第10話 ルカの所見/マリアはパウロに謝りたい
初代教会の時代、ローマ帝国領内の都市部で生活するキリスト信徒たちは、
インスラは、ラテン語で「島」を意味する。五、六階建ての構造物であり、主に住居向けの賃貸物件である。人口の密集する都市部には、多くのインスラが建てられた。だが、不動産投資を目的として建設されることも多く、家賃収入の回収を優先した結果、住環境の良くない物件も多かったと言われている。
エフェソのキリスト者たちの多くは、プリスカとアキラが管理する住宅で生活していた。彼女らの管理物件は、頑丈なコンクリート建築で、耐震対策を重視していたから、比較的裕福な中流層からの人気も高かった。だが、二人は不動産収入よりも、キリスト者や社会的弱者の居住福祉を優先した。特に、NGOや学校運営の経験が豊富なプリスカは、不動産の経営を非営利事業の一環として位置づけていた。その結果、コリントやエフェソに点在する「
マグダラのマリアは、丘を駈け降り、たった今、エフェソの北の郊外にあるインスラの一つに辿り着いた。
──息が、切れている。
────たくさん走ったからだ。
彼女は、建物の入り口の外に立って、しばらく呼吸を整えた。
ここは、「うみかぜの学寮」と呼ばれている。竣工当時は美しい外観だったが、現在は、名前とは裏腹の、殺風景な男子寮である。
プリスカは、「学生たちの生活する寮は、学生たち自身の自治寮とすべき」と考えていて、運営方針や施設管理に関しては、多くを口出ししないことにしている。それもあって、この学寮は、若者たちの熱意と社会的関心の高まるままに、政治難民やマイノリティ、さまざまな事情で社会的弱者となっている人々の
マリアは、玄関の中をちょっと覗いてみた。ここには、一応、女子禁制というルールがある。
「あの、誰かいる?」
問いかけてみたが、返事はない。みんな出かけているのだろうか。呼吸が乱れているせいか、心臓がバクバクする。
そのとき、ちょうど小雨が降り始めた。マリアは、しばらく雨宿りさせてもらうことを理由に、男子寮の玄関の中へ、一歩、足を踏み入れた。
もう一度声をかけてみたが、やっぱり、誰からも返事はない。
……と、思いもかけぬ方向から、食堂のおばちゃんがにゅっと出てきた。
「どうしたんだい」
「あ、すみません。……わたし、パウロに用があって来ました」
マリアは、突然顔を合わせた相手を前に、ちょっと緊張した。インド風の顔立ちのおばちゃんは、マリアのことをまじまじと
しばらくして、おばちゃんは言った。
「異性間の交友は、一応、あたしが止めることになってるんだけど」
「あの。わたし、パウロに謝ることがあって、急いで来たんです」
マリアは、これまでの経緯を手短に説明しようかと思った。しかし、ちょっと話がややこしい。とにかく、正式に彼に謝罪したい、という一点だけを伝えることにした。
幸い、食堂のおばちゃんは、事情をだいたい理解してくれたらしかった。
「そうかい、そうかい。しかし、彼はここにはいないね」
「ここではないんですか?」
「ああ、詳しいことはルカに聞きな。彼が寮長で、ここの責任者だ」
しばらくして、奥のほうから、長身の男子が姿を現した。少し陰鬱そうな表情で、やや前屈みの姿勢で歩いてくる。ルカその人である。
彼は、マリアのそばまで来ると、立ち止まり、彼女の顔を一瞥した。が、しばらく何も言わなかった。最初の言葉を考えているようでもあった。
マリアは、じつは、ルカのことがちょっぴり苦手だ。そもそも、彼女には、男子の友だちが多くない。ルカは、身体が大きくて、目の前に立っているだけで、なんだかとても威圧感がある。一人っ子で、どちらかというと女系家族の中で育てられたマグダラのマリアにとって、男子という存在は、厄介な〈他者〉にほかならなかった。いつも、とてもかかわりづらく、彼女の苦手とする存在だ。マグダラのマリアには、ちょっとだけ、
やがて、ルカは短く言葉を発した。
「君の来ることは予想していた。マリア、入り給え」
「え、でも、──」マリアは、困惑している。「ここは、女子禁制じゃないんだっけ?」
彼女は、一応、第一の使徒。そして、女子寮の監督者である。自ら決まりを破るなどとは、……と、
「あっは。あんた、馬鹿だねえ。そういうのは建前ってんだ。談話室があるから、使いなさい」
奥の談話室に通されたマリアは、しばらくの間、立ち尽くしていた。
──男子寮か。
────なんだか、居心地がとっても悪い。。。
食堂のおばちゃんは、「あたしが入構を許可したと言えば、あんたが咎められることはないよ」と言っていたが、そういう問題は別として、普段は絶対に入ることのない場所である。
ルカに促されて、彼女は、ひとまず椅子に腰かけた。慌てて持ってきてしまった香油壺を、ひとまず足元に置いた。
そして外は、大雨である。
ルカは、背中で手を組み、部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。残酷なほどに、居心地の悪い時間である。無言の時間。……
そのあいだ、マリアの脳裏には、さっきおばちゃんが屈託もなく口にした「あんた、馬鹿だねえ」という言葉が残響していた。
馬鹿。──それは、マリアが一番言われたくない言葉の一つだ。
こう見えて、彼女はかつて、ガリラヤ模試の成績優秀者第一位の常連であった。何度も表彰され、後輩の前で学生代表として講演したこともある。彼女が
──誰にも、馬鹿だなんて言われたくない!
