! 楽しめ!」


 解散!


 そう言い残し、さっさとウツミンは教室を出て行ってしまった。

 皆ぽかんとして、誰も動けなかった。


 ーーこれで、卒業?

 それが、高校生活最後のウツミンの記憶だった。

 そしてその三年後、同じクラスメートの谷崎道影が死んだ。











「いらっしゃいませー」

「18時から予約してた市川です」

「お連れ様先入られてますよ。どうぞ」

「ありがとうございます」


 予約した都内の和風居酒屋。待ち合わせ時間には十五分程遅れていた。


「ごゆっくり」


 店員に連れられ閉じられた襖の前までくると、既に先客の革靴が揃えられていた。

 その横に自分のヒールを並べ襖をすっと開く。中にいる人物と目が合う。相手は無表情で少しだけ会釈した。


 ーー歳取ったな。


 あれから十年は経っているから当然だし人の事など言えない。向こうからしたらこっちこそという所だろう。私は机一枚に掘り炬燵の対面に腰を下ろした。


「お久しぶりです。内海先生」


 歳は確かに取った。でも変わらないなとも思った。三十代から四十代へと肌にはあの頃に比べ皺が少し深く刻まれてはいるものの、毛量や肌ツヤなどは同世代に比べれば若々しく溌剌と映った。


「本当に久しぶりだな」


 そこでようやく先生の表情が和らいだ。素直に昔の生徒との会合を嬉しく懐かしんでくれているようだった。


「すみません、少し遅れてしまって」

「全然いいよ。忙しいのか?」

「ありがたい事に」


 働く事がどういうものかなんてよくも分かっていない学生だった自分が、気付けばバリバリ営業職をやってるだなんて思いもしなかった。やりたいと思って就いた仕事では別になかったが、大変ながらそれなりに充実していた。


「先生はどうですか?」

「変わらずやっているよ。性には合わないが、向いているらしいからね」

「そうですか。元気そうで良かったです」

「市川の方こそ」


 互いに注文した飲み物が運ばれてくる。先生はビール。私はウーロン茶。

 「飲まないのか?」と聞かれたが、「明日も仕事なので」と言い慣れた言葉を返した。


「これは、何に乾杯って言うべきなのかな?」

「再会、でしょうかね」


 乾杯と杯を合わせる。こくりと一口流し込んだお茶はよく冷えていた。


「昔の生徒とこうやって会えるって言うのは、教師人生として幸せの他ないよな」

「私みたいな一生徒でもですか?」

「もちろん。というか、市川は別に問題児でも何でもなかっただろ」

「それなりに真面目にはしてたつもりです」

「誰であろうと嬉しいもんだよ」


 言いながら先生はビールに口をつけた。

 

 ーーその程度か。

 

 今でも少し寂しく思っている自分が恥ずかしい。

 当時の私はウツミンの事が好きだった。教師としても、男性としても。年上を好むようになったのもおそらく彼の影響だろう。軽快で楽しく、でもいざという時には頼りになる魅力的な存在。

 だが結局その想いを伝える事はなかった。教師と生徒だなんて上手くいくわけがない。それにまず大前提、先生は私を女としてなんてもちろん見ていなかった。


「どうやって連絡先を知ったんだ?」

「同じ教師をしている知り合いがいて、そこからです」

「全く。個人情報がうんたらって時代なのに、簡単にバレるもんだな」


 言いながら別にセキュリティを本当に気にしているわけではないだろう。そうであれば今日私とここで会っていない。注文した料理をつつきながら、よくあるお互いの近況話で時間が潰れていった。

 本当はそんなのどうでも良かった。そんな事に時間を使いに来たわけではなかった。おそらくウツミンもそれを分かっている。でも自分からは踏み込んでこない。私から踏み込んでくるのを待っている。

 私が言うべき言葉。先生が待っている言葉。本当に旧交を温めるような場であれば、こんな形式を取る必要はない。これは私の独断だった。


「先生」


 ここに答えはないかもしれない。それでも知りたかった。


「これ、覚えてますよね?」


 私は鞄の中から小さな茶色い紙袋を取り出した。


「懐かしいなそれ」


 どんな顔をするか色々と想像していた。でも先生の顔は変わらず穏やかな笑みを浮かべるだけだった。


「デッドストック、でしたっけ?」

「そうそう。そんな名前だった」

「これ、何なんですか?」


”ウツミン、これ何なのさ?”


