最終話

「接近禁止令、出てるんじゃなかったの?」

「もう無理。俺にしてはがんばったほうでしょ」


 聞き慣れた声色が、軽い調子で鼓膜を揺らす。

 その響きに、エルザの心は熱を帯びて跳ねた。


「てかアリシアもダグもひどいと思わない? エルザが好きなら会うなさわるなキスするなって。好きな子が近くにいるのに気配消してろって言うんだよ? ありえなくない?」


 ギルベルトは背中から抱きしめたエルザの肩口に顔をうずめ、すんっ、と鼻を鳴らしている。


「ふふっ、アリシアに見つかったら怒られない?」

「……見つからなければいいんだよ」

「ダグの鼻は?」

「あいつは気づいても言わないから平気。……たぶん」


 ああ言えばこう言うギルベルトに、エルザはおもわず笑みをこぼしていた。

 たった三日会わなかっただけなのに、ずいぶんと懐かしい感情が心を満たしていく。


「それよりさ、エルザ」


 顔を上げたギルベルトが、こつん、とエルザの後頭部にひたいをつける。

 小さく左右に頭を振れば、わずかな笑い声が弾んだ。


「ねぇ、さっきの。もっかい歌ってよ」

「嫌」

「えー、お願い!」

「嫌」

「おーねーがーい!」

「……もう、今日だけだからね」


 まったく、油断も隙もない男である。いったいどこから聞いていたのだろうか。

 いつもなら断固として断るところだが、今夜は気分がいい。

 たまには素直に彼のわがままに付き合ってやるのも、悪くないかもしれない。


「~♪♪」


 澄んだ音色が、風に乗って流れていく。

 鼓膜を揺らすその音に、ギルベルトは静かに耳を傾けた。

 やわらかな歌声が心地いい。


「……ねぇエルザ」ささやくようなギルベルトの声が、旋律を止める。


「俺、おなか空いちゃった」

「夕食ちゃんと食べたんでしょ? とうとうボケたの?」

「違いますぅー」


 腕の力を強めて猫のように肩口にすり寄ってくるギルベルトにため息をつけば、少しふてくされ気味に返された。


「そっちじゃなくてさ……。ね……?」


 彼が言いたいのはおおかた、「血が足りない」とかそういうことだろう。


――そういえば、ここに来てからギルが血を飲んでいるところ、見たことないわね。


 ヴァンパイアである彼からすれば、それは非常に酷なことだろう。


「俺、もうわりと限界……」

「血がほしいなら町にでも行きなさいよ」

「うぅ~、わかってるよ~」


 いままではそうしていただろうに、なにをためらっているのだろう。

 彼らヴァンパイアにとってそれは必要なことであるのは理解しているし、いまさらそれを咎める気はさらさらない。


 しかしなんとなくギルベルトが言わんとしていることを察したエルザは、彼の腕の中でくるりと体を反転させた。


「……ったく、今日だけだから」


 エルザのつぶやきに、意外な反応を見せたのはギルベルトのほうだった。

 きょとんとしたまま何度もまばたきをする彼は、聞き間違いかと疑っているのだろう。


「え、いいの?」

「なによ。いらないならあげない」

「いるいるいる! ふふっ、ありがとう、エルザ」


 気恥ずかしくてうつむいたままそう言えば、ギルベルトははにかむように小さく笑っていた。

 そうして肩口にかかるエルザの長い金色の髪をなでるようにうしろへ流し、その首筋にゆっくりと顔をうずめる。

 風に揺れたギルベルトの銀髪が、頬に当たって少しくすぐったい。


「っ……!」


 首筋に痛みが走る。

 痛みとともに肌を吸われる感覚に、エルザは無意識に歯を食いしばる。

 しかしそれもつかの間で、いつの間にか脳が麻痺してしまったかのように思考がぼんやりとしていた。

 首筋の痛みとは裏腹に、肌に吸いつくギルベルトの唇のやわらかさと熱がダイレクトに脳を刺激する。

 皮膚を這う舌の緩慢とした動きとねっとりとした感触に、背筋がぞわぞわと逆立った。

 体の奥から沸き起こるなんとも言えぬ感覚。

 こらえきれず漏れた吐息は甘く、夜の冷たい空気に吸いこまれていった。





【了】

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ヤンデレヴァンパイアの甘い罠 志築いろは @IROHAshizuki

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