空島に届かぬ少女は憧憬を胸に

空宮海苔

空島に届かぬ少女

 沢山の人と会っているはずなのに、寂しいと思ってしまうのはなぜだろうか。

 それは多分、私ののせいだろう。

 私の背にあるくせして、怖くて動かない、ただの飾り。


 周りに、私と同じ種族の人は居ない。

 私が追い出されたあの島にしか、彼らは存在しないから。


 空が飛べる、というのはどういう感覚なのだろう。

 翼があるはずなのに、そんなことばかり考えてしまう。


 私が、みんなと同じように飛べたらな。


 そんないつも通りの日常の中、一つだけ非日常があった。


「何これ?」


 近くを通る街道に、一つ落ちていた。鉄のような素材に、緑色の石のようなもので枠付けされたフォルム。真ん中に網状の部分があり、右側には金属のアンテナがあった。

 こういった魔力を使う近代的な装置は、地上には滅多にない。


 それに、この独特な見た目には見覚えがあった。


「セレスティアの、通信機?」


 私がかつて居た島。

 二年ほど前、飛べないせいで追放されてしまったあの島の機械に、よく似ていた。


 私はそれを持ち去ることにした。


 ◇


 機械いじりの経験なら少しだけあった。

 大体の処理が終わると、私はそれを持ち上げる。


 裏のスイッチを押し、コンコンと叩いて調子を確認する。


「あー、あー。もしもし? 繋がって――ないかな。流石に」


 しばらく返答がないのを確認してから、机に置く。

 さらに数秒眺めてみるけれど、何も反応がない。


 どうやら、完全に壊れているらしい。まあそりゃ、あの高さから落ちたらセレスティア製と言えど壊れてしまうのかもしれない。


「……なんだ。何もないじゃない」


 期待ハズレじゃないか。


 そう思ってから、自分でその感情を否定した。


 繋がったとして、私の何かが変わるなんてことはないだろう。

 私の恐怖が消えるわけでもないし、セレスティアに行けるわけでもない。


 だから、私は最初から意味のない期待をしていた。

 なんだか急に、虚しくなってきた。


「何してるんだろう」


 自問してから、部屋を去った。


『――あー、あー。ハロー? うーん、この辺じゃなかったっけ……』


 バッと後ろを振り向いた。

 音の出処は通信機だった。


 通信機のノイズ越しでも、その声を聞き違えることはなく。


 私は机の上にある通信機に近づいて、手に取った。


「――レーク?」


 一度息を飲んでから、私は声を発した。


『うわビックリしたぁ! え、ていうかその声……ネルシー?』


 向こうから返ってくる驚いたような声。

 どうやら、向こうも覚えてくれていたらしい。


「あ、うん……そうだよ。その、久しぶり」

『え? 本当? ほんとにネルシー?』


 弾んだ声で、驚きながらも嬉しそうに訊く彼の名はレーク・セレスティア・ベレスト。

 私の幼馴染で、私と違ってちゃんと飛べる人。

 今でもセレスティアに住んでいる、はずだ。


 セレスティアという名前があるが、あそこに住む人たちは皆そうなのだ。


 全員がそのミドルネームを持っている。

 彼らは、有翼人種である自分たちを特別な存在だと思っている。また、天空の島に住んでいるから、自分たちを崇高な存在であると信じている。

 だから、自分の住んでいる島の名前までミドルネームにしてしまうのだろう。


 私も昔はその名があった。

 けれど、あそこから追放された時、セレスティアを名乗る権利も剥奪された。


 為政者いせいしゃ達は、飛べない無能が島に居るのが気に食わなかったのだ。

 だから、私は今地上に居る。


「本当、本当だって」


 私はなんだか彼の喜びようが面白くって、微苦笑びくしょうする。


「うわ……凄い偶然だな! あれ? ってことはもしかしてセレスティアに居る⁉」


 少しチクり、とした。

 未だに飛べないのに、そういう期待を向けられるのが苦しかった。


『なんだよぉ、戻ってこれたならすぐ連絡――』

「居ない」


 だからか、少しだけ威圧的な言い方になってしまったかもしれない。


『え?』

「私、まだ飛べないからさ……地上に居る。ごめんね」


 そのことにすぐ気がついて、今度は少し優しい声を意識して私は笑った。


『あ、いや……いいんだ。勘違いした俺が悪い』


 数秒、居心地の悪い沈黙が走った。


「もし、私が怖さなんて感じなかったら――飛べたんだけどね」


 私は自虐するように呟いた。

 ただの夢物語だ。


『そうだな……でも、そんな上手く行かないもんな』

「うん――でも、そっちも大丈夫みたいでよかった」


 私は切り替えるようにして笑う。

 実際、無事だったことが分かって嬉しかった。


 それに、自分の寂しさが紛らわせられるような気がしたから。


『まあそうだな――でさ、今通信してるってことは地上まで通信機が落ちたってこと?』

「そうだね。こっちまで来てたみたい。少し壊れてたから修理したけど」

『凄いな……どこから落ちたんだろう。でも落としたことはバレないでほしいな。怒られるかもしれん』


 通信機越しに苦笑が聞こえる。

 一般人が地上と交流することは好まれる行為ではない。それは、地上にものを落とすことも同様だった。

 法で裁かれるほどではないけれど、大人たちから怒られることはあるはず。


「……じゃあ、これは私の方で保管して隠しておくよ。それならこっちのは絶対バレないでしょ?」


 それは善意か、と問われると自信を持って応えられない。

 私がただ、彼と話したいだけな気もする。


『あ、確かにそれならいいね。頼むわ』

「うん、分かった。そっちも気をつけてね」

『じゃあ、往来であんまり長く通話してると怪しまれるかもしれないから、今日はこれで切るぞ。またな』


 彼は少しだけ声を潜めた。


「うん、また」


 返事をして、通信機を切った。


 どこか現実味がなくて、ダランと腕を垂らす。

 どうやら、なぜかまた彼と縁が繋がってしまったらしい。


 窓の外を見ると、そこにはちょうど青空にただ一つ浮かぶ島があった。

 中心にそびえ立つ大樹に、周囲には円周上に人工の橋が架かっている。


 その島は、随分と遠く見えた。


 ◇


 ぼーっ、と空を眺めていた。

 今日の空は、まるでパレットを全部水色で塗りつぶしたみたいな空だった。


 本来ならあの空にも届くはずだったのに、なんてことはなるべく考えないようにした。

 首を傾ければ見える翼も、見ないようにした。


 チュンチュンという小鳥の声を右から左に聞き流しながら、特に何をするわけでもなく家の外にあるベンチに座っていた。


 通信機に関しては、触っていない。自分から繋げようかとも思ったのだが、彼がずっと手に持っているとも限らない。それに、何を話せば良いのかも分からないし、なんだか怖くて繋げられなかった。


