第12話 直談判、そして/心の中の神殿

 長い長い道のりを歩き、マリア、プリスカ、フェベの三人は、エフェソ南西部の山あいにある、ティラノの講堂にたどり着いた。

 そこは、常世の闇に覆われている。一年中、大雨と雷に守られていて、近づく者を容易に寄せ付けぬ。

 …………などという、前々から聞いていた噂話とはぜんぜん違って、普通に、すかっと晴れている。エフェソの夏に似つかわしい、雲一つない青空だ。

 山道をのぼってきた三人は、不意に、秘密の花園のような空間がひろがっている場所に着いて、ひとまずほっとした。そこは、たしかに講堂の庭であるらしい。草木には、人の手が入っている。と言っても、完璧に整えられているわけではない。ある程度は、植物たちの自由に育つままにしてある。

 そして、草木の伸びる広い庭の向こう側に、講堂が建っていた。

 どうやら、古い時代の設計らしく見える。

「立派だわ。ポエニ戦争が終結した頃の建物かしら」

 と、プリスカが、嘆息しながら言った。

 紀元前二世紀以降、ローマ帝国の建築には、ギリシャ芸術の影響が見られるようになった。「征服されたギリシャ人は、野蛮な征服者、ローマ人をとりこにした(Graecia capta ferum victorem cepit.)」という、詩人ホラーティウスの言葉の通りである。

 この講堂は、その頃に建てられたか、あるいは、それより後の時代の建築だとすれば、ヘレニズム文化を憧憬する文化人が設計したのかもしれない。とにかく、立派な建物である。それなりに、手入れも行き届いているようだ。


 しかし、講堂の周囲には、まったく人気ひとけがなかった。

 三人は、互いに顔を見合わせた。

 ──誰も住んでいないのだろうか?

 マリアは思った。ひょっとすると、今いる場所は、ティラノの講堂の裏庭かもしれない。三人とも、ここへ来たのは初めてである。途中で道を間違えて、遠回りをしてしまったのではないか。

 ともかく、マリア、プリスカ、フェベは、庭園を通り抜けて、講堂の前に立ち、順々に、内部へ声をかけてみた。

「すみませーん!! 誰かいますか?!」

「すみませーん!」

「今、ギリシャで一番のモテモテ女!! フェベ様が来てやったでーーーーーーー?!」

 しかし、返事はない。ただの空き家のようだ。


 やがて、三人は、庭の一角で黙々と作業をしている人影に気がついた。この講堂ではたらいている人だろうか。

「あの、すみません!!」

 マリアは、その人の側へ歩み寄った。だが、返事はない。たぶん、聞こえていない。手元の作業に集中していたら、意外と気がつかないものである。

「あの! すみません!! 主の平和シャローム!!」

 と、何度か呼びかけたところで、その人はようやくマリアたちに気がついた。

「なんね!! びっくりしたばい」

 相手は顔を上げ、手を止めて、三人のほうを見つめた。純朴そうなおじさんである。

 マリアが代表して問いかけた。

「失礼します!! ここは、ティラノの講堂ですよね?!」

 すると、おじさんは、またしてもびっくりしたような顔をした。

 ちょっと一呼吸置いてから、

「ああー、そうばい。ここはティラノの講堂ばい。お嬢さんたちは、何しに来たんね?」

 と答えた。

 ──リカオニアの言葉かな?と、マリアは思った。ここは、ある修辞学者の所有する講堂だと聞いていたのだけれど、リカオニア出身の学者が住んでいるのだろうか(無論、リカオニア出身の修辞学者がいても不思議はない)。あるいは、古い講堂のようだし、持ち主が変わっているということもあるかもしれない。

