パンタレイ・パンドラ

北野かほり

第1話

 今日を繰り返すだけの明日はとっても退屈でとびっきり平穏だ。

 そんな毎日では、たった一つの希望すらろくに叶わない。

 それが一一一――ヒメの日常だ。


「さむっ」

 かじかんだ手足に、震える声が空気に放たれると白く濁って墨を垂らしたような夜に儚く消えた。

 猫っ毛でふわふわしたブラウンの髪、男にしては丸みのある整った顔立ち。服装は奇抜なピンク色のジャンパーに下も明るい色のシャツ、ジーンズのいでたちは男とも女ともつかない。

 見る人が見れば、そういう系とも受け取られる――ヒメは、オネェという分類の人種だ。

 明るい装いは真っ暗な夜のなかでぽつんと浮いていた。

 世間は冬の一大イベントのクリスマス。

 街は陽気な音楽が奏でられ、きらびやかなイルミネーションがところせましと広がっている。

 しかし、今、ヒメがいる商店街の端っこは、そんなにぎやかな界隈からはほど遠い。

 長年の不景気からさっさと店じまいをして、シャッターが下りて、人通りもない。ヒメ以外の姿はない。

 ヒメは奥歯を噛んで腕時計を見る。時計の針は十一時四十五分を指している。

 あと十五分でクリスマスが終わる。

 特別きらきらなことも、わくわくなこともなく、クリスマスが終わる絶望にヒメはまぶたをそっと伏せてため息を零した。

 八年前、ヒメはここで運命と出会った。

 どうしようもない現実に苛立って不良であったヒメは大勢に挑まれた。多勢に無勢と追い詰められたとき助けてくれた人がいた。不良を追い払い、手当を施して言葉少なく去って行った人。たった数分たらずの邂逅で落ちた恋は八年もヒメのなかで熟されてまだ渦巻いている。