 昔、レークはこんなことを話していた。


『空っていうのはね。寒いんだよ。風が冷たい。でも、空を飛んで、ずっと向こうの景色を見ていると、なぜか体があったかくなるような感じがあるんだ』


 私が飛べないのを気にしてか、いつもそういう話をしてくれた。

 確かにそれは楽しい話だったけれど、そういうのを聞く度に、自分が飛べないことを強く突きつけられているような感じがした。

 それが、少し嫌だったな。


「おーい、大丈夫か?」


 怪訝そうな顔で覗き込まれ、私の意識は現実に引き戻された。


「あっ、すいません――師匠。少しボーッとしてました……」


 顔を上げると、そこにはベレー帽を被った少し日焼けした肌の女性が居た。

 金髪碧眼。短く切った髪と自身のファッションに対する興味のなさ故に男らしさを感じる女性だ。

 絵を描いていて、その中の服装には詳しいのに、自分のこととなるとどうでもいいらしい。


 彼女の名はメルス。


 私がなぜ師匠と呼んでいるかと訊かれれば、彼女が空から落ちてきて瀕死だった私のことを助けてくれたから。

 そして、そのあとも私に多くの助言をしてくれたから。


「気にすんな。そうそう、この前頼んだヤツはできたか?」


 彼女は姿勢を戻した。


「ええ、はい。家の中にあるので、今持ってきましょうか?」

「分かった。頼んだよ」


 ◇


「はい。これです」


 私は金の装飾が施された澄んだ水色の球体を差し出した。


 これは魔導具というもので、セレスティアで使われる機械と同じようなものだ。

 主に大気や生物の中にある魔力というものを使い、事象を発言させるもの。

 それは『魔術』と呼ばれるが、それを道具として封じ込めたものだ。


 今回のものの効果は単純。手で握ったりすると、起動して周りが冷える。

 最近暑いから冷たい水が飲みたい、とのリクエストだった。

 そこそこにしょうもない理由だ――まあ別にいいんだけど。


「お、助かるねぇ」


 彼女は画家だ。

 だけど、それ以外のことはどうもやる気が出ないらしい。

 よくそれで生きていけるものだ、とは思う。

 けれど、彼女は人に頼るのが上手だから、さほど苦労はしていないらしい。


 私とは大違いだった。


 人に頼る、というとなんだか怖くなってしまう。それは、言い換えれば誰かに自分の荷物を持たせることだ。

 それが原因で相手が傷ついたり、逆に拒絶されたりするのが、失敗するのが怖い。

 だから、一人で全部抱え込んでしまったほうが楽だ。そう思ってしまう。


「へぇ〜、なんかカッコいいね。貴族気分が味わえるかも」


 面白そうに彼女はそれをぐるぐる回しながら眺めていた。


「確かにそうかもしれませんね。でも、コップに入れるので、一緒に飲まないように気をつけてくださいね」

「もちろん分かってるさ。じゃあこれ報酬ね、今回もありがと」

「いえ。こちらが感謝したいくらいですから。普段の依頼仲介も含めて」

「ははは、そりゃ助かるね。まあでも、こっちは手数料もいただいちゃってるからね。いい商売ですわ」


 彼女はなんだか悪そうに笑いながら、腰をのけぞらせた。

 私は返す言葉が見当たらなくてただ笑っていると、急に表情を戻した。


「バカチン。こういうときは『いい商売って、私のこと金ヅルだと思ってるのか!』って言うんだよ」

「あいてっ」


 デコピンされた。

 少し痛くて、頭を抱えてしゃがむ。


 理不尽だ。

 いや、でも相手が正解を言ってくれているし――


「い、いい商売って、私のこと金づるだと思ってるんですか!」


 しゃがみこんだまま叫んだ私の視線と、立っている真顔の彼女の視線が無音のまま交差する。


 だんだんと顔が熱くなってきた。


「……うん、合わないね」


 それから、やけに真面目な顔で師匠が呟いた。


「酷いですよ!」

「はっはっは。すまんすまん。まあ元気になったみたいで良かったさ」


 私が叫ぶと、師匠は面白そうに笑った。

 そうか、今元気付けられていたんだ、とそこで気がついた。


 気遣いができるのに、本当に掴めない人だ。


「あっその……ありがとうございます」

「礼には及ばんさ。あたしが好きでやってることだからね」


 彼女は朗らかに笑った。


「ま、これからも色々とよろしくね。あんたの作ったものにはお世話になってるし、仕事の仲介だって、実際少しお金が入ってるわけだからね。それじゃあまた」


 言い切ると彼女は踵を返し、背中越しにひらひらと手を振りながら去っていった。


 作ったもの、というとあのような魔導具以外にもある。小さい工芸品だったり、ちょっとした服や装飾なんかもだ。

 彼女はそういう手芸は壊滅的らしい。けれど代わりに絵の上手さと、人に頼る能力はピカイチだ。


「……はい、またお願いします」


 私はその後ろ姿にぺこりと礼をした。


 ◇


 師匠と話してから、何かを恐れてうじうじと言い訳をしながら通信機に触っていなかったのがバカらしくなってきた。

 訊きたいことなら沢山あった。

 今セレスティアはどうなっているのか、あれからどんなことがあったのか。


 目の前にあるのは買い物リストだけれど、何かメモする予定はない。

 ただ、何か落ち着かなくてペンを持った。


 起動すると『ジリリリ』という着信音が鳴った。

 しばらくして、繋がる。


「あー、ハロー。聞こえる?」

『ああ、居るよ。てか、ちょうど今帰ってきたとこだからタイミングいいね』

「よかった」


 気がついたら勝手に手が動いていて、くるくるとペンを回してしまう。


『何かあった?』

「いや、ずっと私はこっちに居るから、そっちのこと色々聞きたいなって思ってさ……ダメ?」

『いや、別にいいぞ。まあそうは言っても、そんなに変わったこともないんだけどな』

「じゃあ、今お店の方はどう?」


 彼の父は文房具屋をやっていた。小さな店だけれど、黒字は続いていたはず。

 だから、彼もそれを継ぐことになっていたし、よく手伝っていた。

 今はどうなっているんだろうか。


『最近は仕事量も増えてきたけど、それ以外は普通って感じ。人付き合いは少し増えたけどね。あとは表に出る機会も増えた……けど、それでも仕事量は結構少なくしてもらってるよ。学校ももうすぐ卒業で忙しい時期だし』