 彼女は、ふと心に湧いてきた疑問を抱えつつ、目の前のおじさんに聞いてみることにした。

「あの。のティラノという方は、ご不在ですか?」

 その途端、相手は突然、ぱっと破裂するように大笑いをした。

暴君ティラノ暴君ティラノっち、そりゃ、わしの若い頃のあだ名ばい!! ……はっはっ、はっはっは!! そんな昔の呼び名をよう知っとるばい!!」

 あ、この人、なんか好きだな。

 ……と、マリアは感じた。どうやら、この庭仕事をしているおじさんが、ティラノと呼ばれていた人物に間違いないらしい。

(面と向かって「異端」呼ばわりなんて、失礼じゃないか?などというツッコミは、この際不要である。どうやら、相手は全然気にしていない。)

 独特の言葉遣いが、なんか、いいな。

 マリア自身は、リカオニア地方に縁があるわけではない。けれど、たしか、アキラの出身地であるポントス州に近いはずだ。かつて、エジプト新王国と対峙したヒッタイトの拠点となったのが、ちょうどそのあたりだと、マリアは知っている。あくまでも知識として、だが。

 アキラは寡黙な青年だが、プリスカと二人でいるときは、純朴そうな言葉遣いで互いに親しく話している。今、おじさんの言葉を聞いて、マリアはそのときのことを思い出した。そしてきっと、プリスカやフェベも、同じことを考えている。

 マリアたち三人は、ティラノのおじさんに来訪の目的を伝えた。パウロがここに滞在していると聞いて、お見舞いに来たこと。マリアには、パウロに謝罪すべきことがあり、そのために来たのだということ。

 そうしたら、

「入り、入り! パウロくんは寝とるよ。いや、もう起きとるかもしれんね。とにかく、さあ、入り、入り! ……スイカ冷やしとくけ、!!」

 と、ティラノのおじさんは、気前良く三人を迎え入れた。

 マリアが大事そうに抱えていたスイカは、おじさんがひょいと取り上げて、庭の一角にある泉の水で冷やされた。ここは山あいだが、井戸水が使えるらしい。

 三人は、ほっとしていた。なんだ、とっても優しいおじさんだ。暴君だなんて、それは昔の話じゃないか。


 裏口から講堂の中に入ると、内部はちょっと薄暗い。ずっと明るい青空の下を歩いてきたから、目が慣れるのに少し時間を要した。室内は、心持ち涼しく感じる。

 三人は、ティラノのおじさんに導かれて、講堂の廊下を進んでいった。

 建物の中に入ると、外観からはわからない、この講堂が見えてきた。内壁には、極彩色の塗料が自由自在に塗られている。たぶん、これは、子どもたちの作である。

「この講堂には、──」と、プリスカが、ティラノのおじさんに問いかけた。「普段は、子どもたちがいるんですか?」

「そうたい! 今は夏休みで、みんな故郷くにに帰っとるよ」

 おじさんは、歩きながら、この講堂のことを話してくれた。ここは、帝政期ローマでもちょっと珍しい、自由教育を取り入れた学校として運営されている。自由教育は、受験のためではなく、立身出世のためでもなく、ただ、子どもたちのありのままの感性を伸ばすことを目的とする教育である。

 ただし、一切の宣伝をしていないので、ここは、一般にはあまり知られていない。「一年中雨雲に覆われている」という噂は、冷やかしで子どもを入学させようとする人々を嫌って、ティラノのおじさんが自分で流布したものらしい。

 内壁のカラフルな彩色は、子どもたちが、自由に、思うがままに、自分たちで色をつけたものだそうだ。

 学校運営に携わっているプリスカは、おじさんが話してくれた「自由教育」という言葉に、少なからず興味を示したらしかった。


「さあ、ここばい!」

 と、おじさんが部屋に通してくれた。

 中に入ったマリアたち三人は、思わず、息を呑んだ。

 目に入ってきたのは、包帯でぐるぐる巻きにされ、ベッドに横たわっている、哀れなパウロの姿であった。

「パウロ!! どうしてこんな……?!」

 マリアは、パウロの身体に思わず縋りつこうとした。パウロ!! パウロ!! まるで、エジプト人がつくる不朽体ミイラみたいだ。

 ミイラ男、パウロ。……可哀想に! 生きながら不朽体になって!!