 ここにいたらまた会えるかもしれないと淡く期待する自分がいる。

 高校生のときには認められなかった自分のなかにある女の性、恋愛対象が男のことも、今なら受け止められる。

 かわいいを平然と身に着けられるほど強くなった。

 あの人に会いたい。

 黒に赤を纏った美しい人。もう朧気にしか顔も思い出せない。

 やるせない心を誤魔化すように少し先にあるコンビニで事前に買っておいたビールを袋から取り出す。

 寒さに感覚がない指先でプルタブを爪でひっかけようとかりかりとひっかいているとぱきっといやな音がした。

 うげぇとかえるが潰れたような声が口から零れた。

 ないものばかりで、さらについていない。

 ピンク色に塗ったばかりの爪は哀れにひびがはいっている。血が出ていないだけめっけものだが爪を切る必要がある。

 明日もきっと今日と同じなんだというゆるやかな絶望はヒメを憂鬱にさせた。

「あー」

 無意識に地獄のかまのふたを開けたような唸り声が漏れた。

 心の淀みを振り払うようにビールを勢いよく開けて一気に喉へ、さらに胃に流し込む。

 すきっ腹の体にアルコールがしみ込んでいく。

 ヒメの視界がぐるりと回転する。

 そのまま二本目も一気に飲み干した。

「くぅ、うまい!」

 もう一本、のタイミングで端末が鳴ったのにびくりと体が強張った。

 ポケットからスマホを取り出した。

 メールを確認すると【UGN】の文字が目に飛び込み、心臓が高鳴った。

 絶交してしまった友人か、それとも――いい知らせがほしいとばかりにヒメは勢いよく画面を指でタップする。

【コード三七七五さまへ。N市支部よりジャーム討伐の協力依頼がきております。依頼を引き受けるのでしたら、下よりアクセスしてください】

 仕事のメッセージにヒメはがっくりと肩を落とした。

 開いてしまったばかりについ詳細をたどると、ジャームを殺すジャームの一文にヒメの顔がますます険しくなった。

 世の中がこんなにもうつくしくてもオーヴァードは血なまぐさい事件に関わるはめになる。

 ごーん、と遠くで鐘の音がした。

 イベントの日だから特別に鳴らされたと思われる鐘の音が一度、二度と響く。

 ああ、これでとうとうクリスマスが終わった。

「鐘の音なんて、どこの教会か、お寺かしらねぇ……帰るかぁ」

 枯れた花みたいに萎んだ気持ちを抱えてヒメは足下を睨んだ。

 急いで家に帰っても誰もいないことはわかっているから足が重い。

 ふと、視界に白い粉が目にはいった。

 顔をあげたヒメは、あっと声を漏らした。

 灰色の重い雲からはらはらと零れる粉雪。

 きれいなはずの雪になんだか世界のすべてから見捨てられたみたいな気持ちで泣きたくなった。奥歯を食いしばって涙を我慢すると今度こそ家に向けて一歩進み出す。

 ヒメの視界にきらりと鈍く輝くなにか――肉食獣の爪だ。

 世界が停止する。

 ワーディングが展開されたと気が付いたときにはなにもかも遅かった。

 ヒメは肩を掴まれ、建物と建物の間にある狭い路地に引きずり込まれた。

 後ろに転がされるようにして地面に尻餅をついたヒメは肩の痛みに視線を向けた。服と一緒に皮膚が裂けている。

 恐る恐る見上げた先には二本歩行の狼がいた。

 人より大きな狼男はむき出しの牙からだらだらとよだれをたらして理性のなさと一緒に狂暴さが窺える。

 ジャームだ。

 狼が腕を振り上げる。

 回避できない死を目の前にヒメは咄嗟に目を閉じて覚悟した――どれだけ待っても死はヒメを抱擁はしなかった。

 そっとヒメが片方の目を薄く開けると、闇のなかに白い布が飛び込んできた。

 白を纏った何者かがヒメの前へと飛び出して庇ってくれたのだ。その人物は目にもとまらぬ速さで狼の脳天を潰し、首を地面へと落とした。

 血ではない、きらきらとした石が零れ落ちる。

 アンタレス・クリュスタル――ジャームが時折零す宝石だ。夜の闇に石は透明な輝きを放つ。

 恐ろしくも幻想的な光景にヒメの目は釘付けとなる。心臓がやけに大きく音をたてている。

「だれ?」

 呆けた、間抜けな声がヒメの喉から搾り出た。

 白衣を身に纏った彼がゆっくりと振り返る。

 年齢としては四十代後半くらいに見えた。皺が刻まれた顔立ちは精悍さに年相応の艶と渋みが滲み出ている。

 鴉の濡れ羽のようなつややかな黒髪に混じる赤のメッシュ。長い髪を組紐で一つにまとめている。

 赤を纏う鮮やかさは若々しさとやんちゃさを感じさせたが、顔にかけられた眼鏡が知的に、男らしい。

 非常に顔が整った痩身の男にヒメはぽけっと見惚れた。

