第11話 ティラノの講堂へ

 明くる日。──

 昨日の大雨は何だったのだ? あれは悪夢か?!と言わぬばかりに、本日は快晴である。

 プリスカとアキラの家の教会の前には、パウロのもとへ向かうマグダラのマリア一行を見送る人々が、おおぜい集まっていた。

 これからティラノの講堂を目指すのは、マリア、プリスカ、フェベの三人である。家の教会に集う人々は、彼女たちの出発を前に、束の間の別れを惜しんだ。

 まさか、永遠の別れとはなるまい。しかし、ティラノの講堂に行って、帰ってきた者は、これまで一人もいないのだ。だから、人々は、三人のことを思い、一心に身の安全を祈っている。

 プリスカとアキラは、すこし離れた場所で、誓いの言葉を交わしている。

 この二人が、過去にどんな苦難を乗り越え、互いの社会的階級を超えて、一途に、愛を成就させたか。……そのことは、エフェソのキリスト教会の誰もが知っている。コリント、ローマ、そして、全地にひろがるキリスト教会の誰もが知っている。後年、ローマ帝国の支配体制を根幹から揺るがせることになるのは、まさに、二人の愛の結実としての、教会の絆にほかならない。

 やがて、初代キリスト教会は、苛烈な殉教の時代を迎えることになる。皇帝ネロの治世において。

 しかし、たとえ死や苦しみが二人を引き離そうとも、このとき、この瞬間、二人が愛し合った事実は、永遠に、語り継がれなければならないだろう。


「さようなら、マリア! 君とはもっと話がしたかったよ!」

 使徒ヨハネが、まるで永遠の別れのようなことをさらっと言う。彼は、マリアにとって数少ない、男の子の友人だ。二人は知り合ってから長いし、ヨハネの言葉が冗談だということは、みんなわかる。それでも、マグダラのマリア自身は、ちょっとだけ不安を感じた。

 今日は、お手伝いさんたちも勢揃いだ。ビルハとジルパ、二人の幼い妹ディナ、ハガル、そして、タマル。彼女たちの後ろには、先日、マリアに心からの忠告をしてくれた、青年エパイネトもいる。

 マリアは、幼いタマルに歩み寄った。そして、背を低くして、語りかけた。

「タマル、そしてみんな。このあいだは、ごめんなさい。わたしのせいで、……」

 マリアは、自分の不手際でお手伝いさんたちに迷惑をかけてしまったことを、ずっと気にかけていた。彼女は、もっと早く、みんなに謝りたかった。そうすべきだったと思っている。

 しかし、タマルは、全然気にしていない様子だった。

 彼女はにっこり笑って、言った。

「いいの! マリア、フェベと、いっぱいあそんで、ありがと」

 少女らしい、でも、心のこもった言葉を聞いて、マリアは、胸がからきゅんとなった。──タマルは、とても幼いのに、自分のことより、フェベやわたしのことを気遣ってくれている。

 何という、純粋な心の持ち主なのだろう!

 こんな優しい子が、かつて、家庭の不幸によって、奴隷市場で売りに出されていたということは、驚くべき運命の悪戯だ。

 マリアは、お手伝いさんたちの笑顔を、一人ひとり、しっかり見つめた。本当に、みんな、プリスカの家で働けてよかった。

 彼女が感極まっていると、ビルハとジルパが、大きなスイカを二人がかりで掲げて、

「マリアさん! これ!! 持ってってください!!」

「タマルが育てた、ですよ!!」

 ほんとにデカい。まさに、ドデカスイカだ。なんかすごい。

 プリスカの家庭菜園では、野菜や果物を育てるだけでなく、より良い品種をつくるための研究を行っている。この時代のスイカは、どちらかと言うと水分の貯蔵や薬用のために栽培されていたが、プリスカの菜園でタマルたちが育てたスイカは、夏の甘味としても非常に優れている。

 お手伝いさんたちは、マリアの不手際を責めることなく、むしろパウロのためにと、最高の贈り物を用意してくれていた。

 このことも、マリアの心を一杯にした。

 ──与える愛だ。

 彼女は思った。この気持ちに、絶対に、応えなければならない。


 やがて、三人は、出発の時間を迎えた。ティラノの講堂へは、徒歩で行く。エフェソの街は、ちょうど祭りの日を迎えていた。馬車の通行は規制されている。

 でも、大丈夫。──マリアは確信していた。みんなが見送ってくれたから、絶対に大丈夫だ。


 ……

 …………

 ……………………


「なあ、マリア。大丈夫?! スイカ、うちが代わりに持ってやろか?」

 フェベが心配して、マリアに言いかける。真夏のエフェソは、灼熱地獄だ。スイカは重い。しかし、マリアは首を振った。

「駄目よ。……このスイカは、……パウロを……精神的に追い詰めた、……わたしが負うべきくびきなの。…………十字架を背負い、……ゴルゴタの……丘を歩いた主に……倣って、…………わたしは、……わたしの重荷を負い、…………他者の痛みを……自分のものとすることが、…………必要なの! …………絶対に! …………絶対に、…………」

