お好きな娘をどうぞ

あまくに みか

お好きな娘をどうぞ

 赤提灯が揺れる。酒の浮ついた匂いが漂う路地。

 ちりりん。ぽたり。

 鈴の音と深い瓶に水が落ちた音がして、首を回らせて頭上を仰いだ。


 崩れかけの石鳥居。そこにかけられた風鈴が、夏のぬるい夜の異質な存在として白く浮かび上がっていた。


 ちりりん。ぽたり。


 普段なら寄り道なんかしない。けれど、呼ばれたような気がして俺は狭い石鳥居をくぐった。

 互いに寄りかかるようにして立つ竹林。雨に濡れた土の匂いがたちこめている。提灯のあかりも、月の光も届かぬ鬱蒼とした狭い路地裏。


 ちりりん。ぽたり。

 その音が前方から聴こえてくる。

 音を頼りに進むと、突然もわりとした風が顔にぶつかった。線香のようなエキゾチックな匂いが混ざっている。

 続いていた闇の先に、忘れ去られたように置かれている赤い鳥居が見えた。


 ちりりん。ぽたり。

 赤い鳥居にもあの風鈴がかけられていた。

 こんな路地裏があったのだ、と感慨深く思いながら鳥居をくぐると足元で闇が動いた。

 驚いて退くと、それは黒猫だった。黄色の瞳を細めて鈍い声でようやく「にゃ」と鳴いた。


「いらっしゃいませ」

 声をかけられ、顔をあげると目の前に老齢の女性が立っていた。紫紺の着物をきた女性の佇まいは一級品そのもので、俺は来るべき場所を間違えたと戻ろうとした。

「みなさん、あなた様をお待ちしておりますのよ。さあさ、こちらですよ」

 紫紺の着物の女性は、俺の右手を握ると奥へと誘う。

「俺は、ただ、その立ち寄ったというか——」

 断る理由を考えていたが、目の前に現れた光景を見て俺は言葉が出なくなってしまった。


「お好きなをどうぞ」


 紫紺の着物の女性はふくんだ笑みを浮かべると、俺を更に一歩前に進ませる。

 この世の四季を表したような四人の娘が、こちらを向いて手招きをしている。開け放たれた四つの部屋の中で、美しき娘たちが座っていた。


 一人は春のように華やかな着物を纏い、桜色に染めた頬は、ふっくらとやさしげにふくらんでいる。

 その隣の部屋には、水色の着物をきた娘。長い黒髪は床に流れ、裾からのぞかせた足が涼しげに白い。

 三人目の娘は、紅い口紅に勝ち誇ったような表情を浮かべてこちらをジリジリと見つめている。その金色にちかい瞳は、魅惑的な力を放っており視線が釘付けになってしまう。

 最後の娘は、風が吹いたら倒れてしまいそうなか細い人だった。伏目がちな瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうで、長いまつ毛の影が、雪のように真っ白な肌に色濃く落としている。


