日常と非日常の狭間

蜜柑桜

日常と非日常の狭間

「ご馳走様」

 空になった皿に銀器を揃えて置くと、向かいの皿からもよく似た微かな金属音があった。

「足りたか」

「十分。美味しかった」

「そうか」

 なら良かったという言葉が聞こえてきそうな相槌は穏やかで、昼過ぎの弛緩した空気に似つかわしい。

 まどろみの中のように、全身がやや鈍った感覚に支配されるのを朧げに感じる。共に食事をするのはよくあることだが、なぜか今日はいつものようにするすると会話が続かない。

 これは旅の後の心地よい疲れと安堵のせいなのか。

「何か飲むか」

「あ、うん。そっちが飲むなら」

「気にせず頼めばいい——ああ、セレンが好きな花茶もある」

 頼むか、首を傾げて意向を訊かれる。それでいいと伝えると、彼は後ろを向いて給仕を呼んだ。

 ——よく通る声だな。

 間断なく鼓膜をくすぐり続けていた漣のような喧騒に、芯のある声が突き抜ける。張り上げるわけでもなく、大きすぎず。常日頃から聞いているはずの声なのに、別様に聞こえてしまう。

 何だろうこの感覚は、と理由が分からず視線が逃げて俯きがちになる。ところが卓に敷かれた細かい格子柄の布は家の食卓で目に入る素朴な木目と違って華やかで、落ち着くどころかふわふわした心地を増すだけだった。

 思えば、普段は食事を共にするといっても静かな家の中で育ての親と一緒であるか、出張先の忙しない時間ばかりだった。こうした小洒落た店で二人きり、特に次の用務も気にすることなく、綺麗に盛り付けられた品をのんびり堪能した記憶はほぼ無い。

 ——だめだな。

 ぼやぼやとした気分でいてはいけないのに、叱咤する気持ちとは裏腹に鼓動が静かに鳴り続ける。

 ただ昼食を食べているだけのはずだ。それがこんなにも胸が絶え間なく波立つのは、そこここに聞こえる歓談で浮き足だった店の雰囲気のせいだろうか。

「お待たせ致しました。お済みのお皿、お下げしますね」

「あっありがとうございます」

 給仕の声で初めて我に返るくらいぼうっとしている自分に気がつきたちまち恥じる。

 どう思ったか、と向かいの相手の顔を窺うも、特にこちらの異変を気にした風はない。

 自分だけ空回っているようでますます情けない。

「こちら、食後のお茶になります」

「ああ、それは彼女の」

 すい、と卓上を茶器が滑って芳しい花の香りが鼻腔をくすぐった。

 自分の頬が赤くなってはいないかと茶碗を覗き込むものの、顔を映す透き通った緋色の水面は知らんふりでつれない。

「このあと、午後はどうする」

「えっと、教会の学校のほう、留守中の事務仕事をやりに。クルサートルは」

「教庁に戻る。同じく留守中溜まりに溜まった面倒ごとを片付けに。忙殺されるだろうが後回しにはできないからな」

 茶器の持ち手に指を絡める様子をぼんやり見ながら相槌を打つ。美しい茶碗の絵柄が筋張った指で隠れた。

 ——大きいな。

 自分も茶碗を持ち上げて、口元を隠しながら密かに感嘆する。卓に置かれた手も、指を緩く曲げているのに自分の手よりずっと大きい。

 子供の頃には何の気なしに繋いでいた手は、手のひらの広さも指の長さも自分とさほど変わらないと思っていたのだが、いつの間にか随分違ってしまった。

 いまや自分の細い指はすっぽりくるまれてしまいそうだ。

「どうした?」

「あ、いや」

 訊かれて初めてまじまじ見てしまっていたのを自覚する。

「なんでもない——美味しいと思って」

 言いながら、知らぬ間に卓上で相手の手の向かいに置いていた自分の手を引っ込める。もう少し伸ばせば指が届きそうだったことすら無意識で、改めて頬が熱くなる。

 普段ならそんな眺めたりしないのに。そばにある手に触れるなど、考えないのに。

 整った綺麗な食器と身の回りにある空気、そしてさざめく音と、食事の香り——いつもと違うのはそれだけだ。

 それだけなのに、どうしていつも通り毅然としていられないのか。

 そのまま触れた指を握り返してもらえるかなんて、分からないのに。

 触れることが許されるか、それさえも。


 重ね合わせてとくとくと脈打つのを知られてしまったら、引けなくなってしまう。


「飲み終えたら、通常業務に戻るか」

「——うん」

 喉を熱い茶が潤していく。だがまだ渇ききっているのだろうか。うまく言葉が出ない。

 日常と非日常の狭間で、自分がおぼつかなくなる。まるでここは異空間だ。

 もし万が一、こんな機会がもう一度あったら、その時はどんな事態になってしまうのだろう。

 

 ゆっくり茶器を傾けながら、答えのない問いを繰り返す。

 ——はやくまどろみから醒めないと。

 ここを出たらきっと、目を醒ませる。



 そう思うのに、久方ぶりに和やかな顔を見せる相手の深い碧の眼を前にして、残り少ない茶でほんの少しずつ、唇を湿らせてしまう自分がいる。



 〜午後は緩やかに日常は続く……? それとも……〜


 長編シリアス・ファンタジー『月色の瞳の乙女』より。両片思いな二人。

 もしお気になりましたら、こちらの本編にもお越しくださいませ。

https://kakuyomu.jp/works/16817330667049844136

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日常と非日常の狭間 蜜柑桜 @Mican-Sakura

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