 あの日、本当は春香に私達はもっと追従すべきだったのかもしれない。

 答えを後回しにしたせいで、私はわざわざこんな機会を設けなければならなかった。









「何これ?」


 私、綾乃、春香、あと数名のクラスメートで集まって私達は早速紙袋を開けて中身を確認した。


「これやっぱヤバくね?」


 春香は人差し指と親指でそれを摘んだ。中に入っていたのは、小さなカプセル錠剤だった。


「でも、”大人としてのルールは破ってないっ”て」

「それもさ、どういう意味なの? はっきり法律とかって言えばいいのに」


 春香はチャラついた見た目に反して鋭く賢い。だからこそ一番初めに迷いなく疑問を口に出来た。


「飲んだら、多分ダメだよね」


 綾乃が不安げな顔で周りを見る。当然のように皆が頷いた。


「でも」


 少し間を置いてふいに声が入り込んだ。一斉に声の主を見る。箕輪が真顔でじっと錠剤を見つめながら言った。


「飲んだ方が幸せになれる時もあるのかもな」









「結局当時これを飲んだ人間は誰もいなかった。そりゃ飲むわけないですよね。こんな怪しいもの」

「色々しっかり考えてくれたんだな、お前達」

「考えるでしょそりゃ。明確な答えは与えずに、意味深な言い回しで想像力だけ掻き立てて。でもどう考えてもこれが”終わりを与える物”という表現にしか聞こえなかった。手を出すわけがないです」

「礼を言わないといけない事があるな」

「何です?」

「お前達、口外しなかっただろ?」

「はい」

「まだSNSが発達していないという所も救いだったが、おそらく誰もコレの事を周りの人間に言わなかった。クラスメート内だけに留めてくれた。俺が教師を今も続けられているのもそのおかげだ」

「礼を言われる事じゃないです」


 礼なんていらない。誰もその選択肢を取らなかった理由は、至極シンプルなものに過ぎなかったから。


「谷崎道影」


 名前を口にした瞬間、先生の表情から穏やかさが消えた。


 ーー忘れてるわけないか。


「卒業した三年後、彼は死にました。自殺だった。知ってますよね?」

「もちろんだ」

「死因は飛び降りだったそうです。でもそれからしばらく経って知ったんです」

「何を?」

「彼はデッドストックを飲んでました」


 表情を変えず、先生は顎に手を添えた。


「どうしてそんな事を知ってる?」

「たまたまです。噂話程度で信憑性は分かりません」

「噂話?」

「彼はSNSに日記を投稿していました。死ぬ数日前に、こんな記事を残していました」


“もう疲れた。きっとこの時の事を言ってたんだろう。今だったら、正解を知ってもいいかもしれない。はー。DSやってみよっかな”


