#5 エリーゼのために
陰気な部屋に響き渡るインターホン。
底知れない恐怖が頭を占領し、本能が危険を告げる。
しかし、部屋の住人たる女性は、何かに駆られるように玄関へと足を進めた。
「……」
息を潜めて、女性はドアスコープに、そっと瞳を近づけた。
「え…?」
目に飛び込んだ景色に、女性は強い困惑を覚えた。
ドアの前に立っていたのは、真っ黒なワンピースを纏った、髪の長い少女だった。肩に白いバッグを下げている。
少女という表現が正しいのかは分からない。だが、たしかにドアの前に立つ人物には、成熟した大人と言い切るには、何かが欠けていた。
あるいは、思春期の
ともかく、訪れてきたのは予想と異なる人物だったため、女性は安堵に胸を撫で下ろした。
「……」
ドアノブに手をかけたところで、女性は一度動きを止めた。
扉越しに自分と向き合う少女に、かすかな見覚えがあるような気がした。
ほんのつい最近、どこかで、この少女を目にしたことが―
ピンポーン
「!」
二度目のインターホン。女性は思わず、びくっと肩を揺らした。
ごくり。
生唾を飲み下してから、女性はゆっくりと、ドアノブを捻った。白い光が視界に差し、冷たい雨の香りが鼻腔をくすぐった。
「どちら様…でしょうか?」
窺うような目つきで、女性は目の前に立つ少女に視線を送った。
目鼻立ちの整った、けれども感情の読み取れない、能面のような顔。喪服を彷彿とさせる、漆黒のワンピース。そこから伸びる、雪のように白い肌。梅雨景色に浮かぶその姿は、さながら死神のようだった。
唇の端を不気味に吊り上げ、死神は、ゆっくりと言葉を発した。
「はじめまして。あなたが、香ヶ崎伊緒さんで間違いないですか?」
「!」
女性の―否、伊緒の体に、戦慄が走った。
なぜ、突然尋ねて来た目の前の少女が、自分の名前を知っているのか。
そんな当然の疑問と共に、得体の知れない黒い恐怖を、伊緒は強烈に感じていた。
「そうですけど…。どうしてあなた、私の名前を?ていうか、あなたは誰?」
震える声で、伊緒は尋ねた。すると死神は、ふっと瞼を伏せた。
そしてもう一度、形の良い唇を歪ませると、自身の正体を口にした。
「これは失礼しました。私は、西川絵美と申します。先日あなたが殺害した、森下啓太さんの恋人です」
「!!」
伊緒の目が、かっと見開かれた。全身の血液が頭に集中し、纏まりを持たない感情が次々と沸き起こる。
「は…!?西川絵美って…どうりで見覚えがあると思ったら、…ていうか、な、なによ、私が啓太を殺したって。言ってることの意味がわからないわ」
「うふふ。随分と狼狽しているみたいですけれど…。香ヶ崎さん、今朝のニュースはご覧になりましたか?」
冷たい微笑を貼りつけたまま、絵美が伊緒に問うた。
「け、今朝のニュース?そんなの全く観てないわね。悪いけど、もう帰ってもらえない?」
早口で言葉を並べると、伊緒は扉を閉めようと手を伸ばした。
「自宅の部屋で、刺殺体の啓太さんが発見されたそうですけど」
がっ!と、絵美がドアノブを掴んだ。その反動で、伊緒の体が一瞬よろけた。
「ちょ、ちょっと…なに掴んでんのよ!」
「話を途中で打ち切られそうになったので、つい体が反応してしまいました」
そう言って、ギギギ、と絵美が扉を開け広げた。あまりの力強さに、伊緒は軽く驚愕した。
「私は全て知っています。あなたが啓太さんを殺したのでしょう?」
絵美の瞳に、深い怨念が宿った。
「は…?い、意味わかんない。私が啓太を殺したっていう、なにか決定的な証拠でもあんの?」
伊緒の目がキッと鋭くなる。それは外から見れば、追い詰められた獲物がみせる最後の抵抗だった。けれども
「ええ、それはもうたくさん」
「へ、へえ…。だったら、言ってみなさいよ」
伊緒の額に汗が滲む。ざざぁーと、降る雨が勢いを増す。
「六月二日の日曜、私と啓太さんはデートをしていました。二人でランチをして、商店街を巡り歩いて、それはそれは幸せな時間でした」
「ふーん。
せせら笑う伊緒。けれどもその表情には、妬みから沸く不快感が滲んでいた。それを見た絵美は、嗜虐的な微笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「夕食は二人でカレーを作ることになりました。スーパーで材料を買って、啓太さんの家にお邪魔しました。啓太さんは先にシャワーを浴びると言って、私は一人、部屋に残されました」
「で?彼氏の了承も得ずに、勝手に健康診断の結果でも見たっての?」
「そこで私は、とても衝撃的で残酷なものを目にしてしまい、あまりの悲しみに家を飛び出してしまいました。啓太さんに別れを告げることもなく、私は勝手に帰ったのです。これが午後十八時ごろでした」
「……」
「私が帰宅したため、啓太さんは一人になります。つまり、この時点から犯行可能時刻になります。啓太さんの死体が発見されたのは今日、六月四日。しかし死体発見者である啓太さんの同僚は、六月三日から啓太さんと音信不通になったと証言したと、ニュースで報じていました。つまり、実質的な犯行可能時刻は、六月二日の午後十八時以降から、六月三日未明までの確率が高まります」
そこまで言って絵美は、伊緒の顔をじっと見つめた。
「はっ。あいにくだけど、その時間なら自分の家にいたわ。アリバイがある以上、私が犯人であると証明することは…」
