煙草の先
朝吹
煙草の先
好きな煙草の銘柄はキャメル。理由はパッケージのらくだを見ているとお話が頭に浮かんでくるから。二つのピラミッドとヤシの木を背景に、砂漠の王さまのように恰好つけてきめている横向きのらくだ。乾いた砂と黄色い日差し。
「じゃあ、嫌いな煙草のデザインは」
「セブンスター」
「分かる。あれは野暮だ」
セブンスターは喫煙による健康被害の警告文が目立つ仕様になっている。せっかくのスタイリッシュさが台無しだ。あの警告文は、それでもお前は煙草を吸うのか、吸うのだなと脅してくる。それでも平然と吸ってみせることで、かえって粋に転じるのかもしれないが。
「父親が吸ってたよ、セブンスター」
彼の口から生家の家の様子をきくのは初めてだ。玄関の隣りが父親の書斎。一ヶ所だけある窓の他は壁一面が本で埋まっていて、「籐で編んだ高さのあるごみ籠が、未開封の煙草の収納場所だった」と彼は両手でその大きさを示してみせた。
「傘立てのように何本も煙草のカートンが立ってるんだ、その籠の中に。ヘビースモーカーの上に癇癪もちで、煙草を切らしたら怒るから」
彼の父親は、いつも家にいた。
「作家だったからね。普通のご家庭とはやっぱり違ってたよ」
作家は十年前、彼がまだ高校生のうちに他界した。家族に背を向けて小さな室に何時間も閉じこもって文字を綴っていた父親の本が、今では古本屋で山積みされて叩き売られているのは、息子としてどんな気持ちがするものだろうか。
夜の給水塔の上に並んで座わると、彼は新しい煙草の封を開けた。金網で囲まれている裏山の給水塔に登るには、まず木に登り、金網の上の部分に足をかけ、張り出した枝を片手で持ちながらうまいこと金網を乗り越えて給水塔の真上に飛び移る。そのうち監視カメラでも設置されるのではないかとずっと危ぶまれているわりには今のところそれはなく、巨大なドラム缶のような給水塔の屋上は地元の者しか知らない秘密の絶景ポイントだ。山の上から海までの街並みが一望できるのだ。
夜道を歩く時に使った懐中電灯を頼りに、ビールも袋から取り出した。円錐形をぎりぎりまで低くしたような少し傾斜のついた給水塔の屋根は直射日光を浴びるためか塗料がすっかり剥げて、表面に触れるとくたびれた黒板のように少しざらついた感触がする。入れ替わり立ち代わり人が来るせいか、直に座っても意外とお尻が汚れない。
車もバイクも入れない細い山道を少し登るので、不良は近づかず、先客がいてもお互い譲り合うようにして友好的にその円形の屋根を分かち合っている。今夜はわたしと彼の他に誰もいなかった。
さわさわと夜の山が風に鳴っている。樹々の影絵の上には小さな月が出ていた。
「実家でも吸うの」
「吸わない。ママに絶対にばれる。二階のベランダで吸っても匂うみたい」
「じゃあ今日は家に帰れないね」
彼はわたしの首を引き寄せた。帰りにコンビニに寄ってお泊りに必要なものを買わなければ。
「いかにも今から泊ります!」
「店員さんも慣れっこじゃないの?」
「予備の歯ブラシやシャツくらい俺のがあるよ。前の彼女の物もある」
本当はこのままここに居て、一晩中ずっと夜を見ていたい。
「煙草の単位のカートンっていう響き、ダースより好きだな」
「分かる」
映画の中で悪党が「まあこれで何とかおさめてくれよ」と片目をつぶりながら警官に賄賂として押しつける長方形。
「車の後ろに沢山積んであるんだよな」
「そうそう。警官が物欲しげに粘っていたら、金の延べ棒みたいなカートンがさらに出てくるの。フランスパンみたいに抱えて」
バイト先の倉庫の裏で、最初の頃どこまで吸ったらいいのか分からなくて途中で口から離していた煙草をわたしの指先から取り上げて、「もうちょい吸えるよ」と自分の口に引き取っていったのが彼だった。間接キスだと騒いで嬉しそうに云い触らしたパートのおばさんが愚かすぎて、かえってわたしの気持ちは彼に傾いた。煙草抜きでやった後、「彼女にして」とわたしの方から彼にお願いした。
灰皿と化したビール缶の縁で灰を落とす。本当はわたしは煙草はそんなに好きじゃない。一本でやめておこう。
してみる?
