「許せない!! パウロ、絶対×してやるッ!!」
マリアはすっかり激怒した。最近の彼女には珍しい。使徒パウロがコリントの信徒たちに書き送った手紙の一文が、彼女の逆鱗に触れたのだ。
──「女は、教会では黙っていなさい。女には語ることが許されていません。律法も言っているように、服従しなさい。何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねなさい。女が教会で語ったりすることは、恥ずべきことです。」(コリントの信徒への手紙一14章34〜35節)
「これ何? ガチなの?! パウロ。……あんた、最低!!」
パウロの手紙を最後まで読み終えないうちに、マリアは決意を固めていた。
──パウロに直談判、しよう。
まずは、作戦会議である。エフェソの教会に集まっている奉仕者たちに、マリアは臨時招集をかけた。集合場所は、プリスカの家。エフェソ近郊にいる人は、全員集合!
プリスカは、マリアの親友の一人である。幼少期から長年ローマで暮らしていたプリスカは、教会の重要議案に対処すべく、今はエフェソに滞在していた。彼女の親はいわゆる富裕層であり、複数の事業経営の傍ら、ローマ帝国領内にいくつもの不動産を所有している。ここエフェソにも、両親と、プリスカ自身の管理人を務める高層集合住宅《インスラ》や貸別荘《ヴィッラ》が何棟もある。神の教会に出席する信徒たちの多くが、プリスカの所有する物件に下宿し、共同で生活していた。
プリスキラとも呼ばれる彼女は、天性の人格者である。ローマにいたときも、コリント、エフェソに滞在中も、つねに、集まりの中心に彼女がいた。
「プリスカは、どうしてそんなに他人にやさしくできるの?」
「どうだろう……でも、(お手伝いさんに「ありがとう」と声をかけながら)他人を最初から疑ったり、相手の話を聞かないうちに自分で決めてしまったら、結局、自分が間違えてしまったときに気づけなくなるよね」
来客の知らせがあって、プリスカは玄関に向かった。
「マリア、ゆっくりしてて。今日は《《わたしがホスト》》だから」
卓越した実業家であり、帝政ローマの野心的な革新官僚の一人でもあるプリスカの父は、ストア派の思想に傾倒していた。彼は、安定した事業収益を元手として、帝国の社会基盤を改良するための抜本的改革を推し進めていた。彼の思想は、家族の実生活の上にも反映された。ローマに所有している|一戸建て住宅《ドムス》、ならびに、コリントやエフェソの別荘《ヴィッラ》の建築からは、奢侈な装飾が一切排除された。
ここエフェソの別荘は、事実上、娘プリスカのために用いられていると言ってよかった。父親は、今でもローマにとどまり、ルキウス・アンナエウス・セネカの忠臣の一人として職務を担っている。彼は、帝国の統治機構の内部にありながら、時にクラウディウス帝の政治体制に異を唱える立場として、己の信念を貫こうとしていた。その間、コリントやエフェソの不動産は、娘であるプリスカが管理した。プリスカと、そのパートナーであるアキラ、──後年、ローマ帝国の支配体制を根本から揺るがせることになる、二人の理想を実現するための場所として。
二人の理想。
──それは、すべてのキリスト者が自由に集まる、愛と信頼に基づく共同体、言わば、家の教会を運営することであった。
この家では、お手伝いさんと、プリスカの家族、訪問者は、全員が対等な立場である。顔を合わせて、同じ目線で会話をする。人と人として、互いに接する。冗談だって言い合う。それが基本なのである。
そう。この家は、共和政末期から急速に勢力を増しつつも、帝政期には「ローマの平和」の下で抑圧された、奴隷解放運動の推進者の秘密基地にほかならないのだ。プリスカの父は、ストア主義の理念、──というよりも、彼自身の実存を賭けた決意に基づき、奴隷の非人道的扱いを永久に放棄した。そして、プリスカとアキラは、キリスト教信仰と友愛の精神によって、コリントとエフェソの家をキリスト者たちの自由な集会所にした。父と子と、娘婿。立場はすこしずつ異なれども、彼女たちは、実生活の上に、自らの信念を体現していた。
***
「どーーーん!! フェベ様おなりやで!!」
と、こっちが声を発さない前に話しかけてきたのは、ケンクレアイの教会の奉仕者フェベであった。マリアはびっくりした。うれしいびっくりだ。まさか、フェベが来てくれるとは思わなかった。しかも、目の前にいる彼女は、以前とすっかり印象が変わっている。最後にアンティオキアで会ったときには黒髪を長く伸ばしていたのだが、今日の彼女の髪は短い。肩ぐらいまでの長さである。すっかり真新しい彼女が、マリアの目の前に立っていた。
神戸《ケンクレアイ》は港町、明日を見通すポートピア。ギリシャ本土とペロポネソス半島をつなぐ地峡にあり、地中海貿易に出かける船の多くが、そこを中継地点の一つとしている。フェベは、かの地の有力者の娘であり、キリストの教会の奉仕者として、多くの人たちを援助する立場にあった。
「ええな!! うちが来てやったからにはな!! パウロの命運はな、──もう尽きたも同然やでッ!!」
再び、プリスカの家の食堂である。マリア、プリスカ、フェベの三人は、たくさん喋ったり、食べたり、笑ったりして、愉快な時間を過ごした。
マリアは、当初、エフェソ近郊の教会の女子信徒全員に、臨時招集をかけていた。みんなでパウロの家に押しかけよう。ちょうど夏休みだから、みんな集まれるはずだ。……と考えていたのである。ところが、さきほど飛脚の青年を通してプリスカが伝え聞いたところでは、三人のほかは、「受験に向けた夏期講習や、部活の練習、家族旅行などの予定が入っていて、来られない」という返事であった。
ひとしきり話したあとは、プリスカの提案で、食堂を教室に見立てて、模擬授業をすることになった。
最初に、プリスカが国際紛争の解決に向けて、彼女自身の方針を語った。それは本当に素晴らしいスピーチだった。理想を掲げるだけではない。コーカサス地方の事例をもとに、具体的な資源獲得競争などの課題をあげ、その解決に向けたアイデアを彼女は示した。
一方、フェベの講義タイトルは、「うちらは、いかにしてパウロを《《しばく》》か」(註:「しばく」とは、ケンクレアイをはじめとするギリシャ人の言葉で「|×《ボコ》る」といったような意味である)。
「まずな!! うちとプリスカが、下手《しもて》の方向からパウロに接近する。ほんでな、親しげな風《ふう》を装って、あいつに話しかける!! そしたらパウロは油断するやろ? そこへマリアが、上手《かみて》から登場!! で、音もなく近づいてな、ほんでな笑笑、……思いっきり張ッ倒す!!」
そして今度は、プリスカとフェベの二人が臥台《ソファ》に座り、マリアの講演を聞く番であった。台所仕事を終えたお手伝いの女の子たちも、面白そうに、こっちを覗き込んでいる。
マリアは、今日何を話すか考えていなかったが、最近思っていたことをありのままに話すことにした。
「どうして、女性は社会で活躍できないんだろう?」
これは、マグダラのマリアの生涯をつらぬく研究テーマにほかならない。マリアは、自分がこれまでに経験したこと、感じていたことを述べるとともに、どうして、今回みんなに集まってもらったのかを素直に話した。
今度は、フェベが提案した。
「なあ、恋バナしよ!! 恋バナ!! プリスカとアキラの真実の愛!! いつまでも幸せな日々!!」
「え、……そんな話せるようなことないよ」
と、プリスカは恥ずかしそうだ。フェベは彼女に畳みかけて、
「なあなあ、プリスカはアキラ以外の男の人を好きにならんの? ならんの?」
……と、そのとき、食堂の片隅にある機械を通じて、玄関にいるお手伝いさんから緊急通信が入った。
プリスカの家に、聖母の御出現である。
とりあえず、テーブルの上を片付けたところで、母マリアが食堂の入り口に着いた。
母マリアの姿を目の当たりにした途端、マグダラのマリアは、思わず息を呑んだ。
──アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
小マリア、すなわちマグダラのマリアにとって、聖母のご存在は、特別である。……神の母、キリストの母。初代教会の時代には、まだ決まった呼び名はない。それでも、生前のイエスを知る者にとって、母マリアは特別だ。それは、理屈を超えたことであった。
「あなたたちには、正しいことを見定める心があるはずです。どんなときでも、自分自身の声をしっかり聞いてくださいね」
母マリアはお帰りになられた。まもなくして、マリア、プリスカ、フェベの三人は、ベッドにもぐり込んだ。三人とも、今夜は夜更かしするつもりだった。しかし、聖母御出現に際して敬虔な心持ちになり、早めに寝よう、という雰囲気になった。明日は、安息日である。
……が、女三人寄れば、話に花が咲くものだ。
──アキラは正しい人。
マリアは、さっき聞こえたプリスカの言葉を、心の中で繰り返した。正しい人、か。
マリアにとっては、真近に彼女と接してくださったイエス・キリストご自身こそ、最初の最初に思い浮かべるべき「正しい人」に他ならなかった。
次いでマリアは、先生の御母様のことを思い出した。
──信頼か。
マリアは、もう一度、最初の考えに立ち帰った。
正しい人。信頼。誰かを信じること。
それが何なのかは、やっぱりわからない。それらの言葉は、たしかな実体があるものというより、何となくの方向性とか、「誰かに対してどう向き合い、どう行動するか」という指針なんじゃないだろうか。
マリアがこれまでに出会ってきた人たちが、そっと手がかりを示してくれるような気もする。一人ひとりが、その存在と、行いを通じて。
────先生。
やがて、マリアの考えは、先生のことをめぐって廻転を始めた。ぐるぐると、まわり始めた。
先生か。
会いたいな。もう一度。
……
翌日は、安息日であった。
マグダラのマリアは信仰を守る人であったので、その日、一日を静かに過ごした。
午後になると、学長プリスカは、生徒たちの様子を見るために出かけていった。夕刻には、プリスカとアキラが帰宅したので、人々は、彼女たちの家の教会に集まり、共に礼拝を守った。
翌日、すなわち、週の初めの日。
朝早く、まだ暗いうちから、プリスカの家の人たちは、いっせいに、お屋敷の中のお掃除をはじめた。
午後になると、マリアとフェベは、外食に出かけることにした。
おしゃれな衣服や、かわいらしいアクセサリーのお店。まるで、街中がお祭りのようだ。エフェソの人々は、お祭りさわぎが大好きである。女神アルテミスのお膝下、エフェソは、一年中、活気に満ちている。歩いているうちに、二人はすっかり光の子らしい、明朗な心持ちになった。
マグダラのマリアとフェベは、それからのち、数時間にわたって、超くだらない話で盛り上がった。女の子が二人、三人と集まれば、どうでもいい話題だけで、一日中過ごせるものだ。未熟である。あまりに未熟である。しかし、彼女たちには、彼女たちの時間の過ごし方というものがあるのだ。
……気がつくと、もう夕刻である。二人は、「さいぜり屋」を出たあと、スイーツのお店や遊興施設を何軒かはしごして、ようやく、プリスカの家に戻ってきた。もうおなかいっぱいだ。
初代教会の女性奉仕者とはいえど、女の子たちには、女の子たち特有の時間の過ごし方がある。おいしい食事に、デザート、娯楽、…………そして、ここには絶対に書けない、女の子同士の秘密の会話。そう、福音書や使徒言行録には一切書かれていない、男子たちが絶対に知り得ない、女の子同士の秘密というものが、彼女たちにも、ある。彼女たちも、人間だ。そうして二人は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯した。
さらに、数日後。
マグダラのマリアが、ようやく、「パウロに会いに行かなきゃな、……」と、真剣に考えはじめた頃。青年エパイネトを通じて、ある不穏な噂話が、マリアの耳に入った。エパイネトは、アジアで最初にキリストを信じた者の一人で、いまでもプリスカとアキラの家の教会に出入りしている。
彼は、玄関で出迎えたマリアに、深刻そうな面持ちで告げた。
「お前、何すっとぼけた顔してるんだよ。……パウロ、病気で寝てるってよ」
エパイネトは、説明を加えた。
「あいつ、元から身体弱かったんだけどさ。……マリア。お前、あいつを追い詰めるような文書、撒き散らしただろ。あれでパウロ、すっかり参っちまったんだよ……」
「わたしのせいで……?!」
話は、それだけでは終わらなかった。エパイネトは、さらにつづけた。
「そういえば、マリア。お前、昨日の教会奉仕、すっぽかしただろ」
「あとさぁ、……」エパイネトは、ついでに、もう一つ、残酷な布告をしようとした。「お前の掃除の仕方だけどさぁ」
──わたしのせいだ!
────わたしのせいで、……
────────まるで、世界が崩れ落ちるかのようだ!
「いや、マリア。反省してるんなら、態度で示そうか。お前、良心は人並み以上にあるんだろうけど、わりと自問自答して終わりにするとこあんだろ? それ、何の解決にもなんねーからな。どんなに心の中で考えてても、行いがなければ、……いや、みことばの話じゃねーけど」
反省するなら態度で示せ。──エパイネトの言葉が、マリアの心にずしんと響いた。彼女には、わかっている。ぜんぶ彼の言う通りだ。
……
…………
……………………
しばらくの後、マリアはエフェソの街に向かって、全力で丘を駆け降りていた。エパイネトにちゃんと挨拶をして別れたのかどうか、よく覚えていない。
今すぐに、パウロにお詫びを言わなければ……!!
彼は、今、プリスカの管理する集合住宅《インスラ》にいるはずだ。
空を見上げると、さっきまですごく良い天気だったのに、急に曇ってきた。雨が来る。雨の匂いがする。
マグダラのマリアは、丘を駈け降り、たった今、エフェソの北の郊外にあるインスラの一つに辿り着いた。
「あの、誰かいる?」
そのとき、ちょうど小雨が降り始めた。マリアは、しばらく雨宿りさせてもらうことを理由に、男子寮の玄関の中へ、一歩、足を踏み入れた。
もう一度声をかけてみたが、やっぱり、誰からも返事はない。
……と、思いもかけぬ方向から、食堂のおばちゃんがにゅっと出てきた。
「どうしたんだい」
「あ、すみません。……わたし、パウロに用があって来ました」
「異性間の交友は、一応、あたしが止めることになってるんだけど」
「あの。わたし、パウロに謝ることがあって、急いで来たんです」
「そうかい、そうかい。しかし、彼はここにはいないね」
「ここではないんですか?」
「ああ、詳しいことはルカに聞きな。彼が寮長で、ここの責任者だ」
しばらくして、奥のほうから、長身の男子が姿を現した。少し陰鬱そうな表情で、やや前屈みの姿勢で歩いてくる。ルカその人である。
彼は、マリアのそばまで来ると、立ち止まり、彼女の顔を一瞥した。が、しばらく何も言わなかった。最初の言葉を考えているようでもあった。
やがて、ルカは短く言葉を発した。
「君の来ることは予想していた。マリア、入り給え」
奥の談話室に通されたマリアは、しばらくの間、立ち尽くしていた。
ルカに促されて、彼女は、ひとまず椅子に腰かけた。慌てて持ってきてしまった香油壺を、ひとまず足元に置いた。
そして外は、大雨である。
しばらくして、ようやくルカは話しはじめた。
「時間がないので簡潔に説明しよう。マグダラのマリア、君が書いたパウロに対する異議申し立ての文書は、現在、ここエフェソのキリストの教会全体に、大きな影響を及ぼしている。端的に言えば、悪い影響だ」
ルカはつづけた。
「現時点で、君がするべきことはない。今後の方針としては、プリスキラに調停を頼むことになっている。彼女は、もうすぐここに来るだろう。とにかく、時間が解決するのを待ち給え。君の《《分派まがい》》の文書については、皆が忘れるのを待つといい。……言うべきことは、以上だ」
マリアは、急に立ち上がった。
「何だ。マリア、何か、言いたいことがあるのか?」
「ルカ、あんた! 今、一言も、自分の言葉で喋ってないでしょ!!」
言ってしまった後で、マリアは、とても後悔した。こんなことを言ったって、ルカも困るだけだろう。ルカは、きっと寮長の職務として、冷然と振る舞っただけだろう。彼女は、自分の感情を制御できず、目の前の他者にぶつけてしまったことを恥じた。
しかし、この発作的なマリアの言葉は、このときばかりは、ちょっとだけ良い方向に作用した。
ルカは、すこし驚いた顔をして、目を背けた。そして、
「いや、……済まない」と言った。「済まなかった。君に何を伝えるか、じつは、すでに男子寮の内部で決議されていて、僕は、その通りに話したのに過ぎない」
そして、彼は、重要な情報をあっけなく話した。
「パウロは今、ティラノの講堂にいる」
ちょうどそこへ、
ケンクレアイのフェベが、談話室に乗り込んできた!
「話は聞かせてもろたで!! マリア、ティラノの講堂やな!? うちも一緒に行くで!!」
彼女の後方から、プリスカも入ってきた。
「マリア、わたしも行くわ」
「なあ!! 三人で行けば無敵やろ?!」
「マリア、──君は本当に、良い友達を持ったな」
ルカは、フェベとプリスカの顔を順々に見つめて、さらに言った。
「二人が付き添うのなら、何も心配はすまい。……マグダラのマリア、行ってこい。パウロのいるティラノの講堂へ。そして、彼としっかり話してこい」
明くる日。──
昨日の大雨は何だったのだ? あれは悪夢か?!と言わぬばかりに、本日は快晴である。
プリスカとアキラの家の教会の前には、パウロのもとへ向かうマグダラのマリア一行を見送る人々が、おおぜい集まっていた。
これからティラノの講堂を目指すのは、マリア、プリスカ、フェベの三人である。家の教会に集う人々は、彼女たちの出発を前に、束の間の別れを惜しんだ。
やがて、三人は、出発の時間を迎えた。ティラノの講堂へは、徒歩で行く。エフェソの街は、ちょうど祭りの日を迎えていた。馬車の通行は規制されている。
でも、大丈夫。──マリアは確信していた。みんなが見送ってくれたから、絶対に大丈夫だ。
エフェソの市街地から、もうずいぶんと離れてしまった。しばらくのあいだは、太陽の光の下、オリーブの木が生えている荒れ野の道をずんずんと歩いていく。
長い長い道のりを歩き、マリア、プリスカ、フェベの三人は、エフェソ南西部の山あいにある、ティラノの講堂にたどり着いた。(最終回へつづく)