「ちなみにこの記事は死ぬ前に本人の手でもう消されています。今見せたのはクラスメートが撮った画面キャプチャです」

「DS、ね」

「先生、もう一度聞きます。これは何なの?」


 あの日の春香と同じように、カプセルを指でつまんで先生に見せる。


「何だと思う?」

「分かりません」

「考えたろ?」

「はい」

「だいたいの答えはあるんだろ?」

「はい」

「じゃあ飲めばいい。市川が必要になった時に」


 ぐっと言葉に詰まった。まだ、教えてくれないのか。


「それとも、お前には必要ないか?」

「そうあって欲しいですね」

「その通りだ」

「先生は、いりませんか?」


 先生の言葉が止まった。視線が私とデッドストックを何度か交差する。


「はぁー」


 何度目かで先生は顔を上げ大きくため息をついた。


「めんどくさっ」


 次の瞬間、先生は私の手からデッドストックを奪い取り勢いよく口に放り込んだ。唖然としている私を尻目にぐびっと喉仏が流動し薬が流れ込んでいった。


「これで満足か?」


 にかっと笑った笑顔は、腹が立つほどあの頃のウツミンそのままだった。


「こんなんで死ぬかバーカ」

「え?」

「中身はただのソーダ味の顆粒だ」

「……はい?」

「たまにあるだろ? タバコ型のお菓子とかバカなガキが好みそうなやつ。それと一緒だよ」

「でも、こんなのどこにも売って……」

「ないよ。これは知り合いと一緒に遊びで作ったもんだからな」

「遊び、ですか」

「器用な奴がいてな。職場に道具も揃ってるってんで色々遊びでつくったりした。そん中の一つだ」


 あっけなく答えが発表された。だがそうなると次の疑問が首をもたげた。


「何のために?」


”これから先の人生で、どうあがいても、どうにもならないと、本当に絶望した時、確信した時。その時は、これを開けなさい”


 あの言葉はどういう意味だったんだ。


「お前らの考えた答えを当ててやろうか」


 先生が日本酒の御猪口をくいっと煽った。


「もう死にたいと思った時にこれを飲めば死ねる。デッドストックとはお手軽な安楽死薬。名前も直訳すれば”貯蓄された死”。まあそう考えるだろうな」


 全くもってその通りだ。その通りだったが、信じ切っていたわけではない。一教師がそんなものを用意出来るわけもなければ、ましてや自分の生徒達に渡すわけがない。だからそんなわけがないとももちろん思っていた。何かもっと考えがあるんじゃないか。でもしっくり来るものは何もなかった。


「でももちろんそれはハズレだ。そんなわけがない。今俺は確実にデッドストックを飲んだ。でも死なない。ただのお菓子だ」


 何ともない調子で先生はまた料理をつつく。


「何死んでんだよな」


 耳を疑うような言葉が聞こえた。


「今、何て言いました?」

「谷崎のやつ。何死んでんだよって話」


 まるで心底くだらなくどうでもいいといった調子だった。


「さっきも言った通り、デッドストックで人は死なない。死んだのは谷崎の勝手だ。因果関係なんて一つもない。デッドストックがあってもなくても谷崎は死んでた。いわば運命だな」

「そんな言い方……」

「何? お前あいつイジメてたじゃねえか」


 途端胃袋にキリを突き立てられたような痛みが走った。

 

 ーー分かってたのか。


 知っていて、当時一切そんな素振りを見せなかった。

 谷崎道影はイジメを受けていた。世にニュースで出るような陰惨なものでは全くなかった。だからと言って味方も友達もいなかった。皆が明るいウツミンクラスにおいて、唯一の”暗”で影をつくっていたのはただ一人谷崎だけだった。


「そのせいであいつ孤立してたんだから、俺が友達やってあげてたんだぞ。感謝してくれよな。でもなーー」


 ”あれはダメだ”

 

 刺身を口に運びながら先生は構わず喋る。


「向上心も野心もない。若いのに気概もない。まだまだ生きてみなけりゃわからねぇってのに、じゃれ合い程度の集団生活ですらままならない。遅かれ早かれ見えてるなって思ったよ」


 ――因果関係がないだって?


 どうしてそう言えるのだ。そこまで谷崎と接していたならもはや確信犯じゃないか。先生がやった事は、間違いなく谷崎の背中を押す行為だ。


「お前のせいだって顔してるな」

「違いますか?」

「違うだろ」

「違わないですよ」

「何故?」

「死にたくなる程絶望した時に先生の言葉とデッドストックを思い出す。これで解放されると思って飲んだものが何の効果もないただのソーダ味の錠剤。絶望だと思った先に更に深い絶望があった時、人はどうなります?」