うん。
じゃ、眼を閉じてみな。
そんなかたちで始まったわたしたちのお付き合い。
彼の額には、不良グループを抜ける際に煙草を押し付けられた根性焼きの痕がある。
「これがあると、店のお姉ちゃんたちがここにキスしてくれるんだよ」
そんなことを云って彼はむしろ得意げだ。
「父親の部屋に入るだろ、父親は入り口に背中を向けて机に向かっている。煙草の煙がいつも霧のように本だらけの部屋を焦げ臭くしていて、父親の背中を包むその紫煙が俺の眼には、男の身体から出ている闘気のようにみえたんだよな」
名の通った作家だった父親に比べて、その日暮らしのバイト生活を送っているが、彼はそのことを何とも想っていないようだ。
「その頃はまだ出版社にも本気で良い作品を世に出そうとして仕事をしている人間が大勢いたんだ。おやじは恵まれていたよ」
今は違うのだろうか。
「いい人もいるんだろうけどね。昔の担当が自分の仕事として、一冊の本を誇りをもって出していた頃のことを考えずにはいられないよ、やっぱり」
踵で強く叩くと低い音のする給水塔の屋上で彼はあぐらをかいた。その横で膝を抱いて座っているわたしは、ほとんど本を読んだことがありませんという新人がちゃっと書いたものがネットから出版物となり、半年後には消えているような昨今の出版事情のことを考えていた。
「まるで『勉強せずに東大に行きました』だよな。そんな自慢が悪気なく堂々と表明できてしまう、そんな時代」
「書斎にあったお父さんの蔵書はどうなったの」
「捨てた。全部」
父の死後、家を売ることになったからだと彼は説明した。
「全て運び出されて書斎は空っぽになった。その時だな、父親の死の実感が沸いてきたのは。おやじの精神とその魂はこれでもう跡形もなくこの世から完全に失われて消えたのだとね。だから今、古本屋に積まれている父親の本を見ても何も想わない。あれはもう虫の死骸のようなものだから」
彼は新しい一本を箱から取り出して火をつけた。勧められたが断った。彼はライターではなく昔から燐寸派だ。擦る瞬間と、軸木が燃える匂いが好きなのだそうだ。
風で消えないように口許を手で覆う。手の輪郭が赤く透けて、煙草を咥えて伏目になった横顔が、まるでレンブラントの絵画のようにみえる。
港近くに密集する航空障害灯。その上空を、翼の先に同じ色を灯した飛行機が過ぎていく。
「お父さんを真似て小説家になろうとはしなかったの」
「あの才能は遺伝しないからね。それに小説を書くなんてのは、悪い恋みたいなものだろ」
その悪い恋を仕掛ける側の悪い顔をして、彼は一本の燐寸に火をつけた。すぐに吹き消す。
「本なんか読みませんという層が小器用にうまいうまいと褒めそやされながらご機嫌な執筆生活を送っている、その流れの裏に身を置きながら、一方通行の恋文をあてもなく書き続ける。そんな辛い恋に耐えるのは辛いだろ」
役者を駄目にするならうまいうまいと褒めればいい。わたしはスニーカーのつま先を見つめてどこかで聴いた文句を呟いた。
お父さんの部屋にこれをはこんで。
「母親が俺に頼むんだ。一日に一度くらいは息子の顔を見せておきたかったんじゃないか。父親なんだけど遊んでもらった記憶もないし、家の中に気難しい人がいるって印象しかないな。子どもの頃の俺は、せっせと煙草のカートンを彼の書斎に運んでは、黙って籠の中にさしていた。なにしろ昼夜逆転していて俺が学校に出て行く頃にあちらはようやく寝室に引き上げていたからね」
書斎の扉の向こうにあった一人の男の狂気。
わたしは彼に訊いた。
「お父さんの作品のことは読んでみて、どうだった」
「息子が家族の感情を入れて読むものじゃないと想ったから、一冊も読んでない。新聞に寄稿した時事ネタくらいはファイルされていたものに眼を通したけど。読む日がくるとしたら、俺がおやじが死んだ歳よりも歳をとって、完全におやじが他人に見えるようになってからだな」
「それでいいと想う。お母さんは?」
「初期の頃は読んでいたそうだよ。原稿に口出しもしたみたい。母親も出版社側の人間だったからさ」
彼の父親がすい臓がんで亡くなったのは脂の乗った時期だった。ちょうどいい時期に死んだと彼は惜しんではいない。
「俺の父親みたいなのは、生きながら自死していたようなものだ。他人の言葉は彼には届かないんだからね。砕氷斧を絶壁に突き刺して、突き刺して、一寸刻みに、おやじはどこの高みに登ろうとしていたんだろう。どんな風景を目指していたんだろう。まあそれは、彼にしか分からないことだろうけど」
作家だった父親はその手帳に遺言ともとれる絶筆を遺していた。
「何て書いてあったの」
「『煙草が吸いたい』」
「切実」
「煙草を吸える間はまだ生きてる。俺はまだ生きている。煙を吐き出すことだって出来る。きっとそう想いたかったんだろうな」
そこにいますと告げるような煙草の先の小さな赤い火。
下方から話声が聴こえてきた。誰かが給水塔を目指して登ってくるのだ。そろそろ場所を譲る頃だろう。
「墓参りも初盆の時の一度しかやってない。物心ついた時から家の中にいる知らない男の人って感じだった。その印象を今も大切にしたい」
服はシャツを借りるとして、下着はどうしよう。夜の間に洗って干しておけば朝には乾くかな。
煙草の先が小さく灯る。立ち去る前に最後に彼の煙草から昇った薄い煙は、煙だと分かる細くのびた形から次第によじれ、ねじれていく先からぼんやりと四方に薄れ、眼を凝らしても夜風と同じになってしまった。
[了]
煙草の先 朝吹 @asabuki
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