第8話 愛について
翌日、すなわち、週の初めの日。
朝早く、まだ暗いうちから、プリスカの家の人たちは、いっせいに、お屋敷の中のお掃除をはじめた。プリスカとアキラを筆頭に、その日休暇を取っているお手伝いさんと小さい子たちを除いて、家中、総出である。
マリアはちょっと寝坊したが、フェベと一緒に、ちょっとだけ手伝った。
午後になると、マリアとフェベは、外食に出かけることにした。出かけるときにプリスカを誘ってみたが、「とてもいいお天気だから、今日は、家中のシーツを洗濯する」との返事であった。エフェソの空は、晴れの日が多い。そういうときは、お洗濯日和だ。マリアも、「それなら……」と、お手伝いを申し出た。しかし、
「せっかくケンクレアイから来てくれているフェベのために、街の中を案内してあげて」
と、プリスカは言った。すこし逡巡しているマリアに対して、彼女はさらに、
「
と、中国の箴言にもあるでしょう、と付け加えた。
そういうわけで、マリアとフェベは、二人でエフェソの街を歩いてまわった。
おしゃれな衣服や、かわいらしいアクセサリーのお店。まるで、街中がお祭りのようだ。エフェソの人々は、お祭りさわぎが大好きである。女神アルテミスのお膝下、エフェソは、一年中、活気に満ちている。歩いているうちに、二人はすっかり光の子らしい、明朗な心持ちになった。
いろんなお店をまわったあとで、二人が食事に入ったのは、「さいぜり屋」であった。属州を含めたローマ帝国の主要都市に展開中の、安くておいしい、話題の大衆食堂である。ローマ時代の若者たちは、この店に集まって、何時間でも話をするのが常であった。
「ねえ、フェベ!! 世の中には、最初のデートのとき、女の子をさいぜり屋に連れて行く男性が存在するんですって!! ひどいと思わない?!」
ゆうべの Melancholic な感情はどこへやら。今日はすっかり、いつものマリアに戻っていた。彼女には、昨日の憂鬱を今日に持ち越さない、という大事なポリシーがある。どんなに夜の闇を思い煩っても、翌日になると、負の感情がきれいさっぱり消えている。今日は、エフェソの街の明るい雰囲気も、そんな彼女の傾向を強めている。
マグダラのマリアは、「さいぜ」の食事をおいしそうにいただきながら、最初のデートはどういうお店であるべきか、異性とのデートで代金の支払いはどうするべきか、という持論を展開した。フェベは、面白半分に聞いてはいるが、目の前の食事のほうが重要であるらしい。
「言いたいことは分かるけどなあ、……マリア。せっかく人が食べとんのに、そんな話したら、おいしくなくなるやろ?」
「フェベ。これは、愛についての真剣な問いかけよ!」
「いや、知らんけどな」
ほとんど上の空のまま、フェベは食べつづけている。
ギリシャ人のフェベは、魚やイカ、エビなどの海鮮料理が大好物である。一方、マリアは律法の食物規定を厳格に守っているから、フェベと同じものを食べられない。外食のときも、聖書にある通りの食材を選び、慎重に、慎重に注文している。未熟な点は多々あるものの、そこは、彼女の立派なところであろう。
なお、今日は同席していないが、プリスカは
初代キリスト教会では、その勢力圏の拡大するにつれて、モーセ五書の諸規定を部分的に改めることになった。エルサレムの使徒会議と呼ばれる、神に立ち帰る異邦人たちのための話し合いによって、である。言わば、「昨今のグローバル化の流れを見据えて、異文化圏との交流を積極的に進め、多様な文化を尊重しよう」という趣旨であった。この決定により、ギリシャやローマ、そして、アジアの人たちの中にも、キリストの道に入る者がどんどん増えていった。
ケンクレアイのフェベもまた、ローマ帝政期、多文化共生の機運の中で育った、ギリシャ人キリスト者の一人に他ならない。
マグダラのマリアとフェベは、それからのち、数時間にわたって、超くだらない話で盛り上がった。女の子が二人、三人と集まれば、どうでもいい話題だけで、一日中過ごせるものだ。未熟である。あまりに未熟である。しかし、彼女たちには、彼女たちの時間の過ごし方というものがあるのだ。
二人は、そのとき、パウロに直談判するという、当初の目的をすっかり忘れていた…………というわけでもないのだが、久しぶりの再会、そして、女子だけのおしゃべりがとってもとっても楽しくて、つい、やるべき行動を先延ばしにしていたのであった。
マリアには、ときどきではあるが、「自分がやらなければならないことを後回しにする」という悪癖があった。責任を放棄しているのではない。むしろ、彼女はプライドが高く、責任感も強いほうだ。しばしば、「女のくせに高慢だ」と非難されてしまうほどに。しかし、目の前に楽しいこと、おいしいもの、美しいものがあったりすると、ついつい、そっちに意識が集中してしまう。
一方、フェベはと言えば、……彼女は実際のところ、何も考えていなかった。彼女は、ごく単純な性格であり、直情的で、他人にあんまり興味がない。彼女の関心は、「毎年、競技大会に出て、自己ベスト記録を更新しつづけること」だけであった。
目下、ローマ帝国領内には、ケンクレアイのフェベに敵う選手はいない。彼女の射程の範囲には、自分自身しか存在しない。「つねに自分を超えていくこと」が、彼女の唯一の行動指針であり、他人のこと、他人の評価は関心の外であった。独善と言えなくもないが、それでも、彼女はしっかり結果を出してきた。フェベはフェベで、そんな自分に自信を持っていた。
……気がつくと、もう夕刻である。二人は、「さいぜり屋」を出たあと、スイーツのお店や遊興施設を何軒かはしごして、ようやく、プリスカの家に戻ってきた。もうおなかいっぱいだ。
「ただいまあ〜〜〜!!」
と、二人同時に言うが早いか、ふかふかのソファに腰掛けた。その瞬間、マリアは、「あっ」と、小さな声を出した。パウロに直談判しに行く予定があったのを、ようやく思い出したのである。しかし、これから会いに行くには、もう遅い時刻であった。
マリアとフェベは、声もなく、顔と顔を向け合った。そして、うん、うん。と頷き合い、心の声で合意した。
──まあいっか。明日にしよう。
明日でいい、明日でいい。大丈夫。明日のことは、明日が思い煩うであろうから、と。
だが、翌日になると、やっぱり二人は遊んでしまった。プリスカがしばらく忙しくて、マリアとフェベだけで行動していたのが、よくなかった。
そうなのだ。初代教会の女性奉仕者とはいえど、女の子たちには、女の子たち特有の時間の過ごし方がある。おいしい食事に、デザート、娯楽、…………そして、ここには絶対に書けない、女の子同士の秘密の会話。そう、福音書や使徒言行録には一切書かれていない、男子たちが絶対に知り得ない、女の子同士の秘密というものが、彼女たちにも、ある。彼女たちも、人間だ。そうして二人は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯した。
さらに、数日後。
マグダラのマリアが、ようやく、「パウロに会いに行かなきゃな、……」と、真剣に考えはじめた頃。青年エパイネトを通じて、ある不穏な噂話が、マリアの耳に入った。エパイネトは、アジアで最初にキリストを信じた者の一人で、いまでもプリスカとアキラの家の教会に出入りしている。
彼は、玄関で出迎えたマリアに、深刻そうな面持ちで告げた。
「お前、何すっとぼけた顔してるんだよ。……パウロ、病気で寝てるってよ」
(※註:マリアの先延ばし癖のために、今回の内容は、小題と一切関係なくなりました。)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます