丑三つの邂逅

西奈 りゆ

邂逅(かいこう)

文字通り、私は何もない男でございます。

愚か者でございます。

ですがこのご時世、皆がそうであるとは言えません。

ですがそうでなければ、私にいたっては、この身の上を語る理由がございません。


私は住処すみかをもちません。

いかな寒空、炎天の中にあっても、体温のままに生きていかねばなりません。

ええ、ええ、つらいと思ったこともそれはもう、数えきれずありますとも。

ですが私は、この道を選んだのです。

理由でございますか? それはもう、伏せさせていただきましょうか。

何、私とて、忘れたいことの一つ二つ、あるのでございます。


さりとて、私も黙って凍え乾くわけにはいきません。

命への執着は手放しつつありますが、屋根のないままに病んで苦しみのうちに死ぬことは、やはり恐ろしいことなのでございます。

ことに、このところ降り続く雨には、あるいは恵みの雨とは分かってはおりましたが、やはり閉口しておりました。ざあざあざあざあ。幾日いくにちも降りやむか、分かったものではありません。これは、そんな日に始まったことでございます。


大粒の雨が降っておりました。それでいて、ひどく蒸し暑い夜でございました。

私はようやく手に入れた雨合羽を巻き付けて、その日は神社様の境内で眠ることにしていたのでございます。あまり手入れのされていない、苔むした箇所が目立つ場所でした。耳の欠けた稲荷の像が、私を見据えておりました。ひどく寒々しい場所でした。とはいえ、そのほうが私にとっては好都合でございました。

私に信仰はございませんが、ポケットの10円玉を奉納いたしました。

今晩の宿を拝借するに足るものであるかは分かりませんが、礼節というものを、愚直な私は忘れることができませんでした。


境内の影に身を横たえ、数刻ほど過ぎたことでありましょうか。

相も変わらず降りやまぬ雨の粒の中に、人影が見えたのでございます。


すわ、ご参拝の方でしょうか。

信仰深い方もいらっしゃるものです。こんな雨の中、この宵闇の中に、詣でる者がいるなどと、私とて予想はできなかったのでございます。

ですが、私はすぐに違和感を覚えました。黒い服に黒い傘を差したその人影は、どうやら女子おなごのようでございました。傘の下から、長い髪が覗いておりました。一歩一歩、女は境内を進んでいきます。傘からあぶれた長い黒髪から、水滴が滴るのが、うっすらと見えておりました。


下心を覚えたわけではございませんが、好奇心というものがございます。

そして私とてそれなりに年を重ねております。知識というものも、多少は持ち合わせているのでございます。女が分け入っていったのは、境内の奥に広がる、深い森の中でございました。


時折ぱきぱきと枝を踏み、葉をがさがさと言わせながら、彼女は大きな樹の下に立ちました。私はそれを、そうですね、二十かそこら離れた斜めの場所から、そうっと見ておりました。


遠目のことで、おまけに背後は傘で隠れておりますので、女の素顔は分かりません。

ことに私は女子おなごの年齢などに疎いもので、もし正面から顔が見えても、そうそう言い当てられる自信もございません。


ですが、私の予想だけは当たっておりました。女が濡れたバックから取り出したのは、あちこちが不細工に飛び出てはいますが、藁の人形ひとがたでございました。


ああ、まだこのような風習が残っていたのか。

そら恐ろしさよりも、郷愁に似た感覚が私の胸に去来いたしました。

物騒なものですが、私の育った田舎では、子どもの時分、まれならずこういったものが散見されたのでございます。

そうして思い出したのです。あの頃は時折、誰とも知らない不幸が相次いだことを。

女は、バックから木槌と、あれは五寸釘でしょうか。白装束は身に着けておりませんでしたが、この時代、そのようなものを身に着けていては、なるほど、不審者として私のように職務質問などに合う可能性が高いでしょう。


女は、太い樹を見定めて、藁の人形ひとがたを押し当てました。さすがにここからは見えませんが、どうやら紙が添えてあるようです。あれは、新聞紙でしょうか。

そうして反対の手で、木槌を振り上げました。寒さのためか、怯えのためか、その手は震えているように見えました。


「もうし」


「ひっ」


突然暗がりから現れた私の姿に、女は声にならない悲鳴を上げました。

無理もないことです。このような状況で驚きもしない者は、よほどの豪胆ごうたんであると言えるでしょう。さりとて、騒ぎになるのも面倒です。私は努めて、穏やかな声色で女に語り掛けました。