 男が眼鏡のレンズ越しに目をほそめ、片手を伸ばしてきた。

 男の片手には小型の斧が握られている。これで狼の首を落としたのだとヒメは理解した。

 これはまずい。

 非常にまずい。

 ヒメは浅い呼吸を繰り返し、眼球だけ動かして男の一挙一動を見守った。

「ヒメさん、よかった」

 動けないヒメの前に片膝をついた男が、腕を伸ばして己の懐に引き寄せて抱きしめてくる。甘くて、苦い香りにヒメはひぃと息を飲んだ。

「え、ええっと」

「ヒメさん? どうかしたんですか? 肩の怪我が痛むんですか? すぐに治癒しましょうか?」

「待って! あの、……あなた、誰」

 恐る恐る問いかけるヒメは上目使いに男を見つめて、ぎゅぅと下唇を噛む。

 男から滲む大人の色気に心臓が別の意味でどきどきしている。これは死ぬ。色気とその他諸々の刺激で心臓が止まって死ぬ。

 ヒメの問いに男は瞠目して、微笑んだ。

「ジンですよ。ヒメさんの、夫の」

「はい?」

 困惑と不安の混じった声が漏れた。

「説明してもいいんですけど、このままだとUGNが来るので……行きましょう、ヒメさん」

 ジンが――視線だけ忙しく動かして警戒するのにヒメは頷くが、腰が抜けて動けそうにない。

 一向に動けないヒメを、先に歩こうとするジンが訝しげに見つめる。

「やだー、ママったら腰が抜けてるよ、パパっ」

 ジンの肩から現れた小さな生き物が面白そうに声をあげた。

 絵本なんかに書かれる、人の手サイズくらいの人間の女の子。年齢としては十歳前後、肩くらいの長さの黒髪をなびかせ、きらきらとしたフリルのスカート、背中には透明なトンボみたいな細長い羽を生やしている。

「ママったら、びっくりしたのね」

 ふふっと妖精が小馬鹿にしてくるのにヒメは噛みついた。

「ママって、アタシ、産めませんけどっ」

「私、ママとパパの子供だよ?」

「正確にはそういう風に作ったサポートAIですよね」

「私、その言い方、好きじゃないのよね。なんかやだー」

「真実でしょう」

「そういうところ、パパ、頭がかたいのよっ」

 苦笑いを浮かべるジンの肩で手足をばたばたさせて文句を口にする妖精。

 目の前で繰り広げられる非現実なやりとりに頭がまったく追いつかない。

 ヒメはこの場で一番いい選択を考えた。

 逃げよう。

「ヒメさん、そろそろ巡回エージェントが来ちゃいます」

「う、顔がいい」

 つい、ヒメの口からこの場で最も間抜けな言葉が出てきた。

 メンクイの自覚はあるし、それで何度か痛い目に遭ったこともある。こんな奇妙奇天烈な男に顔がいいといってほだされてろくなことにならないことぐらいはわかる。

 逃げよう。

 再び決意したヒメが顔をあげた先で宝石を見た。朝のはじまり。紺碧を溶かして、生まれた黄昏色の断片を封じた瞳。

 あ。わかった。

「アタシの、探していた人はあなたね?」

 ヒメがすがるように口にしていた。

 とたんに視界がくらりと歪んだ。

 よろけたヒメをジンが支えてくれた。

「ヒメさん? わっお酒臭い。飲んでたんですか? こんな寒空の下?」

「ママったら、ビール缶、三つもあけてるよ! パパ!」

「ヒメさん、すぐに酔うのに」

「ううっ」

 自分のことを抱くあたたかな腕と声がどんどん遠のいていく。眠りに落ち始めたヒメは返事一つままならない。

 これは酒に酔って見ている夢だ。

 都合のいい夢だ。

 初恋の人に会いたいと願い、けど叶わなくて、踏ん切りがつかないから見ている夢。

 夢なら、このまま覚めずにいたい。

 切実に祈るようにしてヒメは意識を手放した。



 お酒は金輪際やめよう。

 ヒメは燦燦と降り注ぐ朝日を全身で浴びながら、何度目かの決意を心のなかでした。

 格段にお酒に強いわけではないし、酔うと必ず寝てしまう。悪酔いすると吐くこともたびたびある。

 日々のストレスからお酒の量は増えてしまい、今やアルコール依存症一歩手前レベルまできてしまっている。

 ヒメ自身、よくないと自覚はしている。肝臓やら腎臓に負担はかかるし、美容にだってよくない。バーテンダーの仕事も今度こそやめよう。

 今までの決意よりも、今回は強い意志があった。

 なぜなら見知らぬベッドで、まったく知らない男の腕のなかで目覚めたのだから。

 見ると、自分は一糸纏わぬ姿だ。

 真っ裸なのにヒメは息を飲んだ。脳内でおいおいおいとせわしくつっこむ自分を落ち着ける。

 息と気配を殺して、自分のことをゆるく拘束する腕からそろそろと逃げる。ベッドから降りるとフローリングの床に無造作に転がる下着が生々しい。またしても悲鳴を飲み込んだ。