 動揺するマリアに、ティラノのおじさんがそっと耳打ちする。

「大丈夫ばい。ほうっといたら、また伝道の旅に出てしまうけ、ベッドにくくりつけとるんよ」

 本当は、たいしたことないらしい。

 ……な、なんだ。そうか。そうなのか(笑)。

 みんなが騒いでいるうちに、パウロは目を覚ましたようだ。彼は、ミイラ男状態のまま、ベッドの上ですっくと上半身を起こした。

「あー、よく寝た……あれ、みんな来たのか? 騒々しいのはマリアかな?」

「そうよ! わたしがマグダラのマリア! プリスカもいるわ」

、フェベ様も来てやったで!!」

 フェベが、さっきの決まり文句をもう一度言った。大事なことなので、二度言ったのだろうか。

 これまでのドタバタはつゆ知らず、パウロ本人は、ぐっすり眠っていたらしい。

 ティラノのおじさんは、「お菓子もってくるけ、待っとき」と言い、部屋から出ていった。しばし、ベッドの上のパウロと、マリア、プリスカ、フェベだけの時間である。

 人懐っこいフェベが、ベッドの上に半分乗っかって、

「よっ!! パウロ!! ミイラ男!!」

 と、声をかけながら、パウロの身体をポカポカ叩く。軽〜く叩いているつもりらしいが、彼女は全地最強の存在である。パウロは、たちまち「くはー……」と言って、気を失ってしまった。


 しばらくして、パウロは再び意識を取り戻した。

 マリアは、ついに覚悟を決めた。──パウロに言いたいことがある。そのために、直談判するために、ここまで来た。

 さあ、言うべきことを言ってやろう。わたしは、主張しなければならない。第一の使徒、女性奉仕者の代表として。こころおきなく、ものを言うのだ。

 マリアは、もう一度、パウロの姿をじっと見つめた。包帯ぐるぐる巻きのパウロは、やはり痛ましい姿である。──なにやら、悪い物が、マグダラのマリアの耳元で囁いた。さあ、マリア。パウロは衰弱している。今ならば、奴を×△ボコスカにできるぞ。

 しかし、もう一人、別の声が聞こえてきた。

「マリア、マリア、……」

 それは、天使か? いや、違う。心のうちに響いてきたのは、聞き慣れた女性の声であった。

「マリア、……あなたには、正しいことを見定める心があるはずです。どんなときでも、自分自身の声をしっかり聞いてください」

「マリア、マリア、……」

「マリア、どしたん……?!」

 と、すぐ側で、誰かが語りかける。プリスカとフェベが、マリアを見ている。

「なあ、マリア。パウロに言いたいことあったんやろ? この際、ガツンと言ったれ!!」

「マリア、勇気を出して」

 二人が促す。マグダラのマリアは、もう一度、包帯ぐるぐる巻きのパウロの姿をじっと見た。


 ようやく、マリアは口を開いた。

「パウロ、……」

 しかし、彼女の口から出てきた言葉は、彼女自身のまったく予想しないものであった。

「パウロ。……今はしっかり休みなさい。大丈夫、今は何にも心配しなくていい。あなたは大丈夫。絶対に大丈夫。少し休めば、前よりもずっと勇敢に、再び宣教の旅に出られるわ」

 そして気がつくと、マリアは、包帯ぐるぐる巻きのパウロの手をとり、しっかりと握りしめていた。

 マリアは、実際のところ、自分が何を言おうとしているのか、自分でも、よくわからなかった。

 でも、なんとかして病床のパウロを勇気づけようとする言葉が、自然に、口から出てきた。

 パウロは、黙っていた。

 しかし、マグダラのマリアの言葉に、しっかりと耳を傾けている。

 彼女はつづけた。

「パウロ、……わたしには、未熟なところがあるけれど、あなたと同じ志を持っている。エフェソの教会は、あなたと一つ。主にあって一つ。わたしは、あなたと共にいる。だから、大丈夫」

 その時、マグダラのマリアは、今、自分の語っている言葉が、いつか母マリアの彼女にかけてくれた言葉であることに気がついた。そして、それは主ご自身の言葉でもあった。わたしは、あなたと共にいる。──そうだ、主は、いつも、わたしたちを励ましてくれた。

 今や、彼女自身の主張、彼女自身の感情は、どうでもよかった。面と向かって、パウロと話しはじめてみたら、自分のことなんて、どうでもよくなっていた。彼は、弱っている。今こそ、わたしが、他者を励ます番なのだ。

 マグダラのマリアは、口下手なりに、パウロを勇気づけようとした。実際、彼女の語る言葉は、つたなかった。聖母や、主ご自身のなさるようには、できなかった。それでも、彼女は、彼女なりの誠意を尽くした。


「それを言うために、……」

 と、パウロが不意に声を漏らした。今までは、マリアの言葉をただ聞いているだけだったパウロが、今度はものを言う番だ。

「それを言うために、君は、ここまで来たのか?」

 包帯ぐるぐる巻きのせいで、パウロの表情が見えない。マリアは、もしかして、パウロはものすごく怒っているんじゃないか、と身構えた。

 マグダラのマリアが仲間たちに送った臨時招集のせいで、エフェソのキリスト教会の中に、分派工作が行われているとの悪い噂が広がってしまった。真面目なパウロは、やっぱり怒っているんじゃないか。マリアのしたことに対して。

 そうだとしたら、今、マリアが語った言葉は、結局のところ、彼女の独りよがりな気持ちによるものであったかもしれない。

 あるいは、快眠を邪魔されて、パウロは単純に怒っているかもしれない。

 いろいろな悪い感情が、再び、マリアの心に湧き上がった。

 ──でも、大丈夫。

 マリアは、まだ、パウロの手を離さなかった。

 こんなことをしたのは、初めてだ。でも、彼女は、かつて主が人々にしてくださったのと同じように、パウロの手を握っていた。

 そこへ、プリスカとフェベが、横からフォローしてくれた。

「パウロ、マリアは本当にがんばったのよ」

「せやで!! こぉーーーんな、でっかいスイカ持ってな!! パウロのためやで!!」

 フェベは、大袈裟な身振りで、ドデカスイカの大きさを表現しようとしている。たぶん、パウロは顔面包帯ぐるぐる巻きで、よく見えていない。だが、二人はそんなことも気にせず、ポーズ付きで、ショートコントみたいなことをはじめた。


 プリ「数えきれない試練を乗り越え、……」

  フェ「マグダラのマリアは、やってきた!!」

 プリ「パウロに会いに来るために」

  フェ「世界の平和を守るために!!」


 こないだ、あんなに王様ゲームを恥ずかしがっていたプリスカが、ちょっとだけ、はっちゃけている。いつもの彼女では、ありえない。

 もちろん、二人は、巫山戯ふざけているわけではない。親友のことを想って、身体を張ってくれているのである。パウロの気持ちをやわらかくするため。そして、マリアの言葉が、彼の心に届くようにするため。身体を張って、場を盛り上げようとしてくれているのだ。

 オチのないコントが繰り広げられているが、二人の挙動が面白い。絵的にシュールで面白い。


 そして、コントは終わった。(最後の最後に、初代キリスト教会の権威を揺るがしかねない、衝撃のネタが披露された。が、その内容を明らかにすると、聖なる聖なるプリスカのキャラが大崩壊してしまうから、ここには書かないことにしよう。ともかく、親友をおもんぱかるプリスカとフェベの身体を張った即興コントは、無事に終わった。)しばし、部屋の中に沈黙が降りた。