「いいえ。香ヶ崎さんはその時間、外にいたはずです。だって私、あなたを見たんですもん」
そう言って、絵美はポケットから、一枚のカードを取り出した。
香ヶ崎伊緒の、免許証だった。
「なっ…!?なんで、あんたがそれを…っ」
伊緒は、驚愕と困惑に顔を歪めた。
「啓太さんのマンションがある方角に、緩やかな坂道があるでしょう?香ヶ崎さん、あそこで誰かとぶつかりませんでした?」
絵美の言葉を聞き、伊緒は自分の額に手を当てた。やがて思い出したのか、はっと瞳を見開いた。
「あ、あの時ぶつかったのって、あんた…」
「うふふ、その通りです。この免許証は、その時あなたが落とした財布に入っていたものです。貴重品を落としたことにも気づかないなんて、よっぽど別のことで頭がいっぱいだったんでしょうね、香ヶ崎さん?」
「くっ…」
きつく歯を噛み締める伊緒。たった今、「アリバイがある」という嘘を吐いたことがバレてしまった。否、最初からバレていた。
しかし伊緒は、抵抗をやめない。絵美の推理はまだまだ不十分であり、そこを突いての悪あがきを試みる。
「なんか、記憶がこんがらがってたみたい。たしかに私は、日曜日の夕方は外にいたわ。だけど、それがどうして啓太を殺したことに繋がるの?あの時間に外にいた人なんて、他にも大勢いたはずでしょう?私が啓太の家まで行って、啓太を殺害したっていう証拠はどこにもないわ」
「それはその通りです。ところで香ヶ崎さん、さっきからずっと、啓太さんを下の名前で呼んでいるようですけれど、随分と親しげなご様子ですね」
「!!」
伊緒の頬を、一筋の汗が伝った。明らかな動揺だった。
対照的に、絵美の顔色は一切変わらない。罪人に罰を言い渡す裁判官のように淡々と、しかし確実に、伊緒を奈落へと追い込んでいく。
「言いましたよね?私は全て知っていると。あなたが啓太さんと浮気関係にあることも、私から啓太さんを奪ったことも」
「……っ!」
苦悶に顔を歪ませる伊緒。
違う、啓太を先に奪ったのはお前だ。狂気的なまでに啓太に執着して、啓太の頭の中を埋め尽くして、ほんのひと時の期待をさせておきながら、結局は裏切って捨てるという卑劣な行為を私にするよう啓太を仕向けたのは、お前以外の誰でもないじゃないか。
そんなふうに、伊緒は自身の苦しみを胸中で漏らした。しかしその思いは、目の前に立つ絵美に届くことはない。伊緒が味わった、すべての苦しみと悲しみは、伊緒の魂ごと死神に刈り取られる運命にあるからだ。
「そろそろ推理ゲームにも飽きてきました。では香ヶ崎さん、最後に一つ、私があなたを犯人と決定づけた最大の証拠を教えましょう。冥途の土産には事足りると思います」
「は?冥途の土産って…あんたそれどういうっ!?がはっ…」
伊緒のみぞおちに、絵美のつま先がめり込んでいた。
急所に突き刺さった蹴りに、伊緒は膝を突くしかなかった。
「ぐうっ…」
体の内部が押しつぶされて、呼吸困難になるほどの痛みに襲われる。
「さきほど、啓太さんの家で私は、衝撃的で残酷なものを目にしたと言いましたね」
苦しむ伊緒を見下ろしながら、絵美は静かに言った。
「具体的に言うと、私は啓太さんのスマホで、あなたとのLINEのやり取りを見たんです。本当に、今思い出しても腹立たしく、そして悲しい会話でしたけれど」
「啓太とのLINE…」
苦し気に顔を上げる伊緒。額には大粒の汗が浮かび、吸血鬼のごとく目は血走っていた。
「啓太さんったら、私とのデート中にも関わらず、あなたに連絡をしていました。『昨日は悪かった。また二人で会えないかな?』でしたっけ?もしかして香ヶ崎さん、啓太さんと
「黙れ…あんたなんかに私の気持ちが…」
つららのように降ってくる絵美の言葉を
「ふふ、図星のようですね。しかしまぁ、あなたもつくづく鬼ですね。謝罪して来た人間に対して、明確な殺意を持った言葉で返すとは…」
瞬間、伊緒の顔色が一変した。
「あ、あんた…私の返信を…」
血の気が引いた顔で、伊緒は悪魔でも見るかのように、絵美の瞳を捉えた。
否―悪魔ではなかった。
「『これで会うの最後にしない?』」
「…っ!」
過去の自分が綴った言葉に、伊緒は戦慄を覚える。
「啓太さんをこの世から葬り、永遠の別れを告げる。なんて美しく残酷なんでしょう…。私は最初、このメッセージを単なる拒絶反応と勘違いしてしまいましたが…香ヶ崎さん、きっとあなたはロマンチストなんでしょうね。…殺害予告とも取れるメッセージを、わざわざデータとして残すなんて」
「……」
伊緒は何も言わなかった。否、何も言えなかった。
「しかし残念です。あなたの思い描いた悲劇は、どうやら違う結末を辿るみたいです」
そう言って絵美は、肩に掲げたバッグから、ある物を取り出した。
それは、真っ白いタオルで、大切な物のように包まれていた。
実際、絵美にとっては大切な物だった。死神の持つ
雨が、地面を打つ。
タオルが、そっと落ちる。
「……」
「香ヶ崎伊緒さん。ぜひあの世で、啓太さんと再会してくださいね」
物言わぬ人形と化した伊緒にむかって、絵美はにっこりと微笑んだ。
そうして、死神が鎌を振り下ろすように。
絵美は、伊緒の心臓に包丁を突き差した。
―END―
【短編ミステリ】二コマコス愛憎学 霜月夜空 @jksicou
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