 ベッドのなかの相手を起こさないように細心の注意を払う必要が今はある。

「んっ」

 鼻にかかる声にヒメは、ひぃと小さな声を漏らしてしまった。

「……あなたは?」

 振り返るとベッドのなかから上半身だけ起こした男が寝ぼけた眼でヒメのことを見つめている。

 鴉の濡れ羽色の黒髪はつやつやで赤が混じり、ほっそりとしているが男性らしい体格、そして目についたのは美しい輝きを宿した瞳。光の加減のせいか朝焼けを連想する薄紫色。

「はぅ、顔がいい……じゃなくて、すいません! 間違えました!」

 ヒメは脱兎のごとく、自分の服を両腕に抱え込むとその場から逃げ出した。

 情けない下着姿のヒメはまろびでる状態で玄関にたどり着くと靴を履いてすぐに転移移動を展開、自分の部屋のベッドの上に転がった。


 二十年前、ある飛行機墜落事故によって広がったウィルスがある。

 人類の八割が感染したといわれる未知のレネゲイドウィルス。

 このウィルスに感染した者のなかに超人的な能力を手に入れる者が現れた、それがオーヴァード。

 十三個あるシンドロームのうち最大で三つまで操れる能力者たちは代償としてあらがいがたい衝動を背負うこととなった。

 力を使いすぎると理性をウィルスによって食いつぶされ、ジャームと言われる化物へと変貌してしまう。

 現段階ではジャームの治癒方法は存在しない。

 急激な変化は一般人には受け入れがたいと世界は秘匿を選んだ。

 ヒメが過去に籍を置いていたが抜けた今も積極的に協力しており、一般人とオーヴァードの共存を望むUGN。

 自分たちの力を好きなように使おうとする欲望のFH。

 ウィルスが意志を持って活動することを選んだゼノス。

 それ以外にも、この現状にいかに関わるかを狙う企業や他の組織たち――この世界の裏側に蠢いている。

 ヒメは十代で覚醒した。力のバロールというシンドロームの能力者だ――重力と一方的な力の干渉を行える。

 自分の把握する範囲での転移能力で味方をさんざんサポートしてきたし、私生活でも便利に活用している。

 こんな風に最悪な朝帰りだって出来る。


 今回のやらかしをヒメは心から反省した。逃げてしまった以上、相手と何があったのか確認できない、場所も覚えていないから再び転移で訪れるのも不可能だ。

 裸同士だったというならなにがあってもおかしいことではない。

「別にぺりぺりとかぬるぬるとかはなかったし、いやいや」

 ベッドに腰かけてわが身を確認しながら深いため息が漏れる。

 せめて名前ぐらいは聞いておくべきだった。

 着替えてからも後悔にもんもんするヒメは端末を取り出して昨日きたUGNのメールを確認し、すぐに引き受けると返信を行った。

 一分とかからず今回行く支部の地図が提示された。

「行くかぁ」

 二日酔いを抱えたどんよりとした声で唸った。

 イリーガル――現地派遣員は組織から必要なときだけお呼びがかかるフリーの存在――UGNで活動するヒメは、定期的にふりわけられる任務を引き受ける必要がある。長期で任務を引き受けないと活動しないものとして声をかけられなくなる。