「そういえば、もうそういう時期なんだ。そっちは勉強とか大丈夫?」


 学校。

 地上では少ないけれど、セレスティアではごく一般的なシステムだ。

 義務教育である初等教育、そして任意入学の中等と高等の教育と来て、最後にアカデミーという研究施設がある。


 初等六年、中等三年、高等三年、アカデミーは大体四年在学することになる。

 地上に落ちてから知ったことだけれど、この教育水準は世界全体で見ると異常なほど高いらしい。

 私は中等学校を卒業してから、地上に落とされた。

 その間に彼は高等学校にも入学していたはずだ。


『うん、普通にやれてる。まあ勉強はちょっと厳しくなったけど……赤点取るほどじゃないかな。教えてくれる友達も居たし』


 友達、か。

 私にはレークくらいしか居なかったな。


 なにせ、飛べないせいで腫れ物扱いされていたものだから。

 いじめ紛いのことだってされた。


 思い出して、少し嫌な気分になった。


「そう……良かった。大丈夫そうで」


 言葉とは反対に、私はどこか寂しかった。

 勉強に関しては、私がよく手伝っていた。自慢じゃないけれど、成績は良いほうだったから。


 それに、普段から私の方がお姉さんをやっていた感じがしたし。

 あの頃の彼は、どこか弱々しかったから。病弱なわけでもいじめられていたわけではなかったけれど、常に不安そうだった。


 けれど、今じゃ私のほうがそんな感じだ。


『ただまあ、卒業なのはちょっと寂しいかな』

「まあ、みんなとお別れだもんね」

『……うん、それもあるかな』

「それも?」


 違和感を覚えて訊き返す。


「やっぱりさ、ネルシーが居ないのは変な感じがするんだ。ずっと一緒に居たのに、急に居なくなっちゃってさ。今話してるのもそうだし、本当に現実味がないって言うか……」


 レークの言葉はそこで途切れた。


「そっか、ありがとね」

『……早く、こっち来れるといいな』


 言われて、少しハッとする。

 まだ、戻ってきてほしいと思っていたんだ、と。


 ――でも、私には無理だ。

 そう言おうとして、私は閉口した。


 なぜなら、その言葉に違和感があったから。

 多分、私はまだ飛ぶことを、そしてセレスティアに戻ることを諦めきれていないんだろう。


 この翼があるせいで、最後まで諦めきれていないんだ。

 ――これなら、私には翼なんて要らなかったな。


「そうだね」


 全て飲み込んで、短く肯定した。


「でもまあ、レークならもう大丈夫でしょ。私は飛べないし、レークも頑張ってね。私のことも、気にかける必要ないし」


 それから、自分に言い訳するように話した。


『……それは違わないか? 俺が思ってるのは、ネルシーが必要だとか、気にかけるとか、そういう話じゃなくて――』


 彼が息を吸うと同時に、また言葉が途切れる。


『いや、やっぱ言葉がまとまんないな。なんでもない』


 それから、誤魔化すような笑い声と共にそう聞こえてきた。

 今のがただの言い訳だった、と彼も薄々わかったのだろう。


 少し居心地が悪かった。


「……分かった。ありがとね」


 けれど、向こうが追求して欲しくなさそうだったので、私は言及しなかった。


『――あっ、そろそろ俺行かなきゃだわ。今日店の後処理頼まれてるんだ』


 向こうで立ち上がる音がした。


「そうなんだ。それじゃあね」

「うん、それじゃ」


 プツリ、と通信が切れる。


 ふと眺めた窓の外は、私の心を写すような曇り模様だった。


 私はセレスティアに戻りたいのだろうか、それともそんなことはしたくなくて、ここに居たいのだろうか。


 どんどん分からなくなってきた。

 諦めた、そう自分に言い聞かせていたはずだった。けれど、彼と話して、セレスティアと繋がってしまったせいで、余計なことを考えてしまう。

 また会いたいな、戻りたいな。


 でも結局、私の怖さはまだ払拭されていない。

 まだ飛ぶことを想像すると――怖くなる。


 胸の奥が気持ち悪くなって、私は部屋を出た。


 彼と話さなければ、この気持ち悪さもなくなるだろうか、なんて縁起でもないことを考えてしまった。


 ◇


「どうしたのさ」