「恨みに思う者がおられるようですが、今のうちにお止めになったほうがいい。私の田舎にもそのような者がおりましたが、なに、皆ろくなことになりませんでした」


村八分になった者。行方をくらました者。病に倒れる者。

打った側も、打たれた側も、私は幸福に終わった例を知りませんでした。

私に悪意がないのを見て取ったのか、女はきっとこちらを見据えました。


「あなたには関係のないことです。私は何もかも、覚悟しているんです。それでもあいつには、のうのうと幸せになってほしくないんです」


年のころは30か、40ほどでございましょうか。私のような年齢としになると、そのくらいの女など、どれも似たように見えて、見当がつきません。

闇の中でも青ざめた、憔悴しきった女の顔でした。

硬く、決意のこもった顔でした。さてその顔に、私は感ずるものがございました。

なるほど、これもえにしというものでございましょう。

こちらをなおもにらみつける女に対し、私はこう言いました。


「お嬢さん、私がその恨みのほど、変わって届けましょうか。なに、べつに殺めなどはしません。代わりに7日、参るだけでございますがね」


女は言葉を失ったようでした。そうでしょう。私が女の立場だったならば、このような突拍子もない申し出に、おいそれと乗ることもないでしょう。構わず、私は言葉を続けました。


「私は生きていても仕方のない人間です。さりとて、死んだとて天上てんじょうの世に上れるような行いもしておりません。呪いを返されたとて、どうせ先は短い。これも何かの縁だ。あなたが手を汚す必要はない。このじじいにその恨み、預けてはみませんか」


「・・・・・・そんなこと、できるわけがないじゃないですか」


女の眼からぽつりと、水の粒が落ちました。それは雨に混じって、止まることを知りませんでした。女は声をなくして、泣いているようでした。


「いいえ。できるのです。なに、あなたがこれから先の、生きることを棒に振らないことに比べれば、ほんのわずかなことです。私は、何もない人間です。あなたはご存じないでしょうが、そしてとても罪深いのです。どうかこのじじいに、それを預けてはくれませぬか」


雨足は、強くなるばかりでした。傘を差すのも忘れた女の肌は、雨に打たれたというより、雨そのもののように冷え切っているようでした。雨に打たれる森が、鳴いております。数刻、お互いに口を開くことはありませんでした。


「やめに、します」


女が口を開きました。


「あなたがどんな方なのか、私は知りません。ですが、あなたを巻き込むことは、私にはできません」


先ほどとは違う、強い意志のこもった瞳でした。そのとき女は、初めて笑ったのでした。


「そうでございますか。それはそれで、良いことなのでしょう。幸い、あなたはまだことを成す前に私に見つかった。妙な目に遭うこともないでしょう」


「だといいのですけど。けれど私、どっちでもいいかなって」


「いえいえ、そうもいきません。そこでご提案したいのですが、その呪物、私に処分させていただけませんか。けして悪いようにはいたしませんので」


女は、私からの思わぬ提案に、驚きと、多少の警戒を含めた表情で問い返しました。


「それは、お断りします。 私がしようとしたことが、どこから洩れるか分かりませんので・・・・・・」


「ですが、その人形ひとがたや釘、どうやってお持ち帰りになるおつもりでしょう」


女の手に握られた大きな五寸釘、そしてぼたぼたと水の滴る藁人形は、嫌が応にも目を引くものでした。私は続けました。


「この辺り、最近は私のような不審者の目撃情報が相次いでおりましてね。というより、たぶんそれは私なのかもしれませんが、夜間、警察の巡回が増えているようなのですよ」


「警察・・・・・・」


女の顔色が、ほんの少し白くなりました。


「その紙切れ1枚なぞ、何のお咎めにもならんでしょう。しかしそれ以外の品となると、見つかったときに何かと面倒でございましょう。悪いようにはいたしません。指紋がご心配なら、今この場でふき取っていただいていい。この爺の動き、といってもこの汚い骨と皮しかない老いぼれでございますが、お気になるのならあなたが遠くに行くまで、私はここで動かずに立っております」


女は、何事か考えているようでしたが、今度はあっさりと首を縦に振りました。

その顔は、可笑しそうに笑っていました。


「どうなってもいいのは、私も同じだったんです。でも不思議ですね。あなたを信じてみたくなりました。こちら、お渡しします」


そうしてその呪物は、私の手に渡ったのです。

去り際、女は私に言いました。「もしかして、神様の化身か何かですか?」

それに対し、私はこう答えました。

「いいえ、そんな美しいものではございません。とても卑しく、醜い者です」、と。

彼女は、今度は何も答えませんでした。


彼女は、こちらを振り向くことなく石段を下りていきました。

私に残ったのは、杜撰ずさんな藁人形と、五寸釘、そして木槌のみです。

こずえの合間から、相も変わらず滝のように雨が降り続いております。


私は、人形を持って茂みのさらに奥に進みました。

そして、勢いよく木槌を振り上げました。


あの女が呪わんとしていた男は、かつての私だったのです。

幼子をき、愚かにも罪から逃げてしまった、私だったのです。

画面越しに見た彼女の顔も、己の罪も、ついぞ忘れることはありませんでした。

とはいえ、それは愚かな、そして限りなく陋劣ろうれつな保身でございました。


私は自分を呪います。地獄に落としてくれと願います。


私の愚かな逃避が、一人の罪なき女性を、鬼に変えてしまうところだったと、

ようやく、ようやく気がついたのでございます。


この後、私は出頭いたします。

取り返しのつかない愚行を、永遠に償うために。


2024.7.18 一部修正しました。





















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