「どの娘をお選びになります?」

 紫紺の着物の女性に尋ねられて、俺の意識が戻ってくる。

「えっと……そうですね」

 もう一度、四人の美しい娘たちを眺める。どの娘も見目麗しく、上品であった。

「では、この娘に」

 俺は四人目の娘を指差した。心の中では勝手に冬の君と名づけていた。その物悲しそうな表情が、たいそう気になったのだ。

「かしこまりました。とても良い娘です。どうぞ。いってらっしゃいませ」


 ちりりん。ちりりん。

 鈴の音が鳴った。

 冬の君が立ち上がる。

 俺の右手に手を添えると、小さな声で「参りましょう」と部屋の中へ招き入れる。

 ぽたり。ぽたり。

 水滴が瓶に落ちる深い音が響く。

 障子がサッと閉まった。


「こちらです」

 冬の君はもう一枚、障子を開ける。その先は外廊下であった。左右に提灯が揺れている。中庭には、信楽の子狸たちが並び、珍し気に客を見上げて笑っている。


「それで、どの娘が、お好きですか?」


 冬の君が振り返った。ぞっとするような滑らかな白肌に、大きな二つの瞳が見開かれていた。

 えっ、と聞き返す前に周囲の様子が一変する。


 俺は、夏のあぜ道に立っていた。

 緑の青々とした匂いがする。セミが一斉に鳴き始めて、太陽は真っ黒な影を落とす。


「アキ君はさ、今、好きな子いるの?」


 懐かしい声がした。そんなはずはないと思いながら振り返る。

 セーラ服姿の、あの時のままの、結衣が立っていた。


「ねぇ、答えてよ」

 結衣は手を後ろで組みながら俺の方にやって来る。なにか悪戯をしたい時、甘えたい時、彼女がする仕草だった。

「ふぅん。おじさんになったアキ君って、こんな感じなんだ」

 結衣が隣に立って、俺を見上げて言った。

 セミの鳴き声が大きくふくらんだ。

「背も、ずいぶん高くなったんだねぇ」

 当たり前だ、と俺は思った。俺の前の結衣は、付き合っていた時の頃と同じ中学生のままだ。

「バカだなぁ、私。ちょっと我慢して付き合っていたら、今のアキ君と結婚できたかもしんないのにねー」

 結衣が歯をみせてニッと笑った。


 あぜ道に夏風が吹いた。思わず俺は目を細める。

「あの時はごめんね」

 目を開くとあぜ道に結衣が一人立っている。ショルダーバッグの紐をぎゅっと握りしめて。

「結衣——」

 言いかけた時、障子が閉まった。



 再びの暗闇。

 肩越しにオレンジ色のあたたかい光が差し込む。振り返ると、メルヘンチックな音楽が流れてきた。

 すぐ目の前を赤茶の馬が通り過ぎていく。次に、白馬が。次々にやって来る馬を避けていると、服を掴まれて引きずり込まれた。


「久しぶり、アキ」

 馬のいない馬車に乗った俺は、隣の女を見て驚く。

「覚えてる? ここのメリーゴーランド。一緒に来たじゃん」

 ミルクティー色の髪を払って、奈美は前方の馬を眺める。大学時代の彼女だった。


「今、アキは何してんの?」

「俺は……」

 浮遊するようなメリーゴーランドの動きに合わせて俺たちの体は浮き沈みを繰り返す。奈美になんと答えたらいいのだろうか。逡巡していると、奈美の方が口を開いた。


「あたしはさー……」

 言いかけて奈美は黙る。

 メリーゴーランドの音楽だけが耳に飛び込んでくる。俺と奈美は沈黙したまま、グルグルと廻る。馬も馬車も固定具で止められたまま、グルグルと廻る。


「もし、時間が戻せたらどうする?」

「……なんで?」

「例えばの話。あたしは、大学生に戻りたい。そしたらね、アキに出会わない人生を選ぶんだ」

 だって、と奈美は言いかけて俺の方を向いた。

 左肩を強く押される。俺の体がメリーゴーランドから飛び出す。

 鼻の先で障子が閉まる瞬間、奈美が涙を拭って手を振るのが見えた。

「幸せになってね」



 見上げた天井は、墨色をしていた。

 何の音も聴こえない。

 起き上がる気もしなくて、その場に寝転んだまま天井を見上げていた。いや、もしかしたら天井ではないのかもしれない。背中を預けているのも床ではないのかもしれない。

 そう考えると、自分が宇宙に放り込まれたような感覚になり、ひどく寂しさを覚えた。


 冬の君はどこへ行ってしまったのか、いない。

 このまま過去に付き合っていた元カノたちが、ずっと現れてくるのだろうか。

「お好きな娘というのは、そういうことだったのか?」

 目をつむって、遠い昔の記憶をたどる。


 ——今のアキ君と結婚できたのかもしんないのに。

 ——もし、時間が戻せたらどうする?