────でも、今はそんなことを言っているときではない。
しばらくして、ようやくルカは話しはじめた。
「時間がないので簡潔に説明しよう。マグダラのマリア、君が書いたパウロに対する異議申し立ての文書は、現在、ここエフェソのキリストの教会全体に、大きな影響を及ぼしている。端的に言えば、悪い影響だ」
……なんだか、官僚か、ローマ総督か何かのような物言いだ。マリアは、こういうルカの言葉遣いが苦手なのだ。だが、今は無論、そのことを言ういとまはない。
彼は、つづけた。
「目下、パウロは病者となっている。医者としての僕の所見だが、彼の状況はよくない。そして、マリア。パウロは君に会いたくないと言っている」
「会いたくないって……?」
「そうだ。それで、今は別の場所で安静にしている」
マリアはちょっとショックだった。まさか、そんなことを言われるとは。しかし、マリアのしたことのせいだと言えば、それはたしかにそうである。
ルカはつづけた。
「現時点で、君がするべきことはない。今後の方針としては、プリスキラに調停を頼むことになっている。彼女は、もうすぐここに来るだろう。とにかく、時間が解決するのを待ち給え。君の分派まがいの文書については、皆が忘れるのを待つといい。……言うべきことは、以上だ」
ルカは話を終えた。それから、二言、三言、何かを言ったようだった。
だが、マリアは、途中から、彼の言葉がぜんぜん耳に入っていなかった。
──分派まがい?!
たった今、ルカの口から発せられた言葉に、マリアは衝撃を受けていた。
自分のしたことが、エフェソのキリストの教会に対する分派工作のように受け止められている、ということか。なんということだ。先生のエクレシアに、わたしがそんなことをするわけがない、じゃないか。
マリアは、急に立ち上がった。
──ルカに一言、ものを言いたい。
────だが、言うべき言葉が、見つからない。
しばらくの間、彼女は、無言でルカと対峙した。雨は、依然として降りつづいている。白昼であると言うのに、談話室の中は、とても薄暗く感じる。湿度が高い。とても不快だ。
マリアは、言葉を探しあぐねている。
ルカは、彼女を直視したまま、黙っている。
……
…………
……………………
「何だ。マリア、何か、言いたいことがあるのか?」
「……あるよ! あるに決まってるよ!!」
マグダラのマリアは、思いがけず大きな声を出した。雨脚が強まる。まだ、言うべき言葉はまとまらない。でも、もはや勢いの任せるままに、彼女は叫んだ。
「ルカ、あんた! 今、一言も、自分の言葉で喋ってないでしょ!!」
言ってしまった後で、マリアは、とても後悔した。こんなことを言ったって、ルカも困るだけだろう。ルカは、きっと寮長の職務として、冷然と振る舞っただけだろう。彼女は、自分の感情を制御できず、目の前の他者にぶつけてしまったことを恥じた。
しかし、この発作的なマリアの言葉は、このときばかりは、ちょっとだけ良い方向に作用した。
ルカは、すこし驚いた顔をして、目を背けた。そして、
「いや、……済まない」と言った。「済まなかった。君に何を伝えるか、じつは、すでに男子寮の内部で決議されていて、僕は、その通りに話したのに過ぎない」
そして、彼は、重要な情報をあっけなく話した。
「パウロは今、ティラノの講堂にいる」
「ティラノの講堂に?!」
ちょうど、雷鳴が響いた。窓が大きく揺れた。
その建物の名をマリアは知っている。
ルカは、言った。
「マリア、行くか? ティラノの講堂へ行けば、ただでは帰って来られないぞ」
彼女は、ちょっと怯んだ。しかし、
「……行く」
と、即答した。
──そうだ、行くしかない。
────わたしは、パウロと直接話がしたいのだ。そのために、わたしはここに来た。パウロに直談判することが、わたしの、最初からの目的なのだから。
ルカは、マグダラのマリアの即断に、すこし驚きの表情を見せた。
ちょうどそこへ、
────ドカドカドカ!!
っと大きな音を立てて、
ケンクレアイのフェベが、談話室に乗り込んできた!
「話は聞かせてもろたで!! マリア、ティラノの講堂やな!? うちも一緒に行くで!!」
彼女の後方から、プリスカも入ってきた。
「マリア、わたしも行くわ」
「なあ!! 三人で行けば無敵やろ?!」
フェベはそう言った後、急に真剣な顔つきになり、ルカの眼前に、つかつかつか……と歩み寄った。
「ルカ、お前な!! マリアに何言うたか知らんけど、うちはマリアを信じるからな!! マリアは間違ったことしてない!! せやろ?!」
ルカは、微動だにしない。だが、おそらく怯んでいる。しかし、これにはマリアも困ってしまった。
──フェベの言ってることは、メチャクチャだ。今までの流れをぶった斬っている。こんな言われようでは、かえってルカが不憫になってしまう。
だが、ここへきて、物事は思いもかけぬ推移をみせた。今日、ずっと陰鬱な表情をしていたルカが、初めて、かすかに微笑したのだ。
それは、とてもとても爽やかな笑顔だった。
「マリア、──君は本当に、良い友達を持ったな」
ルカは、フェベとプリスカの顔を順々に見つめて、さらに言った。
「二人が付き添うのなら、何も心配はすまい。……マグダラのマリア、行ってこい。パウロのいるティラノの講堂へ。そして、彼としっかり話してこい」
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