 勧誘はするが、去る者は追わないUGNの緩さは今のヒメには程よい。

 初恋の人探しが難航を極めている現状を少しでも打破したい気持ちと金を稼ぐ目的で開始したイリーガル活動も、一年すぎてそろそろ限界を迎えている。

 どうがんばっても初恋の人には会えないのがもどかしく、活動自体やめようかと考えはじめていた。

「けど、バイト代としてはかなりいいんだよなぁ。これが」

 新しい洋服への物欲がヒメの優柔不断な心をぐらぐらさせる。

「今回で最後、今回で最後」

 自分自身に言い訳するみたいに言葉を繰り返して、急いで支度をして出発した。

 指定された支部の前にきてヒメは思わず顔をしかめていた。

 小さな診療所をまるで天敵を見つけたように見上げるヒメの前で玄関が開いた。そこから出てきた年取ったおばあちゃんや小さな子供連れの母親をセーラー服の少女が見送っている。

 ヒメがしげしげと眺めているとセーラー服の少女が胡乱げな目をして大股で詰め寄って来た。

「なんすっか? 午前中の診察はもう終わりっすよ」

「……えっと」

「あん? あんた、オーヴァードっすか?」

 眉根を寄せて警戒する少女は問いかけてくる。傍から見ればそれは因縁をつけているようにしか見えない。

「そうだけど」

「まさか、敵襲っすか?」

 少女が警戒を濃くするのにヒメは慌てて両手を突き出して振りながら一緒に首も横に振っていた。

「違う、違う、そんな堂々と襲ったりしないから! いや、FHだったらあるのかしら?」

「お前、FHっ」

 ちりっと空気に青白い火が走ったのにヒメはぎくりとした。

 少女の顔には獰猛な獣の敵意しかなく、いつ襲われてもおかしくない。はやくイリーガルだと証明書を出そうとするが、焦ってなかなか出てこない。

 炎氷のサラマンダー使いにこんな場所で何かされたら周囲諸共大変なことになってしまう。

 目の前の少女を中心にどんどん暑くなり始める。十二月の終わりだというのにヒメは額にうっすらと汗をかいた。

「立花さん、なんだか熱くなってますけど」

 凛とした咎めの声が建物から聞こえ、ヒメと対峙した少女がぎくりと顔を強張らせた。

「敵襲ですよ! 支部長」

「敵襲?」

 不思議そうな声音とともに奥から白衣を纏った男が出てきたのにヒメは瞠目した。

 そこに立つのは今朝の男だ。

 

「すみません」

「ううん。いいの。いいの。ほら、支部のなか案内してよ」

 ヒメは手をひらひらと振って、目の前で土下座せんばかりの立花あすみの謝罪を受け流した。

 現れた男に見惚れてぼーとしていると、彼にイリーガルかと問われて慌てて自分の持っているIDカードを差し出してことなきを得たのは数分前のことだ。

 立花あすみと名乗った少女はチルドレン――幼いときに覚醒し、そのまま組織に育てられた子供だ。

 あすみは元々世話好きな性格らしく、支部の案内を買って出てくれた。ありがたい半分、一度許したのにしつこく謝ってくる彼女にヒメは内心辟易としていた。

「ここが更衣室! あとは支部長室ですね」

「ちゃんと運営してるんだ」

 廊下を歩きながらヒメは物珍しげにぽつりと呟いた。

 UGNの支部はその活動の拠点として機能すればいいので表向きの仕事は適当というところも少なくはない。ここはきちんと運営しているようだ。

 UGNの仕事も診療所の仕事も同じ部屋で共有しているそうだ。

 一応奥には患者を泊められる病室もあるそうだが、もっぱら仮眠室として使用しているのだとあすみが熱心に教えてくれる。しかし寝不足のヒメは欠伸を噛み締めてほとんど右から左に聞き流していた。

 廊下の窓からのぞくと庭は適当に植えられた木々が冬の寒さに葉を散らして丸裸状態だ。特にこれと言って手入れをしている風でもない。

「だいたいわかったわ、ありがとう。あすみちゃんは、ここの支部の子なの?」

「いいえ。隣街の支部です。こっちには応援で、ここの支部あんまり人がいないらしくって」

「ふーん」

 確かにここには人の気配が他の支部よりも少ないとヒメ自身も案内されながら感じていた。今のところ、あすみ以外の支部員と顔を会わせていない。いくら万年人手不足でも、ここまで人の影がいない支部ははじめてだ。