「さあ?」

「先生が分からないわけないでしょ」

「そんな答えを用意したつもりはない」

「つもりはなくても、それが答えだと思うでしょ。谷崎なら」

「あいつ、卒業しても変わらなかったらしいしな」


 まるで他人事だ。彼は、ただのサイコパスだ。


「目的は、何だったんですか?」

「ただのスパイスだよ」

「スパイス?」

「勘違いするなよ。俺は”開けて見ろ”としか言っていない。”飲んでみろなんて一言も言っていない」

「そんなの屁理屈です」

「選んだのはそいつ自身だ。そして選んでも別に支障はない。これの何が悪い?」

「良い悪いじゃなく、どうしてかが分からないんです」

「それを知ってどうしたいんだお前は?」

「気になるからです」

「気になる? それは谷崎の本当の死因か? デッドストックの成分か?」

「だから……」

「谷崎はただの自殺。成分はただのソーダ。目的はただの遊びという名のスパイス。深い意味を勝手に汲み取ったお前には不完全燃焼かもしれないが、全てその程度なんだよ」

「全てその程度……?」

「お前だけなんだよ」

「え?」

「この件にそこまでこだわってるのは」

「でも、他の皆も……」

「他ってのは? 綾乃か? 瀬野か? 箕輪か? わざわざ俺に直接会ってまだこんな事をしてるのはお前だけだぞ市川」

 

 違う。気になっているのは皆一緒のはず。だが確かにこだわってるのは私ぐらいだろう。


「お前じゃないのか」

「え?」

「谷崎殺したの」


 ゾッとするような冷たい声音だった。


「とにかく、これ以上聞かれてもお前が望む答えは出ないぞ」


 会計の札を持ち、先生が立ち上がる。


「待って!」

「何だよ?」


 思わず呼びかけたが、言葉は続かない。何を言えばいいか分からない。


「……いえ、もういいです」

「今日はありがとう。久しぶりに会えて良かったよ」


 襖の向こうへと先生は消えていった。


 ーーさようなら。


 もう会う事はない。

 疑問、疑念は解消されなかった。先生の言葉が全て真実だったとしても、私は何も納得出来ない。

 

 ーー谷崎。


 狂わされた。全てお前に。

 

 ーーお前が余計な事をしなければ。

 

 私は答えを知りたかっただけだ。谷崎のSNSなんてただのでっち上げだ。先生を追及する為だけの素材に過ぎなかった。

 デッドストックは本物だ。私はそれを知っている。目の前で見たのだから。

 谷崎があれを飲んで苦しむ様を。







 


「飲めよ」


 人気のない廃墟の屋上に谷崎を呼び出し命令した。

 あの頃と同じように、私の前では谷崎は震えて何も出来ない。


“谷崎、大丈夫か?”


 谷崎はクラスのお荷物だった。意志が弱く、自発性もなく、それでいて空気も読めない。もともと友達も少ない。見ていて苛立つ存在だった。

 だからこそウツミンは気に掛ける。声を掛ける。世話を焼く。委員長としてウツミンを支えている私なんかよりもずっと。

 

 震えながら袋からカプセル錠剤を取り出す。皆が疑問に思った謎の薬、デッドストック。 気になって仕方がなかった。どうして卒業の日にウツミンはこんなものを配ったのか。


「早く」 


 恐る恐る谷崎が錠剤を口に運ぶ。私の方を涙目で見る。口の中に入っただけで飲み込まれていない。


「飲めって」

 

 こいつはどうでもいい。真実を知りたい。ただそれだけだった。

 ごくりと谷崎が飲み込む。そしてしばらく様子を見た。

 十分程経ったあたりで谷崎に異変が起きた。恐怖の震えではなく、明らかに身体の異常から来る震えだった。


 ーー嘘だ。嘘だ。


 ぐがががが。人語とは思えない言葉と泡が谷崎の口元からこぼれていく。ふらふらとゾンビのように谷崎が私に両腕を伸ばしてくる。


「いや!」


 振り払うと、谷崎はそのまま直進していく。あっと思った時には谷崎の姿は消失し、まもなく地面にぶつかる鈍い音が聞こえた。私は呆然とその場に立ち尽くし、まるで動けなかった。


 ーー本物……?


