第9話 パウロをたずねてエフェソの街を……

 ──パウロが、病気?!

 マグダラのマリアは、青年エパイネトの予期し得ぬ言葉に動揺した。もう少しで、てのひらの中の香油壺を落としそうになったほどであった。

 エパイネトは、説明を加えた。

「あいつ、元から身体弱かったんだけどさ。……マリア。お前、あいつを追い詰めるような文書、撒き散らしただろ。あれでパウロ、すっかり参っちまったんだよ……」

「わたしのせいで……?!」

 マリアのせいで、パウロが病んだ?!

 思い当たる節は……

 あった。あった。

 大ありだ。

 例の、コリントの信徒への手紙の真意を問うべく、女子たちを集めて、パウロに直談判しようとした。あの臨時招集のことか。

 男子たちに対抗すべく、女性奉仕者一同で団結し、自分たちの声を高らかに主張しようとした。あのマリアの行動が、思わぬ波紋を広げた、ということだろうか。

 エパイネトは、マリアの目を凝視したまま、うなずいた。

「お前さあ、……パウロが、根っからキモの小せえヤツだってこと、知ってんだろ? あいつ、手紙とか、信仰告白の文面だけは立派だけど、実態は非リアのコミュ障だぜ」

「それはみんな知ってる」

「いや、そこはちょっとフォローしてやれよ。……んまあ、ともかく。今、パウロは寝込んでる。回復の見込みは無しだ。ぜんぶお前のせいだ」

 話は、それだけでは終わらなかった。エパイネトは、さらにつづけた。

「そういえば、マリア。お前、昨日の教会奉仕、すっぽかしただろ」

「え!」

 マリア、本日二度目の動揺だ。

 昨日?! あたし、当番だったっけ?! 頭の中で、出勤表をる。みんなの出勤表をまとめるのは、第一の使徒たるマリアの役割である。それなのに、自分がすっぽかした?! そんな?! 「……あ、」

 ──やばい。

 ────ほんとだ。

 ────────無断で、すっぽかした。

 マリアは、一度見たものの写像を、頭の中に、正確に記憶しておくことができる。出勤表に記載したことは、全員分、一人ひとりの備考欄に至るまで、すべて暗記している。だから、普段なら、ぜったいにすっぽかすはずがない。

 だが、……

 ある一つのことに熱中すると、マリアには、他のことがまったく見えなくなる。最近の彼女は、連日、フェベと一緒に、いろんないろんな楽しいことに夢中になっていた。だから、家の教会のシフト管理のことなんか、完全に、どっかに飛んでってしまったのだ。

「お前のせいでな、──」と、エパイネトはつづけた。「いいか? マリア。お前のすっぽかしのせいでな、昨日、配達のおにいさんが、持ってきた荷物を誰にも渡せなくて困ってたんだぞ。着払いのやつ。お手伝いさんのタマルが偶然家にいたからよかったけど。お前がいなかったせいで、タマルが代わりにお金を払ったんだ」

「そ、そんな……」

「お前のせいで、お手伝いさんたちの三時のおやつ、抜きになったんだぞ!」

 衝撃の事実に、マリアは言葉を失った。

 ──まさか、そんな。

 わたしのせいで? わたしが、フェベと一緒に、呑気に食べ歩いたり遊んだりしているあいだに、お手伝いさんたちのお菓子が抜きに?!

 まだ小さい子もいるというのに!

 そんなことは、たとえ不作為といえど、あまりにも非道ひどいことだ。

「あとさぁ、……」エパイネトは、ついでに、もう一つ、残酷な布告をしようとした。「お前の掃除の仕方だけどさぁ」

「もうやめて! もう、わたしの心がもたない!」

「いや、ぜんぶお前のせいだろ」

 エパイネトは冷然と告げた。それは、たしかにそうかもしれないが、、、もう マリアは げんかいだ……!

 マリアは、しばらくのあいだ、いろいろな感情と格闘していた。頭の中をぐるぐる廻る、自責の言葉。

 ──わたしのせいだ!

 ────わたしのせいで、……

 ────────まるで、世界が崩れ落ちるかのようだ!


「いや、マリア。反省してるんなら、態度で示そうか。お前、良心は人並み以上にあるんだろうけど、わりと自問自答して終わりにするとこあんだろ? それ、何の解決にもなんねーからな。どんなに心の中で考えてても、行いがなければ、……いや、みことばの話じゃねーけど」

 反省するなら態度で示せ。──エパイネトの言葉が、マリアの心にずしんと響いた。彼女には、わかっている。ぜんぶ彼の言う通りだ。

「タマルはどこ?」

 突然、敢然と、マリアは訊いた。最初に謝らないといけないのは、タマルだ。だが、今は不在であるらしい。エパイネトは言った。

「さっき、みんなで街に行った。俺が小遣い出してやったんだぜ」

「じゃあ、パウロは?」

「さあな。会いたいなら自分で探せよ。求めなさい、そうしたら何とやら、だろ?」


 ……

 …………

 ……………………


 しばらくの後、マリアはエフェソの街に向かって、全力で丘を駆け降りていた。エパイネトにちゃんと挨拶をして別れたのかどうか、よく覚えていない。香油壺をどこへ置いてきたのかも、今のマリアには判然としない。……いや、ちがう。持ってた!! やばい!! 香油壺持ったまま来ちゃった!! 

 咄嗟のことになると、彼女は突拍子もないことを仕出かしてしまう。とにかく、マリアは走った。走った。

 今すぐに、パウロにお詫びを言わなければ……!!

 彼は、今、プリスカの管理する集合住宅インスラにいるはずだ。

 

 なんだか、いつもより身体が重い。ぜんぜん速く走れない。香油壺を持っているせいかもしれないが、中身はほとんど空なのだ。今日は、何だか気持ちが重い。いつもと何かが違う。

 空を見上げると、さっきまですごく良い天気だったのに、急に曇ってきた。雨が来る。雨の匂いがする。

 マリアは、とにかく、パウロの居るはずの場所へ急いだ。


 ……

 …………

 ……………………


 小走りに走りながら、いろいろなことが彼女の脳裏をぐるぐる廻った。──ゆうべ、フェベと一緒に帰宅したとき、マリアが教会奉仕の当番を忘れたことを咎める人は、誰もいなかった。あれはきっと、彼女が自分で気がつくまで、みんな待ってくれていたのだろう。

 ──なんということだ!

 ────わたしは、第一の使徒失格じゃないか!

 ────────

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