第6話 信頼って何? 〜アキラは正しい人〜
エフェソにあるプリスカとアキラの家の教会には、公にしていない秘密がたくさんある。
哲人政治家セネカの忠臣が所有する
しかし、その広大な敷地は、キリスト者の集会所であり、安息日には彼らの礼拝所となる。お手伝いさんたちにとっては、日々の職場であると同時に、将来の職業生活に向けた教育を受ける場でもある。さらには、虐げられている女性や子ども、奴隷たちをはじめとする社会的弱者を受け入れるための避けどころにもなっている。
だから、この家には、秘密を守るための仕掛けが施されている。
もっとも、聖母の来訪にあたっては、何ら隠しだてをする必要はない。聖母はすべてを知っている。そもそも、エフェソのキリスト信徒を一つに集め、
とりあえず、テーブルの上を片付けたところで、母マリアが食堂の入り口に着いた。侍者を二人ともなって、青白い
母マリアの姿を目の当たりにした途端、マグダラのマリアは、思わず息を呑んだ。
──アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
小マリア、すなわちマグダラのマリアにとって、聖母のご存在は、特別である。……神の母、キリストの母。初代教会の時代には、まだ決まった呼び名はない。それでも、生前のイエスを知る者にとって、母マリアは特別だ。それは、理屈を超えたことであった。
感極まって、あれこれと思いめぐらせている小マリアの真横を、
「寮母さ〜〜〜〜〜〜〜ん!!」
と、フェベがすっ飛んでった。母マリアは、プリスカとアキラが運営している学校の初代理事長であり、名誉評議員であり、そして今は、生徒たちと真近で接するため、エフェソにあるキリストの教会の寮母を務めているのである。
「フェベ、よく来てくれましたね」
と、母マリアは、澄んだ声で応えた。それは、まことに鈴の鳴るような声であった。年齢というものを感じさせない、けがれない少女のままの純粋である。それでいて、老齢の女性のような、
フェベは、屈託のない、真っ直ぐな目をして、
「ケンクレアイからすっ飛んで来ました!! 今、みんなで、パウロをしばくための共同謀議をしてます!!」
えっ、まってまって! マリアは、内心すっかり慌ててしまった。
「御母様!! ちがうんですっ!! 今日は、コリントとエフェソの教会運営のための、真面目な打ち合わせ中なんです!!」
マリアはひとまず弁明した。フェベは、隠し事ができない。何でも超絶どストレートに喋ってしまう。御母様はやさしい人だ。変なことを言って、ご気分を害されたらどうするんだ。わたしの先生の御母様なのに!
しかし、母マリアは、にっこり笑って、
「楽しくやっているわね」
と仰せになった。そして、三人の顔を、順番に、しっかり見ながら付け加えた。
「あなたたちには、正しいことを見定める心があるはずです。どんなときでも、自分自身の声をしっかり聞いてくださいね」
もとより、聖母は三人のことをよく知っている。ありのままに話しても、動じることなどないのだ。
母マリアは、それからプリスカに語りかけた。
「学長さん。今夜は、あなたの
「はい。わたしも明日の午後、アキラと一緒に行きます」
学長ことプリスカが快活に応える。……そうか。と、マグダラのマリアは了解した。どうやら、母マリアの来訪の目的は、プリスカに事務的な連絡をすることのようだ。
プリスカとアキラの運営する学校からは、毎年、多くの生徒たちが
それからしばらく、母マリアとプリスカは話し込んでいた。学校運営には、理想ばかりでなく、困難がつきものである。二人は、個別の事案について報告しあい、対応を協議している。
マグダラのマリアは、二人の話を聞きながら、さっきの聖母の言葉を心の中で繰り返した。
──正しいこと、自分自身の声。
この言葉は、あるいは母マリアにとっては、ありていな挨拶のようなものだったのかもしれない。しかし、マグダラのマリアには、どこか、心の琴線に響くものがあった。
「大丈夫、信頼しています」
話の最中、聖母は、この言葉を何度も繰り返した。プリスカに対しても、誰に対しても、母マリアは、この言葉を決まり文句のようにおっしゃるのだ。
──信頼。
この言葉も、どこか、マグダラのマリアの心に響くものがあった。信頼。信頼って何だろう? マリアは考えるとはなしに考えながら、この言葉を心に納めた。
十分協議を尽くした後、母マリアはお帰りになられた。まもなくして、マリア、プリスカ、フェベの三人は、ベッドにもぐり込んだ。三人とも、今夜は夜更かしするつもりだった。しかし、聖母御出現に際して敬虔な心持ちになり、早めに寝よう、という雰囲気になった。明日は、安息日である。
……が、女三人寄れば、話に花が咲くものだ。
フェベは、天井をみつめながら、パウロの手紙の文面について私見を述べた。
「女は服従しろとか、それ好きな人にベッドの上で言われたらドキドキするけどな……笑笑」
そんなフェベがいちばん興味を持っているのは、やっぱり、プリスカとアキラの真実の愛である。
「なあなあ、プリスカ?! アキラとの出逢いどんなやったん??」
「あれ、まだ話したことなかった?」
と、プリスカが応える。
マリアは、すこしだけ聞いたことがあった。数年前、ある出来事が原因で心を閉ざしていたプリスカの前に、アキラがふっと姿を現したこと。しかし、それ以上のことについては、マリアも知らなかった。
「聞きたい?」
「聞きたい!」「聞きたい!」
マリアとフェベがほぼ同時に言った。う〜ん……、とプリスカは思案している様子だ。が、
「やっぱり、今夜は寝ましょう?」
と言って、彼女はふとんをかぶってしまった。
「なんで?? みんな聞きたいやん!」
フェベはベッドの上でからだを起こして、尚も催促する。プリスカは、黙っている。もう寝ちゃったんだろうか。なあなあ、と畳みかけるフェベ。しかし、プリスカは黙っている。
そのとき、マリアは思った。誰にでも、簡単には他者に打ち明けられない心の声がある。たぶん、プリスカにも。そういうときは、無理やりこじ開けるようなことをしないで、そっと鍵をかけておいたほうがいい。
まだちょっとさわがしいフェベに、マリアは声をかけた。
「フェベ、もう寝よ。明日また話そう」
すると、フェベも何となく何かを察したのか、せやな、と言って、またふとんの中に潜り込んだ。
しばらくのあいだ、沈黙が降りた。
……どのくらい時間が経っただろうか。プリスカが、壁のほうを向いたまま、誰に伝えるともなく、言った。
「アキラは、正しい人なの」
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