 ここにはなにかある、ヒメの直感が危険信号をあげている。

 あすみはにこにこと笑って支部長室――この場合は診察室だ。もし急な任務があっても支部長に会えるし、わけありなら匿うこともできる、よく考えられている。

「支部長ー、案内終わりました」

「ありがとう、立花さん」

 丸椅子に腰かけた支部長と呼ばれた男が朗らかな笑みを浮かべる。

 ヒメは瞬時に顔の筋肉に力をこめた。ここでうっとかあっとか口にしたらばれてしまう。今だけは無の表情で耐えるしかない。

 どうぞ、と丸椅子をすすめてくるのにヒメは腰かける。その横にあすみも椅子を持ってきて座った。

「改めてご挨拶しますね。この支部を任せられている、観月尽です。ジンって呼んでください」

「支部長! ヒメちゃんは、ヒメちゃんって呼ぶんですよ。全部一って数字っす! 面白いお名前ですよねっ!」

 ヒメが名乗る前にあすみが身を乗り出してジンに説明する。

 名乗るときの常套句だ。

 一一一。全部が一。読み方はいちかず、ひめ。

 見た目とキャラの、ついでに名前もインパクトとが濃いことはヒメ自身がいやというほどに自覚している。

「ヒメさん、ですか?」

「そうよ。アタシ、ヒメって名乗ってるの」

 本当は一と書いてはじめと読む男名を、自分に似合わないからヒメと勝手に変えて名乗っている。

「かわいらしい名前ですね」

 ジンは目尻をさげて褒めてくるのにヒメはひぇと小さく心のなかで声を漏らした。

 顔のいい男に、ヒメは大変弱い。

 ジンの見た目は好みど真ん中すぎて困る。

 露骨に見るのもあれかと思って視線を逸らして、なんともいたたまれない気分に陥った。いつもならここできゃーとか叫んでオネェらしく積極的にアプローチするのだが、今朝のこともあって手のひらにいやな冷や汗をかいている。

「今追いかけているのが、ジャームを殺すジャームっていうすごくやばいやつなんですよねぇ、支部長! そいつのせいでジャームが大量発生してるって」

 あすみがはやく任務の話をしたいとばかりに口を開く。

「はい。この支部の地区で目撃情報があるので、主に巡回をお願いしたいんです」

「倒さないっすかー?」

「討伐も視野にいれてほしいって言われてますけど、相手の情報がないのでなんとも……UGNは積極的に捕獲する方針ですし。このジャームはアンタレス・クリュスタルに関わっている可能性があるので研究したいと」