 やがて、パウロは、

「そうか、そうか。──」

 と、呟くように言葉を発した。プリスカも、フェベも、一瞬、黙った。パウロの言葉を、待っている。

 しばらくして、彼は言った。

「君たちは、そうまでして、ここに来てくれたのか。そうまでして、会いに来てくれたのか。

 マグダラのマリア、プリスカ、フェベ。君たちは、本当に、……本当に、……良い奴だったんだな」


 ………………………


 良い奴だったんだな。

 パウロの口から発せられたこの言葉が、マグダラのマリアの悪い予感をすべて裏切り、三人の心に届いた。

 マリアは、ちょっと無言のまま感激していた。そして、パウロの手をもう一度強く握りしめて、言った。

「そうだよ!! みんな良い奴だよ!! プリスカも、フェベも、本当に良い奴でしょう? みんな、本当に、本当に、わたしの大切な友達だよ!! そしてパウロ、あんたもだよ!! あんたも、わたしの大切な友達だよ!!」

 パウロは、なんだか反応が薄い。でも、それもきっと、彼の個性だ。マリアは、彼にしっかり言葉が届いていることを確信している。

 彼女は、つづけた。

「だから、パウロ。元気になったら、また一緒に伝道しよう」

 彼女は、強く握りしめたてのひらに、念を込めるようにして、言った。──一緒に伝道しよう。この言葉は、彼女の本心そのものであった。眼前のパウロにとっては、福音伝道こそが、何よりも増して大切なことである。その一点において、彼とマリアとのあいだには、少しも異なるところはない。互いに違いはあっても、大事な大事な一点においては、一致できる。協力できる。だから、早く元気になってほしい。そうしたら、一緒に、福音宣教のために邁進できるにちがいない。マリアは、パウロに言葉をかけながら、そんなことを考えた。そうしたら、

「うん、しよう」

 と、パウロが、短く答えた。

 マリアは、心の中で、主に感謝した。

 パウロは言葉少なだが、この言葉だけで、十分だった。彼女は、心の中で実感していた。──やっぱり、他者としっかり向き合うこと、話をすること。それこそが、何よりも増して、大切なことだったのだ。「第一の使徒」を自認するマグダラのマリア自身の傲慢や虚栄心が、大切なことを見えなくしていたのだ。


 ちょうどそこへ、ティラノのおじさんが部屋に入ってきた。スイカを人数分に切り分けて、お皿に載せて、持ってきてくれたのである。

「よかったばい! よかったばい! マリアさんとパウロくんは、仲直りの名人ばい!」

 おじさんも、よろこんでいる。……ティラノのおじさんはきっと、最初から、マグダラのマリアとパウロが和解することを見越していたのだろう。そうでなければ、こんな絶妙のタイミングで現れまい。

 この流れで、みんな一緒に、スイカを食べることにした。

 タマルが育ててくれたスイカは、果肉の黄色いスイカである。当時、ローマ帝国の時代に流通していたスイカの多くは、そうであった。後の品種改良によって、より糖度の高い、赤いスイカが作られるようになる。

 夏といえば、スイカ。──そう言われるようになるのは、ずっと後世の話である。だが、このとき、この瞬間は、ティラノの講堂に集まったみんなにとって、まぎれもなく、最高の夏であった。


「ありがとな!! ティラノのおじさん!! スイカ冷やしたら最高やな!!」

 と、フェベが親しげに語りかける。すると、おじさんは照れながら、

「その暴君ティラノっち言うの、やめんね! そうとう昔のあだ名ばい。今の名前は、っち言うばい!!」

 おじさん、なんか反応リアクションがかわいいぞ。

 ともかく、ティラノ改め、イグアノドスのおじさんは、みんなが再び仲良くなれたことに、すっかり安堵してくれていた。

 スイカやお菓子を食べながら、マリアは、パウロとのこれまでの経緯いきさつをおじさんにも説明した。

 かわりに、イグアノドスのおじさんは、どうしてエフェソの山あいで自由教育の講堂を運営しはじめたのか、理由を聞かせてくれた。

「昔、わしはスパルタ式の教育をしよって、生徒たちにも恐れられた。だが、管理主義の古い教育は、現代の多感な青少年にはふさわしくない。……それで、わしは改心した! 自由のための教育、一人ひとりの個性を伸ばす教育に、全生涯をささげることにしたんよ」