“ってなわけで! お疲れ皆! 後はお前らの時間だ。今日という一日、そしてこれからの人生、大事に! しっかり! 楽しめ!”


 ーー嘘だよね、先生?


 皆が人生に絶望した時に死ぬ為の薬だなんて、渡すわけないよね。

 そんなはずがないと否定したいのに、つい数秒前にもがき苦しみながら落下した谷崎の姿が頭の中でリプレイされる。


 ーーねぇ、ウツミン。


 ウツミンに会いたい。そう思った。









 内海先生が死んだ。死因は服毒死だった。

 市川成実も死んだ。死因は飛び降りだった。


 死ぬ前に内海先生と成実は二人でとある居酒屋で会っていた。

 内海先生は店を出てしばらくしてから道端で倒れて死んだ。

 成実は自宅のマンションから飛び降りて死んだ。 

 内海先生が飲んだ毒の成分はよく分からなかったが、私からすればそれがデッドストックである事は明らかだった。


『私、ウツミンに会ってみる』


 成実からそんな連絡が来た。谷崎が死んでからしばらくしての事だった。特に返信はしなかった。いつまで先生に歪んだ恋心を持ち続けているのかと呆れた。それから間もなくして事件は起きた。

 あの薬は本物だった。ほどなくしてデッドストックを一緒に作ったという内海先生の友人が逮捕された。調べでは、『ちょっとしたスパイスのつもりで入れた。あいつには内緒ですり替えた』というよく分からない供述をした。


 先生は偽物のデッドストックを作ったつもりだった。結果として本物だったわけだが、それでも先生の意図は分からない。友人が本物の毒とすり替えた理由もよく分からない。


 ”これから先の人生で、どうあがいても、どうにもならないと、本当に絶望した時、確信した時。その時は、これを開けなさい”


 ただこれが本物と分かった今、先生の行動が初めて意味を持った。

 

 ”貯蓄された死”

 

 死にたいと思う気持ちが具現化され、叶えられる薬。でも実際には、望んでいない者にばかり死がもたらされた。


 ”どうあがいても、どうにもならないと思った時”

 

「あや、飯まだかよ」


 夫の乱暴な声が私を呼ぶ。


「今持っていきます」


 結婚生活は思い描いていた幸福のものとは真逆の地獄だった。妻という名の奴隷生活。

 死にたいと何度思ったことか。でも死ぬ勇気はなかった。デッドストックをただじっと何十分も眺めていたこともある。

 

 ーー本物なわけがない。


 これを飲んでも何も変わらない。でももし変わるならーー。

 死の希望は毎日貯蓄されていった。

 でも成実のおかげで希望の輪郭がはっきりとした。その瞬間に答えも変わった。


「またカレーライスかよ。手抜いてんじゃねえよ」

「ごめんなさい」


 言いながらも腹のすいた夫が食事に手を伸ばす事は分かっている。

 夫が目の前ではしたなくカレーライスをかきこんでいく。口元が茶色いルーで汚れている。


「何見てんだよ」

「いえ」


 思わず顔を伏せた。笑いを堪えるのに必死だった。

 

 ーー私が飲む必要ないじゃん。


 初めてあのカプセルを見た時、いつかこれを自分が飲む絵を想像した。そうやって使うものだと決めつけていた。


“でも、飲んだ方が幸せになれる時もあるのかもな”


 箕輪君の言葉はある意味正しかったと思う。少なくともこれで、私の地獄は終わる。


“安心しろ。大人としてのルールは破っていない”


 ーー破ってるよ。


 薬が偽物だろうと、あなたのやり方はルール違反だ。

 大人が子供にやるべき事ではなかった。でもそのおかげで今変えられる現実がある。


“今日という一日、そしてこれからの人生、大事に! しっかり! 楽しめ!”


 今となっては空虚な先生の言葉が、無意味に何度も頭の中で繰り返された。



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