 好戦的なあすみをジンはやんわりと窘める。

 むぅと頬を膨らませて面白くなさそうなあすみにジンは終始笑顔を崩さない。

 淡々と今の被害や調査場所などの打ち合わせを行っていく。その間、ジンがヒメにたいして意味深な、昨日のことをにおわせるようなことはなかった。

 日も暮れて、外が茜色に染まり始める頃にはヒメはすっかり油断していた。

「明日からよろしくお願いします。立花さんは、そろそろ帰っていいですよ」

「はーい。じゃあ、また明日っす」

 あすみが風のように元気に走り去っていくのにヒメも椅子から立ち上がった。

「アタシもそろそろ」

「ヒメさん」

「ひゃい」

 近い。

 ちょうどジンも腰を浮かせていたので、顔が間近にある。ヒメはかちんこちんに緊張した。

 ジンの前髪が、さらりとゆれて一房、落ちた。

 淡い朝焼けのような薄紫色の瞳が闇をどんどん色濃くして、見ていると吸い込まれてしまいそうだ。

 ジンは微笑みを崩さない。まるで人形のような貼り付いた笑みに冬の冷気とは違う薄ら寒さをヒメは覚えた。

 見えない罠に丁重にはめられた獲物の気分だ。彼は形のよい顔に多くのものを隠している。

「今朝のヒメさんですよね?」

「……っ、え、気が付いてたの!」

「やっぱりそうだったんですね」

 間抜けな顔のヒメは遅まきにもしかして自分はとんでもないひっかけにあったのじゃないかと理解した。

「実は相手のことをちらりとしか見てなくて自信がなかったんです。すごく明るいコートだけは覚えていたんです」

「え、あ、これっ! う、ううっ!」

 思わずヒメは胸をかきむしるような呻き声をあげた。

 己のかわいいもの好きがこんな風に自分の首をしめるとは思いもしなかった。

「昨日、なにがあったのか聞いてもいいですか」

「き、きのう」

「実は記憶が抜けていて……僕たち互いにはだ」

「あーーー!」

 恥ずかしさに顔を真っ赤にしたヒメは涙目でジンを睨みつけた。

「ごめんなさい! アタシも記憶ないの!」

「ヒメさんも?」

「お酒を飲んでたからぁ」

 俯いてもじもじと両手を合わせたヒメは言い訳がましい言葉を紡ぎ、乾いた唇を舌先で舐めた。心臓の音がうるさく、息も浅くなる。不安やら期待やらが押し寄せてめまぐるしい。

 きれいに掃除された床は窓から入る紅色をしていたが、傾いた日差しにじわじわと黒く染まっていく。

 室内は灯りをつけていないせいで暗い。水を溶かした墨色から漆黒の夜色に染まる。

 そっと長い指先が伸びて頬に触れられる。ヒメはびくっと震えた。

 ぐにゅ――思いっきり頬肉を伸ばされた。

「ふにゃあ!」

「ヒメさん、お酒は一日一本だって僕と約束しましたよね!」

「やくそ、うわぁ!」

 大いにうろたえたヒメは反論しようとして動きを止めた。

 暗闇のなかで一番星みたいな瞳にヒメは息を飲んだ。

「じん、さん? え、けど、その姿」

 あきらかに老けている。

 それもいつの間に眼鏡をかけて、長い髪の毛を一つにまとめている。

「一日一本だっていったお酒をどれだけ飲んだんですか? ポケットにはいってるのスキットルじゃないですか! うわ、これウィスキーがはいってる!」

 とんでもないものを見つけたとばかりにジンが顔をしかめた。それは先ほどの、表面を薄い膜で覆ったようなジンとは似ても似つかない。

「あー! アタシのお酒!」

「アル中になっちゃいますよ」

「アタシのお酒! ってきゃあ」

 お酒を奪い返そうと腕を伸ばした拍子に前のめりに転げたヒメはジンの懐に転がった。

 ひょろりとしていると思ったが、がっしりと逞しい腕のなかにもたれかかる形になったヒメは息を飲んだ。

 ジンがしっかりとヒメの腰を抱いて支えてくれたが、これだと逃げ場がない。

 息すらかかるほどの距離だと暗闇でも顔もはっきりとわかる。

 昨日の夜のことを聞いたジンと、目の前にいるジンは年齢もそうだが、纏う雰囲気が違う。

 目の前にいるのは親愛と揺るぎない強い気持ちを抱えた、美しい獣のような男だ。

「ヒメさん」

 声に宿る甘さも一等強い。まるで金平糖を砕いたときみたいな口いっぱいに広がる甘露の強さに酔ってしまいそうだ。

 ――この人だ。

 確信めいたものが広がり、胸の奥がぎゅうと無造作にわしづかみされたように痛い。

「電気つけましょうか」

「は、はい」

「今の状況についてもお話ししましょうか?」

「……おねがい、します」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パンタレイ・パンドラ 北野かほり @3tl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