第7話 「先生」と私

 ──えっ?

 マリアは、心の中で聞き返した。が、プリスカは、それきり何も言わなかった。部屋の中の誰かに向けて言ったのか、それとも、夢の中の言葉が漏れ聞こえたのか、それすら、よくわからない。

 マリアは、もういちど耳を澄ましてみた。プリスカも、フェベも、寝息をたてているようだ。どこかの部屋から、お手伝いさんたちの笑い声が聞こえてきたような気もした。明日は安息日で、彼女たちの仕事はないから、ちょっとだけ夜更かししているのかもしれない。

 今、マリアたちが寝ている部屋は、琥珀灯エーレクトロンの暖色の光の中にある。すべてのものの輪郭が、ぼうっとしている。世界は、今まさに、眠りの時である。

 うん、寝よう。マリアはふとんをかぶって、目を瞑り、羊を数えてみた。

 ……が、


 ──眠れぬ。

 やっぱり、眠れなかった。寝苦しいわけではない。丘の上にあるプリスカの別荘ヴィッラは、夜風をとり入れる設計になっていて、夏でも快適だ。眠れないのは、別に理由があった。何だか、気になることがある。心のどこかに、ざわざわしたものが、ある。

 ほの明るい光の中、マリアはもう一度目をひらいた。さっきと何も変わりはない。天井が高い。寝室には、「正義ディカイオシュネー」の書画が掲げられていて、今も琥珀灯の光の中に、かすかに見える。

 ほかの二人は眠っている。時々、フェベがものすごい勢いで寝返りを打っているが、よく眠れているらしい。ただ一人、マリアだけが、眠れないという事実にもだえていた。

 今、何時だろう。十二時を過ぎた頃だろうか。

 エフェソの夏の夜明けは早い。夜が明ける頃には、プリスカは目を覚ますだろう。安息日は、お手伝いさんたちの休日だから、家の中のことは彼女がする。あと数時間後のことである。マリアも、できれば早起きしたいが、あいにくまだ眠れそうもない。

 仕方ない、ちょっと心の中を整理してみるか。


 ──アキラは正しい人。

 マリアは、さっき聞こえたプリスカの言葉を、心の中で繰り返した。正しい人、か。プリスカとアキラの二人が、どのような経緯で知り合って、そして、どのような経緯で一つの運命を共に歩むに至ったのか。マリアが知ることは少ない。

 ただ、今、プリスカがアキラを必要としていること、そして、アキラもプリスカを必要としていること、それは、二人のことをそばで見ていたら、よくわかる。

 ……それにしても、「正しい」って何だろう?

 彼女は、自分自身にとっての「正しい人」を、思いつくままに連想してみた。古い伝承に出てくるノア、ルツ、エステル妃、ヨブ。同時代の人物ならば、洗礼者ヨハネ、イエスの父ヨセフが思い浮かぶ。……しかし、マリアにとっては、真近に彼女と接してくださったイエス・キリストご自身こそ、最初の最初に思い浮かべるべき「正しい人」に他ならなかった。

 ある日、マリアの行いが咎められ、「この娘は悪霊に憑かれている」と民衆に罵られた。思春期の、ちょっぴり背伸びした振る舞いのつもりだった。それが、大人たちによって罪に問われた。

 まるで、全世界が自分と敵対しているような深い絶望を感じていた、あのとき。そっと振り向いて、マリアに手をさしのべて、「あなたの罪は赦された」と言ってくださった。……先生。イエス・キリスト。

 次いでマリアは、先生の御母様のことを思い出した。

「大丈夫、信頼しています」

 小マリア自身、聖母から、その言葉を何度聞かされたか。

 信頼、信じる。母マリアは、ただ言葉で言って聞かせるだけではない。いつも、いつも、人々の手を取り、その手をしっかりと握って、とてもとても大切な何かを手渡すかのように、言って聞かせるのだった。……大丈夫、大丈夫、あなたを信じています、と。

 そういえば。……マリアの連想は、幼い頃の、生まれ故郷の人たちの記憶をたぐりよせた。まだ、ほんの子どもだった頃。わがままを言って、いつもやさしい父親をすっかり怒らせてしまったとき。家から締め出されて、さりとて行くあてもなく、とぼとぼと歩くしかなかった。あのとき、彼女の手を取り、となりに付き添って、ガリラヤ湖のほとりを一緒に歩いてくれた女性の記憶。

 あれは、マリアの親族のうちの一人か、そうでなくとも、同郷の誰かだったのだろう。マリアは、その人の名前を覚えていない。顔もよく覚えていない。とにかく、幼いマリアが泣き止むまで、その人はずっと手を取り、一緒に歩いてくれた。

 ──信頼か。

 マリアは、もう一度、最初の考えに立ち帰った。

 正しい人。信頼。誰かを信じること。

 それが何なのかは、やっぱりわからない。それらの言葉は、たしかな実体があるものというより、何となくの方向性とか、「誰かに対してどう向き合い、どう行動するか」という指針なんじゃないだろうか。

 マリアがこれまでに出会ってきた人たちが、そっと手がかりを示してくれるような気もする。一人ひとりが、その存在と、行いを通じて。


 ────先生。

 やがて、マリアの考えは、先生のことをめぐって廻転を始めた。ぐるぐると、まわり始めた。

 先生か。

 会いたいな。もう一度。


 もう、二度と会えないのだろうか。あの人に。……そんなことを考えているうちに、マリアは、涙が頬を伝っているのに気づいた。自分が泣いているのかは自覚がない。でも、先生のことを考えると、ときどき涙が流れるんだ。

 心が、泣いている。

 そうだ。先生と別れることなんか、考えてもいなかった。それも、あんなひどい別れ方で。

 十字架上の死と復活を、贖罪だとか、信仰義認だとか、神学用語を当てはめて賢しげに説明することは、後世の人々の仕事である。あの日、イエスと離別した弟子たちは、その後、それぞれ、心の整理に何十年もの時間を要した。使徒たちも、女性たちも。マグダラのマリアも、その一人であった。彼女の心の外傷きずあとは、まだ、癒えてなどいない。

(総督にも、皇帝にも、わたしの先生を咎める権限などないはずだった。それなのに。)

 彼女は、ひそかに願った。

 ──もう一度、わたしの目の前に、現れてはくださらないだろうか。先生ラボニ。わたしの先生。


  ……


 翌日は、安息日であった。

 マグダラのマリアは信仰を守る人であったので、その日、一日を静かに過ごした。

 午後になると、学長プリスカは、生徒たちの様子を見るために出かけていった。夕刻には、プリスカとアキラが帰宅したので、人々は、彼女たちの家の教会に集まり、共に礼拝を守った。

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