 二人の声が蘇ってくる。

 もし、あの時、別れていなかったら。

 もし、あの時、出会っていなかったら。

 もし、あの時、やり直せるのなら。

 何十年も人生を生きてきたら、そんな風に思わない人間なんていないんじゃないか。


 どこか別の世界で、やり直しがきいたのならどんなにいいだろうか。

 今の人生より、もっと、きっと、上手くやれる。


 そう思うことは、悪いことなのだろうか。



「すきなこ、みつかった?」

 子どもの声がして、俺は目を開いた。途端、目に光が差して慌てて手で覆い隠す。

「だれにする?」

 太陽をふさぐように、子どもは寝そべった俺の顔に顔を近づけて首を傾げる。

 誰だ。

 子ども時代の元カノだろうが、幼すぎてわからない。


「君は?」

 尋ねたが、子どもは意味を理解しなかったようで、俺の手をぐいぐいと引っ張り起こそうとしてくる。

「お、き、て! お、き、て!」

 仕方がなく上半身を起こすと、子どもは両手を万歳にしたまま「きゃー」と言いながらその場を走り回る。


「君は誰なの?」

 尋ねた時、地面から噴水が湧き上がった。何本もの噴水が、天に向かって突き上がり、上に行ったり、下に行ったりを繰り返している。

 水柱の間から、子どもがきゃあきゃあ言っている声が聴こえてくる。

 噴水が一番高く湧き上がり、俺の肩を濡らした。先ほどまで元気が良かった水は、魔法がとけたかのように突然だらりと、地面に潜っていく。

 水がなくなった先に、子どもが立っていた。


「すきなこ、みつかった?」


 子どもは繰り返す。

 黒髪に水滴がついて、輝いている。

 首をかしげると、水滴が光を纏って落ちていく。

「もしかして、君は——」


 ちりりん。ぽたり。


 再びの闇。

 目の奥では先ほどのまぶしい光景が、まだ燻っている。

 ぼんやりと光は揺れ、ふくらんで、近づいてくる。

 ぬっ、と顔の前に現れたのは金魚の提灯。立派なヒゲをたくわえた赤色の金魚だ。青森のねぷた祭りに出てくるような。


「お客さん、そんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ」


 冬の君がのぞき込んでいた。金魚の提灯を持って俺を探しに来てくれたようだった。


「不可思議なことが、おきまして」

 上半身を起こして、俺は立ち上がる。冬の君は着物の袖で口元を抑えながら待っていた。

「昔の知り合いに会う夢でした」

「そうですか」

 冬の君は口元を抑えたまま答える。

「生きてること自体、不可思議なもんです」

 俺は手を伸ばして、冬の君の着物の袖をゆっくりと下へおろす。

 現れた顔を見て、やはりと思った。

「あなたの幼い頃に出会いましたよ」

「そうですか」

「昔、どこかでお会いしましたか?」

「いいえ。これからです」

「やっぱり、そうでしたか」

「ええ、そうなんです」

「出口はどちらですか?」

 尋ねると、冬の君は黙って金魚の提灯を闇に向けた。

「あちらに」

 見ると赤い鳥居が建っている。


「どうぞ振り返らずに、お進みください」

 昔話の常套句みたいだな、と俺は頭の片隅で苦笑する。

「振り返るとどうなるんですか?」

 興味本位で尋ねると、冬の君の黒い瞳が動いて真っ直ぐに俺の目を見た。

「止まります」

 冬の君が金魚の提灯を差し出す。

「あなた様の時間が、ただ止まるだけ」

「わかりました」

 提灯を受け取って、俺は赤い鳥居に向かって歩き始める。背中に冬の君の視線を痛く感じる。


 振り返るな、と言われると振り返りたくなるのが人間の性であり、愚かなところである。

 俺は足を止めた。

 前を見据えたまま、冬の君に向かって声をかけようとして、やめた。


 一歩踏み出すと、大量の風鈴の音がじゃりじゃりと一斉に鳴り始めた。風が渦を巻き、髪を逆立てる。

 鳥居に手をかけ、俺は前方に飛び込んだ。



 ちりりん。ぽたり。

 


「晃樹! 目、覚せ!」

 叫び声に視線を動かすと、怒った顔というより呆れた表情の千織ちおりがそばにいた。

「家の前で寝るな!」

 言われて首だけ起こすと、そこはマンションの自宅玄関前だった。一番奥の突き当たりの家のドアがサッと閉まるのが目に入った。


 あそこのおばあさん、こそこそと近所の情報をいつも伺っているよな、なんてやけにぼーっとする頭で思っていると、肩を千織にど突かれた。


「早く家に入ってよ、恥ずかしい」

 玄関扉を開けて、家に帰る。時計は深夜の一時三十分を差していた。

「どこで飲み歩いてたの? 坂本さんが教えてくれたんだよ。家の前で倒れてるって」

 坂本さんとは、先ほどこちらの様子を伺っていた奥の突き当たりの家のおばあさんだ。

「ごめん」

「びっくりしたんだからね!」

「本当にごめん」

 寝室に戻ろうとする千織の手をつかんで、引き戻す。

「なに?」

 唇をとがらせた千織が振り返る。ほんの微かに膨らみ始めた千織の下腹部を見た。


「俺、わかったよ」

「なにが?」

「この子、女の子」

 手を伸ばして、そっとお腹に手を添える。少しだけあたたかいような気がした。

 命のはじまりは、不可思議だ。それから、人生も。

「まだわかんないよ」

 千織が茶目っ気たっぷりに言った。

 冬の君がそうしていたように、首をかしげて微笑みながら。

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