 人に歴史あり、である。聞けば、イグアノドスはスパルタの出身で、若き日には、アテネの学堂で修辞学を教えていたそうだ。しかし、自分自身の視野の狭さ、青少年に向き合うことのできない自分自身の限界を痛感するに至り、新天地を求めてアナトリア半島を旅した。そこで見知った出来事をきっかけに、「暴君ティラノ」と呼ばれたかつての自分を捨て、私財を投じて、エフェソの山あいで自由の講堂をひらくに至った、ということだ。彼がリカオニアの言葉を喋っているのは、このときの経験、このときの人々との出会いを忘れぬために、「スパルタ人の自分は死に、アナトリアの人間として生まれ変わった」という強い決意により、後天的に習得したのだそうだ。

 おじさんの話を聞いて、自らも学校に適応できない多感な時期を過ごしたことがあるプリスカは、本当に感激したようだった。

「イグアノドスのおじさま、あなたは、本当にすばらしい教育者です。ぜひ、わたしにも、あなたの講堂の運営に協力させてください」

 突然、目の前のが慈善家みたいなことを言い出したから、おじさんは「はて?」という顔をした。

 そこへ、すかさずフェベが解説を加える。

「この子プリスカやで!! あの、プリスカとアキラの家の教会の!!」

「……ええっ!! あなたが?! あの、ローマの名門アシリアン家の一人娘、プリスカ様?!」

 プリスカ、という名前を聞いたイグアノドスは、びっくり仰天している。

 いかにも、プリスカは、ローマの名家の生まれ、哲人政治家セネカの忠臣の娘である。ローマ帝国の全土において、彼女の名前を聞いて平伏ひれふさぬ者はいないのである。だが、プリスカは、即座に言った。

「様、は不要です。わたしは、一人の天幕職人です」

 これは、彼女の本心である。純真なプリスカにとって、アキラと、家の教会の仲間と共に労働に励む日々こそが、いかなる富や名誉にもまさる宝物にほかならなかった。だから、彼女は、普段は自分の家柄について一切口にしない。──一人の天幕職人。日ごとの糧を得ながら、最愛の人と幸せに暮らす天幕職人。それこそが、真面目なユダヤ青年に恋をして、すべてを棄ててキリスト・イエスを信ずる道に入った、彼女のあるがままの自己認識にほかならないのだ。

 ……が、プリスカは、最後に少々、浮世離れした言葉を付け加えた。

「イグアノドスのおじさま、わたくしとあなたの理想は、完全に一致しています。さっそく、あなたが運営する自由の講堂に、五〇タラントンの寄付をするよう手配しましょう」

「ご、……五〇タラントン?!」

(※当時、五〇タラントンといえば、小都市の年度予算に匹敵する金額である。)

 

 太陽は、何万年前と同じように、そして何十万年と同じように、飽きもせず地球の東から出てきて、天空を西へ動いていた。

 マリア、プリスカ、フェベの三人は、イグアノドスに別れを告げ、自由の講堂をあとにした。プリスカの寄付金のおかげで、さっそく玄関には琥珀灯エーレクトロンのオレンジ色の光がともっている。

 さっきまでベッドに寝ていたパウロも、包帯ぐるぐる巻きのまま、玄関まで出てきて、みんなを見送った。

「さようなら、マリア、プリスカ、フェベ!」

「またいつでもんね!」

 パウロと、イグアノドスが手を振っている。マリア、プリスカ、フェベもまた、二人に手を振り返した。

「さようなら、また会いましょう!」

「主にあって、よろしく!」

「パウロ!! ケンクレイにも来てな!! テルティオが会いたがってるで!!」

 

 今度は、自由の講堂の正面から、エフェソの市街地を目指す。行きの道より、ずっと早い。日が暮れるまでに帰れるかもしれない。街は、すっかりお祭りの雰囲気である。

 ──エフェソ人の女神、アルテミスは偉い方!

 ──エフェソ人の女神、アルテミスは偉い方!

 遠くから、祭囃子が聞こえてくる。男も女も、わっしょいだ。

 ここエフェソには、実に多様な人々が暮らしている。世界中から、仕事のために短期滞在している人々もいる。だから、お祭りの夜ともなれば、本当にさまざまな声、さまざまな言語が、街中を飛び交う。人々は、それぞれの言葉で、それぞれの神の名を讃えている。

 三人は、喧騒の中を歩きながら、小声で「ハレルヤ、ハレルヤ、……」と歌った。

 マリアは、心の中で思った。──今日のことは、ずっと忘れないだろう。自分のために、フェベとプリスカの二人がわざわざ時間をとって、一緒にいてくれたこと。パウロとしっかり向き合って、気持ちを伝えられたこと。そして、プリスカの決断によって、今日、エフェソの山あいで、自由教育の新時代、子どもたちを主役とする、一人ひとりの個性をはぐくむ教育の新時代がはじまったこと。見よ、すべてが良い日であった。「あの講堂に行けば、帰ってこられない」というルカの言葉は、真実であった。パウロから、イグアノドスのおじさんから、そして、出かけるときに見送ってくれた家の教会のみんなからも、本当にたくさんのものを受け取って、三人は、今、未来へ向かう一歩一歩を踏み出している。


「なあ!! 三人で手繋いで歩こ!! うちらが世界の主役!!」

 フェベは上機嫌である。夕暮れ時のメインストリートを、三人は、悠然と往く。太陽の光を背に受けて、彼女たちの影が大きく伸びる。まさしく世界は、彼女たちを中心に廻っているかのようだった。

 遠くの空に、大きな雲が見える。まるで、天上の神殿である。それは、彼女たちの心の中にある、大きな理想そのものであった。彼女たちは、雲のほうを目指して歩いた。まるで、今、この地上には、彼女たちにかなうものなどいないかのように。

 賑やかな道沿いを歩きながら、今度はプリスカが提案した。

「ねえ、お土産を買って、家に着いたら、またみんなで夜まで話そう?」

「せやな!! こないだの恋バナのつづきしよ!! ……せや!! 今度はマリアに質問!!」

「えっ、なになに?」

 マリアは、急な無茶振りにちょっと慌てた。フェベは不敵な笑みを浮かべている。

「ふっふっふーー!! どうせやし、今聞いてまえ笑笑 ……なな!! マリア!! (ちょっと小声になって)…………結局、先生ラボニとは、どこまで進展したん?!」

 およよ、そうきたか。

 フェベは本当に恋バナが大好きだ。でも、その答えは、先生とマリアだけの秘密である。

「なあなあ!! おせえておせえて!! プリスカも聞きたいやろ?!」

「……うん笑」

「まじか笑 んー、────それはね……!」

 と、マグダラのマリアは、何となくはぐらかした。


 こうして、彼女たちの小さな夏の冒険は、ひとまず終わりを迎えつつあった。

 だが、もし、キリスト教会の中で、ひいては、全世界のあらゆる場所で、性別、年齢、宗教、言語、民族、国籍、肌の色、その他の理由によって、不当な差別や非人間的な取り扱いが行われたとしたら、──

 そのたびに、彼女たちは、何度でも立ち上がる。彼女たちの Sisterhood ──すなわち、女性同士の連帯は、あらゆる時代の人々に訴えかけ、ときに異議申し立てをする。たとえ、千年、二千年経ったとしても。

 彼女たちは、信じている。社会的正義は、時代を超えて、普遍なのである。

 マグダラの才女マリア。ローマの名門アシリアン家の一人娘プリスカ。そして、全地最強最速にして、ギリシャ一番のモテモテ女(?!)ケンクレアイのフェベ。

 ──彼女たちの本当の戦いは、これからだ。(次回作へつづく)

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GIRLs! 〜新約聖書の裏庭〜 倉井香矛哉 @kamuya_kurai

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