 玄関先で、メルスが訊いた。

 色々届けてくれたり、依頼の話をしにわざわざ来てくれることも多いのだ。

 今回は、お隣さんが私に野菜を、ということでそれを届けにきてくれた。


「どうしたのって、何でしょう?」


 私は半笑いで聞き返す。

 半笑いだったのは、それが顔に出ていたことが分かってしまったからだ。


「ほら、やっぱり分かってるんじゃないか」


 カラカラと面白そうに笑う。


「……師匠には叶いませんね。でも、ちょっと心当たりがある程度ですよ」


 私は一つため息を吐いた。

 明確には分かっていない。


 けれど、多分通信機とレークのこととか、空島のこと、翼のことだろう。


「へぇ、それは?」

「それは――言えません。ごめんなさい」


 一瞬言おうとしてから、最初にレークと話したことを思い出した。

 隠しておく、と言ったのだから約束は守らないと。


 ――それに、他人に自分の荷物を背負わせるのはイヤだった。

 もしそれで何か、その人に悪影響が及んだら、と思うと怖かった。

 だから、一人で抱え込んだ方がいい。


「んだ、そんな変なことなのか?」

「まあ、はい。少し」


 いぶかしむメルスに、私は曖昧な返答をする。


「そうかぁ……ま、言ってみたら案外大したことないとあたしは思うけどな」

「……そうでしょうかね」

「そうさ。ま、でもあんまり一人で抱え込むんじゃないよ。あんたそういう節あるからさ」


 すらすらと彼女は述べる。


「はい、分かってます」

「本当に分かってんのかねぇ……まあ、元気にね。あんたは優しいんだ。でもまず、自身にもその優しさを向けてやりなよ」


 彼女は苦笑した。


 ――私が優しい、か。

 ただの臆病者だと私は思う。


「……もちろん、です」

「……おう、それじゃ。またね」


 何か言いたげな表情をしながらも、彼女は去った。


 ◇


 野菜は地下室にしまって、部屋に戻った。

 すると、通信機がジリリリ、と急かすように音を鳴らしていた。


 手に取ると、声が聞こえる。


『ネルシー?』

「うん。居るよ」

『よかった。それでさ……昨日のこと、気にしてない?』

「昨日?」

『そう。あの……最後の会話のこと』


 最後、というと少し微妙な雰囲気になったことだろうか。

 確かにあのときは少し嫌だったけれど、別にそこまで気にすることでもないと思った。


 それに、私がもっと強ければ最初からこんなことにはなっていないわけだし。


「それなら、別に大丈夫だけど。むしろ、私の方が申し訳なかったくらい」

『よかった。ならいいんだけどさ』


 少し当惑の混じる声色が返ってきた。


『でさ、もいっこ聞きたいことがあって――そっちの生活はどう? こっちのことは話したけど、そういやそっちの聞いてないなってさ』

「確かに、そうだね。そっちとは随分違うよ。色々大変」

『そうなんだ……例えば何?』

「一番は……他に天人族が居ないことかな。翼は生えてるのは私だけだから、変な人みたいに見られる」

『ああ、そっか……』


 どこか納得、というより憐憫れんびんのようなものを感じる声だった。


「まあそれとさ、学校もめったにないんだよね。それに、冷蔵庫もないし。だから料理が大変」

『冷蔵庫が……ない?』


 信じられない、と言いたげな声色だ。

 生活に密接しているものだし、私も最初はそう思った。


「ふふっ、まあ信じられないよね。でも地下室に保存したりできるし、なんとかなりはするよ。それに、もっと大きな都市にいけばそういう魔導具があるみたいだし」


 それが面白くて、少し笑ってしまう。


『そうなんだ……こっちの便利さと比べて、本当に大変だね』

「うん。でも、変なことしてくる人はこっちの方が少ないかな」


 私は苦笑する。

 人間関係はこちらの方が良好だった。


『そっか。こっちだと大変だったもんな』


 悲しげに彼は言う。


「いや、でも大丈夫だよ。あれは私が飛べればなんとかなった話だし」

『でも! ……だって、ネルシーが悪いことないだろ。飛べないからって、何が違うんだよ。理由が怖いからだって、何も変わんないだろ。意味分かんない理由で、八つ当たりしてくるアイツらが悪い』


 レークは一瞬声を荒らげた。

 一瞬驚いたけれど、同時に嬉しかった。


 昔のことな上に、他人のことなのに、ここまで思ってくれているなんて。

 やっぱり、レークは優しいな。


「……そうかな」

『そうだよ、絶対そうだ』

「確かに、そうかもね。ありがと」


 悔しそうにする彼に、私は短く感謝した。


「だからさ、いつか絶対――や、ごめん。なんでもない」


 彼は言い留まったが、続く言葉は、容易に想像できた。


 飛べるようになろう、とか。

 こっちに来てよ、とか。


 セレスティアの法律があるから、一般人は勝手に地上に降りられないのだ。

 降りようと思ったら、相当上の職に就かなければいけない。けれど、そうなれば地上の知人に会うことなんてできっこない。

 もともと、地上に堕とされた天人族と会うのは好かれる行為ではないわけだし。


 だから、私が飛ばなければいけない。


 ああ、ダメだな。

 また飛ばなきゃいけないとか、そういうことを考えてしまう。


「……うん、別にいいよ」

『まあでも、いつか会えたらいいな』


 その言葉を聞いて、顔をしかめる。

 胸の奥に思考の絞りカスみたいな気持ち悪いものが溜まっていく。


 なんで私が飛ばなきゃ、戻らなきゃいけないのか。

 でも、別にレークのことが嫌いなわけじゃないし、むしろ他の要因がなければ確かに戻りたい。

 だから本当なら『そうだね』と返すべきなんだろうけど、私はこの恐怖と向き合うのが嫌で嫌で仕方ない。それに、実際あそこだって何もかも良いわけじゃない。


 なんてぐるぐると考え続ける。

 結果出た言葉がこれだった。


「……ううん、私には無理だよ」

『そんなこと――まあ今まではそうだったけどさ。だって、そっちは変なこと言ってくるヤツも居ないんだろ?』

「うん、まあね」

『なら、飛べるんじゃないか? 時間だって沢山あるだろ?』


 彼の言葉によって、私の逃げ道がどんどん閉ざされているみたいで嫌だった。

 言い訳がなくなっていく。


 なんで、どうして私がこんなに悩まなきゃいけないんだ。

 別にいいじゃん、飛ばなくたって。


 ああ、面倒臭いな。


「……無理だって。もう私は考えたくないの、そういうこと。いいじゃん、飛べなくたって。それに――」


 レークが頑張れば良い。

 そう言いかけて、やめた。


 それを言ってしまったら、私が本当に嫌な人間になってしまうような気がしたから。


「ううん、なんでもない……ごめん、そういうことだからさ。私はこっちに居るよ」

『う、うん。まあ、分かった』


 気圧されたような声が聞こえてくる。

 少し罪悪感が沸いた。


「それじゃあ、今日はもう切るね。バイバイ」


 これ以上話していると余計なことを言ってしまいそうだ。


『え? あ、うん……』


 困惑気味の声がする。


「――ごめん」


 私の小さな謝罪と、通信が切れる音が静かに部屋に響き渡った。


 ◇


 家から少し離れた場所の小さな川の横手に座り、私は星を見ていた。


 いつもの私のお気に入りスポットで、お気に入りの時間帯。


 普段は薄らと聞こえる人々の喧騒も、日が沈んで眠った町からはその一切が聞こえない。

 まるでこの場所だけが世界から切り離されたかのようだった。


 水の流れる音や、風の音。

 そんな自然が醸し出す音色のみがこの場所を包んでいる。


 首を上に傾けると、無数の星々が空に瞬いていた。

 意味もなく星に手を伸ばしてから、私は呟いた。


「……なんで今更、繋がっちゃったのかな」


 私が戻るには、もう何もかも遅い。

 地上の生活に馴染みすぎたし、セレスティアと離れすぎた。


 それに、レークとだって長い間離れていた。

 今更戻って、何が起きるというのだろう。


「いや、ただの言い訳かな」


 ぽつり、と独り言。


 でも、私はもうこんなことを考えるのも嫌だった。

 もっと楽に生きたい、悩みたくない、逃げたい。

 卑怯だって、弱いって、分かってる。

 だけど。


「――どうして、こんなに苦しいのかな」


 ふと、服のポケットに何か入れたままだったことを思い出した。

 それは、あの通信機だった。


 私はそれで、魔が差してしまった。

 これを壊せば、捨てればもう何もかもなくなって、悩まなくて済むんじゃないかと。


 ポケットから緑の通信機を取り出し、撫でる。

 これを壊してしまえば、多分もう会うことはないんだろう。


 腕を降ろし、ギュッと強く握って、息を吸う。


「――ごめんね」


 誰にも届かぬ小さな謝罪を空虚な空に向け、私は川にその通信機を放り込んだ。


 ポチャン、とどこか寂しげな音が響いた。

 強い電撃の音がするわけでもなく、爆破の音がするわけでもない。


 劇的なものは何もなく、ただ静かに、それは流れていった。

 その通信機との距離が、まるで彼との距離の遠さを示しているように感じた。


「やっちゃったな」


 瞑目する。


 ああ、最初から翼なんてなければ、こんな悩みを持つことも、苦しむこともなかったのに。それかもし、私にもっと勇気があったなら、こんなことには。


 意味のない後悔を抱えながら、私は帰路についた。


 大丈夫、数日も経てば全部忘れてるよ。


 ◇


「はい、どちら様でしょう」


 ドアをノックする音が聞こえて、私は外に出た。


「め、飯をくれ……」


 玄関前にベレー帽が落ちていた。

 いや、玄関前にはメルスが居た。


 うん、何やってるの?


 やけにノックが弱々しいと思ったら、そういうことだったらしい。


「何やってるんですか……」


 しゃがんで顔を覗き込みながら訊く。


「げ、限定絵筆を買ったら飯の分がなくなった……」


 何を言っているんだろうこの人は。

 まさかそこまで絵を優先するとは思ってもいなくて、流石に驚いた。


 それから一言、素直な感想を。


「バカですか?」

「辛辣ぅ……」


 とりあえず、ご飯は食べさせてあげることにした。

 まあ、普段のお礼ということにしてあげよう。


 ◇


「っぷはー! 生き返るわー!」


 水入りの陶器のコップを掲げながら彼女は叫んだ。


 まるで酒か何かでも飲んでいるかのような様子だ。

 それにまだ何も食べさせていないのに元気そうだ。


「それ水ですよね? というかまだご飯食べてませんよね?」

「そうだけど?」


 何を言っているんだお前は、みたいな目線を向けられた。

 理不尽。


「はあ……まあいいですけど」

「ほんと、ネルシーちゃんが居て助かったわぁ。まあ居るから無理したってのもあんだけどね」


 メルスは面白そうに声を上げる。

 ちなみに、お金がなかったのは本当に高級絵筆を買ったせいらしい。行商人が仕入れた限定品だったから手が伸びてしまったとかなんとか。

 本当に絵以外はダメな人だ。


「本当に私が居て良かったですね」

「分かってる分かってる――本当に、いつもありがとね」


 急に真面目なトーンで感謝を述べる彼女。

 なんか、いきなりそんなことを言われると恥ずかしいんだけど。


「なんですか急に……でも、その、私もいつも助かってますから。ありがとうございます」

「……チョロい。悪い男に引っ掛かりそうだ」


 その顔はやけに真剣だった。


「なんてこと言うんですか! 真面目に感謝して損しましたよっ!」

「だっはは、悪い悪い!」


 彼女は腹を抱えて笑った。

 全く、私からしたら笑い事じゃないのだけれど。


 チョロい、私がチョロいか……


「もういいです。私はご飯用意してきますから、待っててください」

「お、助かるぅ」


 彼女を尻目に、私は台所へ向かった。

 何が作れるかな。それから、師匠の好みにあったものは――


「……てか、結局作ってくれるんだ」

「聞こえてますよ」


 これ以上言われたら本当に作ってやらない。

 そう思ったところで、ちょうどよく師匠は何も言わなくなった。


 ◇


 それから料理を出すと、感謝の言葉と共に美味しそうに食べ始めた。

 なんというか、自分で作ったものをそうやって食べてもらえるのは心が暖まった。


 ……直接言ったら絶対からかわれるから言わないけど。


 それから、家に居る師匠を見ていると不思議な気分になった。

 昔は、レークもうちに来たり、あるいは自分が行ったりしていた。

 それほど仲が良かったから。


 けれど、これからは絶対関わることもないのだろう。

 そう思うと、胸が締め付けられた。


 ああ、嫌だな。

 面倒くさい女みたいで。


 自分で選択したことだろう、と自問する。


 それから、目の前のメルスを見ていると、なんだか羨ましく思えてきた。

 もし師匠が同じ立場だったなら、こんな事態にも陥らないんだろう。


 多分、いつもみたいにヘラヘラ笑ってるんだ。

 それで全部吹き飛ばして、自分の望むものをいとも簡単に手に入れてしまうんだ。


 こんなに近くに居るはずなのに、彼女でさえも遥か遠くの存在のように感じてしまった。

 まるで、私が届かないあの空みたいな。


 みんなが当たり前のように飛び立っているというのに、私だけが地を這いつくばっているんだ。

 急に、寂しくなってきた。


 私だけ、誰も居ない平原でただ空を眺めているような、そんな感覚。


「なんか変な顔してるな」


 いつの間にか、長い間彼女の顔を見つめてしまっていたようだった。


 そして、内心を見透かしたかのような発言が私を射抜いた。


 ドキッとした。

 普段飄々ひょうひょうとしている彼女の瞳には、真剣な色が宿っている。


 それから、一秒もしなかっただろうか。

 私は嘆息して、諦めた。


「はい、そうでしょうね」


 自嘲気味に笑う。


 どうせ通信機あれも壊したんだ。

 それに、師匠なら洗いざらい話してしまってもいいだろう。


 そう思ったのだが、なぜか深くは突っ込まれなかった。


「そっか、なんかあったんだな。陰気臭い顔してるぜ」


 彼女は乾いた笑い声を上げる。

 けれど、不思議とバカにしている感じはしなかった。


「まあ陰気臭い女ですからね」


 自嘲する。


「そう言うなって。あんたは面白いヤツだぜ。それに、他人のことを考えられる、いい女だ。あたしが男だったら狙ってるね」


 ニヤニヤ笑いながら、まるで口説くようにして語った。


「……そうですか」


 別に師匠に狙われても嬉しくない。

 私は顔をそむけ、窓の向こうを見た。


 空の端っこは夕焼け色に染まりつつある。

 だが、その赤と青の間で揺れ動く空には、あの空島はなかった。


「まあでも、自分のことも考えねーとよくないよなぁ……」


 まるで独白するように感慨深げに呟く。

 何か経験でもしたかのような物言いだ。


「そうかもしれませんね」


 私は曖昧な返答を返す。

 いや、それしか返せなかった。


 それから、師匠は困ったように笑う。


「ま、いいや。ごちそうさま。美味しかったよ」


 ガタン、と椅子を引き、師匠は笑顔を浮かべる。


「いえ、いつも助けてもらってますから」


 今日の笑顔は品切れだ。

 今の私は多分、酷い顔をしている。


「おう」


 一言、発してから彼女は手をひらひら振りながら去ろうとした。

 遠くなるその背中を見ると、さらに寂しさが押し寄せてきた。

 彼女はただの人間なのに、彼女さえも飛び立とうとしている光景を幻視する。


 もっと何か、ないのだろうか。


 私が変だと分かっていたなら、何か。

 慰めるでも、話を聞くでも、気の利いた何かがないのだろうか。


 そういう面倒な願いが胸中に渦巻いているのを感じた。


 それから、彼女は立ち止まった。


「まあさ、悩みってのは人それぞれあるもんでさ。あたしみたいな他人が介入できるもんじゃなかったりするんだよ」


 『でもさ』と彼女は続ける。


「これだけは言うよ――ネルシー、笑いなよ。自分のためにね。それが無理なら、そのために行動すんだ。あんたって、やっぱ自分のこと大切にしないからさ。ははっ」


 最後にあまり彼女らしくない可愛らしさでこてん、と小首をかしげた。

 それから、恥ずかしげに笑う。


 笑いなよ。

 笑う。

 自分のために。

 無理なら、そのために行動する。


 確かに、笑えてなかったかもしれない。

 妙にに落ちた。


「――そうですね、ありがとうございます」


 私は、今度こそ彼女を笑顔で送った。


「おう、それじゃあな。見送りは必要ないぜ」


 ニカッといつものように笑って、師匠は部屋のドアを閉めた。

 バタン、という音がやけに響く。


 見送りが必要ない、というのは私への配慮なのだろう。

 何かあるんだろうから、動かなくてもいい、という。


 それから、私は考える。


 飛びたくない、何も考えたくないと願って、ここに居る。

 辛いことから目を逸らし、楽な人生を送りたくて逃げてきた。


 でも、そんな私は笑えていただろうか?

 いや、そんなことはなかった。結局のところ、私の願いはもっと単純だったのかもしれない。


 少し、余計なことを考えすぎていたのかもしれない。

 そう思うと、何か肩の荷が下りたような気がした。


 ◇


 ベランダの外に出ると、青みがかった世界が広がっていた。

 星も月も見えない宵闇の中の空は、けれど確かにそこにある。


「私が笑うために……か」


 瞑目して、思考に集中する。

 私が笑えない理由。


 それは空島から追放されたからだろうか。

 いや、違う。


 みんなに追いつけないから、私だけが置いてけぼりだから。

 確かにそうかも知れない。

 けれど、そこは重要じゃない気がした。


 レークと会えないから?

 それも、一つの理由かもしれない。


 けれどやっぱり、一番の理由は。


「ただ飛べないから、かな」


 目を開いて、呟く。


 空島に戻れないからとか、周りの反応がどうとか、そういう種族だからどうとか。

 そういうことを抜きにしても、私は飛びたかったんだ。

 ただ、空に憧れていた。それだけだったのだろう。


 ようやく自覚できた。


 ◇


 翌日。

 朝四時に私は起きた。

 日の出はまだで、寝る前より少し明るさを帯びた藍色の空が窓の外に広がっていた。


 それから、昨日のことを考えてしまって落ち着かなかった。

 そのせいでもう一度寝るということもできなかった。


 だから、私は外に出て散歩でもすることにした。

 空が綺麗だ。


 夜明け前の街道は、足音も、息の音さえも、人間が発する音は一つも存在しなかった。

 時間帯のせいもあるのだろうか。誰一人歩いていなかった。


 コツコツと街道の石畳を踏む音だけが聞こえる。


「――あ」


 しばらく歩いていると、横に川が見えた。

 私が通信機を捨てた、あの川。


 いつものように、私はその横手に腰掛けた。

 ふわりと芝生の感触が伝わってくる。


 この日が落ちた後、そして落ちる前の静けさが好き。

 静寂の中揺らぐことのない、青い空。


 けれど、今日ばかりは少し寂しかった。

 なぜだろう。


 でも、いつもの孤独を感じるような寂しさとは違った。

 ただ、どこか懐かしいような、もどかしさのような感情だった。


 それも、やっぱりあの空に届かないからだろうか。

 どうしようもないくらい、私は空が好きなんだろう。


 憧れて、切望して、それでも怖くて、届かない。

 だから理由を付けて、考えないようにして、飛ぶことを拒否していた。


 本当は、ずっと飛びたかったはずなのに。


「なんだか、バカみたいじゃない」


 ふっと優しく笑う。

 ずっと気持ちに蓋をして、嘘を付いていた。

 蓋をするための言い訳だけは沢山用意して、外すのは意味がない、怖いと言い続けていた。むしろ本当は、外したくて仕方がなかったはずなのに。


 けれど、今一度自分を見つめてみれば、ずっとずっと簡単な話だった。


 ふと、上を見上げると、空島がそこにはあった。

 ただ一つ静謐に浮かぶそれを見ていると、私の胸の奥底から、急に感情が沸き上がってきた。


 その名前は知らない。

 けれど、私が『飛びたい』と思っていることだけは、はっきりと分かっていた。


 立ち上がり、歩き出す。

 川に点々とある石を飛び越えて、向こう岸に渡った。


 ザッザッと土を踏む音だけがやけにハッキリ聞こえた。

 その音はだんだんと速くなってきて、次第に歩みは走りへと変化していく。


 何かに突き動かされるようにして、ただまっすぐに。


「はっ、はっ……」


 息が切れ始め、小さく漏れる声が夜闇に消えていく。


 まるで何かに突き動かされるかのようにして、川の向こうに広がっていた夜の草原を駆けた。

 夜明け前、藍色に埋め尽くされた空の中に浮かぶ空島を、目を逸らさずに見つめた。


 視界の中心に捉えたそれは、案外小さかった。


 けれど、代わりに空が恐ろしいほどに大きなものに思えた。

 勘違いだと自分に言い聞かせて、一瞬すくんだ足を無理やり動かす。


 飛べるとか飛べないとか、もうそういうことはどうでも良かった。

 私は飛びたい。


 私には翼があるんだ。だから、諦めきれない。

 なら、やってみるしかないだろう。


 やらなきゃ、後悔してしまう。


 だから、何が起きてもいいから、私はこの空に足を踏み出す。

 少し向こうの場所から、急に地面がなくなっていた。

 崖だ。


 私は一直線にそこへ向かった。

 後戻りはしない。してはいけない。


「――いくよ」


 発破をかけるように呟いて、トンと地面を蹴った。

 ふわりと体が浮く感覚があって、同時に翼を動かす。


 バサリ、と音がして浮遊感が増す。

 とにかく、私は必死で翼を動かした。飛べるように、落ちないように。


 少し体を横にして、速度を上げつつ上に向かう。

 確かこうしろと飛行マニュアルに書いてあったはずだ。無心で翼を動かし続ける。


 不思議な感覚が体を包み、浮かんでいく。

 それから、見た。


「――あ」


 気がつけば、私は空のずっとずっと上の部分まで来ていた。

 遠くに広がる地平線から、暁色の空が迫っていた。


 その端から見える太陽が、私を祝福するかのように顔を覗かせていた。


 それから、急に視界が広がったような感覚があった。

 今初めて、私が今居る場所がどんなところなのかを認識した。


 この空は、広かった。


 下からでは分からないほど広大で、荘厳で、幻想的だった。

 頬を撫でる冷風が心地よい。


 風が冷たくて、気温が低い。


 そのはずなのに、私の心はこれでもかというくらい熱かった。

 ああ、レークの言う通りだったんだな。


「……ふふっ」


 気がつけば、笑みが漏れていた。

 なんだか急に笑えてきて、大声で笑う。


 広い広い空は、私の小さな笑い声程度はすぐにかき消してしまった。


 ああ、なんだ、こんなに簡単だったんじゃないか。

 難しいことなんて、何一つなかった。


 私は最初から、できないと決めつけていただけだった。

 本当にただ、臆病になって、怖がっていただけだったんだ。


 私は空を駆け回った。

 移りゆく景色が、体に吹き付ける風が、そして空を飛んでいるという事実が。

 その全てが新しく、楽しかった。


 高揚したまま飛び回って、それからはたと気づいた。


「――あ、セレスティアの方にも、行かなきゃ」


 少しばかり冷静になった私は、はやる気持ちを抑えながら、空島の方に向かった。


 ◇


 島の裏手、比較的人通りの少ない部分から私は降り立った。

 来てから思い出したが、私はもうここの戸籍を持っていない。


 それに、今は勝手に入国しているような立場だ。

 バレたら一体どうなることかは分からない。


 今までにないくらいうるさい心臓の音を抑えるように深呼吸する。


「すぅー……はぁー……」


 大丈夫。

 まず、私は天人族だ。

 飛べるようになったのであれば、待遇だって悪くないはず。

 昔にも、地上に落とされた人物がまた戻ってきたという事例があったはずだ。


 書類のこととか、面倒なことは後でやればいい。

 今は、それより大事なことがある。


 それから、私は歩き始めた。

 向かうのは、当然レークの家。


 謝らないといけない。

 謝って、仲直りしたい。

 また、友達になりたい。


 戻れるのかすら定かではないけれど、私はその一心だった。


 通りに出ると人通りが一気に増える。

 表面上、私は普通の街を歩く天人族なはずだ。


 服だって地上のものではあるが、こちらでも普通の範疇のはず。

 けれど、いつかバレるんじゃないかとヒヤヒヤする。


 なぜか視線を感じる。誰も見ていないはずなのに。

 彼らには何もしてないはずなのに、なぜか罪悪感が沸いた。

 それを振り払って、私は歩みを速めた。


 ◇


 木造とレンガ、そして緑の屋根を被った至って普通の一軒家。

 隣のシャッターの上には文房具屋と書かれた看板がぶら下げられているけれど、逆に言えばそれ以外は普通の家屋だ。


 ここで、間違いないはず。


 玄関をコンコンとノックする。

 ちゃんと気づいてくれたのか、しばらくしてから扉が開いた。


「はーい、どちらさ……ま?」


 驚いたような、訝しんでいるような表情をしながら出てきたのは、レークだった。


「……その、どこかで会いましたか?」


 不安げな声。

 数年も経っているし、容姿も多少変わっているから自信がないんだろう。

 それに、まず私がここに居ること自体あり得ないことだ。


「うん。えと、久しぶり……レーク。ほら、私。ネルシーだよ」

「う、嘘だろ……⁉ ほんとに来たのか⁉ どうやって……いや、別に今はそこはいいな!」


 彼はまるで自分ごとのように喜んだ。


「なんていうか、ごめんね。最後の通信もだし、今までずっと」


 私はなんだか気恥ずかしくて、半笑いのまま謝った。


「最後の通信……? ああ、あれか……」


 頬を掻きながら、困ったように笑う。


「いや、というかあれは俺が悪いだろ。それに、今までのことだって謝ることないって」

「うん、まあそうだといいんだけど……」


 なんだか落ち着かない。

 私とレークとの関係というのは、こんなぎこちないものだっただろうか。


 状況が特殊すぎるのかもしれない。


「おかえり」


 すると、彼は笑顔を浮かべ、急にハグをしてきた。


 いきなりのことで驚いたけれど、同時に少し安心した。

 やっぱり、面倒なことを考えるのは私に合ってないや。


「うん、ただいま――ありがとう」


 彼には見えてないだろうけれど、私は薄く笑った。

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空島に届かぬ少女は憧憬を胸に 空宮海苔 @SoraNori

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