 やや大げさに言っているが、マリアは本気だ。プリスカとフェベが手伝いたくても、マリアの決意は固い。

 ──タマルが育ててくれたスイカは、絶対に、わたしがパウロに手渡さなければならない。

 一度決めたことに対して、マリアは、かなり依怙地であった。


 ……

 …………

 ……………………


 だが、ティラノの講堂は、徒歩ではあまりに遠い。一時間以上かかる上に、途中からは山道である。

 大きなスイカを抱えて歩くのは、無理があった。


 エフェソの市街地から、もうずいぶんと離れてしまった。しばらくのあいだは、太陽の光の下、オリーブの木が生えている荒れ野の道をずんずんと歩いていく。

 ──だめだ、限界だ。

 ────いや、あきらめてはだめだ。……うおお、

 マリアは、ものすごい形相である。ちょっと男の人には見せられない。スイカは重い。腕がもげる。ティラノの講堂へは、まだまだ長い道のりだ。

「マリア、がんばって!」

「フレー!! フレー!! ド根性やで!!」

 プリスカとフェベが声援を送る。二人の声がきこえるたび、必死の形相のマリアも、一歩、もう一歩、……と、まだまだいける気がしてきた。

 大丈夫、諦めない。

 マグダラのマリアは、不屈の信念の持ち主であった。大丈夫。今は、親友が二人、わたしと共にいてくれるのだ。

 一歩、もう一歩。着実に、前に進んでいく。

 マリアには潔癖症なところがあり、今朝は、パウロに会うためにお風呂に入った。だが、この猛暑では、汗がふき出る。全部台無しだ! でも、負けるものか! 負けるものか!

 しばらくして、プリスカが行く手を指差しながら、

「マリア、よくがんばったわ。あの大きいオリーブの木かげで、休みましょう」

 と提案した。


 プリスカが、持参していたシルクの生地で、即席のテントをつくってくれた。たすかった。木かげは、すこし涼しい。昼食と飲み物もある。かたいパンに、野蜜、そして、塩デーツ。お手伝いさんたちが、三人分、しっかり準備してくれていた。

 実のところ、マリアは、何の計画もなしに、ティラノの講堂へ出発してしまっていた。もし、彼女一人で来ていたら、途中で心が折れて、戻ってしまったかもしれない。

 マリアは、あらためて、親友の存在を心強く感じた。


 フェベとマリアが食事をしているあいだ、プリスカは一人、見晴らしのよい離れた場所へ行き、風を見ていた。彼女が手をかざすと、小鳥が指先に舞い降りた。

 プリスカには、どこか不思議なところがあり、まるで生き物の言葉を理解しているかのようであった。

 しばらくすると、彼女は二人のもとへ戻ってきて、

「大丈夫。この道を行けば、たどり着けるわ」

 と言いながら、ドデカスイカをひょいと持ち上げた。

「今度はわたしに交代ね」

「え、でも……」

 マリアは、ちょっと逡巡した。

 パウロに届ける。自分の手で。……と、決意していたのだが、正直なところ、ちょっと気持ちが揺れていた。そんな彼女の内心を読み取ったかどうか、プリスカは言葉を加えた。

「大丈夫よ。一緒に行くって言ったでしょ。重荷は分かち合いましょう」

「ほな、その次、うちに交代な!! キレネのシモンが二人もおるで!!」

 フェベものっかってきた。結局、そこから先は、三人で交代しながらスイカを運ぶことにした。

 プリスカは、普段、家のことを何から何まで担っているから、華奢な見かけによらず、体力がある。コリントとエフェソの家の教会は、彼女が全責任を負っている。スイカ一個ぐらい、何ということもない。

 フェベなんか気楽なもので、他の二人なら両手で抱えるスイカを人差し指の上でくるくる回している。本人いわく、

「地球の自転とうまく調和をとれば可能」

のが大事(?!)」

 とのことだが、真偽のほどはわからない。さすが、全ローマ最強にして最速の存在である。

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