#4 絵美ディストピア

 「はぁっ…はぁっ…」


 私は、啓太さんのマンションから、逃げるように飛び出した。


 全身が燃えるように熱い。両目からは涙が止まらないし、ぜぇぜぇと息も苦しかった。


 厚い雲に覆われた空は、濃い灰色に染まっていた。今から五分後に世界が終わると言われても、思わず信じてしまいそうだった。


 ああ、これから啓太さんと、仲良くカレーを作るはずだったのに…


 そんな甘い妄想が、頭の片隅に浮かんでくる。けれども私は、走り続けた。啓太さんのマンションに引き返すなんて、今の私には考えられなかった。


 「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」


 暴れる心臓を押さえつけながら、私は緩やかな坂道を下った。すると下から、私と反対に坂道を上がってくる人が見えた。


 徐々に近づいて来たその人は、女性だった。ウェーブがかった栗色のショートヘアと、さくらんぼ色の口紅。なんとなく、私より年上に見えた。


 「きゃっ!」


 甲高い声がした。それと同時に、肩に衝撃が走った。


 どうやら、私は坂道を上がってきた女性と、ぶつかってしまったらしい。


 「すみません…不注意でした」


 そう言って、私は頭を下げた。しかし、その女性は何も言うことなく、早足で坂道を上って行った。


 何か大事な用でもあるのだろうか。随分と思い詰めた顔をしていた。


 小さくなっていく女性の背中を見上げて、私は思った。そして、ふいに視線を落とすと、ある物が目にとまった。


 「財布かしら…?」


 アスファルトの上に、緑色の財布が落ちていた。状況を考慮すれば、ほぼ確実にさっき衝突した女性の私物だろう。


 私はそれを拾って、女性が上って行った坂道を見上げた。


 追いかけて渡そうか、という考えが頭をよぎったけれども、今の私にそこまでの精神的余裕は存在しなかった。


 「……」


 無意識的に、私は財布のチャックを開けていた。中には紙幣が数枚ほど入っていたのだけれども、別にそれらには興味がなかった。


 カードケースから、免許証とおぼしき物を取り出す。


 「…っ!」


 それを見た私の心臓は、一瞬止まりかけた。


 予想通り、それは免許証だったのだけれども―


 「香ヶ崎…伊緒…」


 そこに記載された氏名。私は、ほんのさっき同じ名前を、啓太さんのスマホで目にしたばかりだった。


 「そんなっ…!」


 ばっ!と、私は女性の消えていった坂を見る。


 全身の毛穴から汗が噴き出し、心臓が早鐘を打ちはじめた。


 遠くの空で、カラスの不気味な鳴き声がした。



 *


 六月三日。


 今日は月曜日なので、大学の授業に出なければならない。


 けれども私は、午後になってもパジャマ姿のまま、ベッドに横たわり続けていた。


 「……」


 外から、かすかな雨音が聞こえる。白のレースカーテンのかかった窓辺に、私は視線を送った。


 雨が、世界を冷たくしていた。


 そう思った時、脳裏に突然、昨日の記憶が、ゆっくりと這い出てきた。


 「…っ」


 すぐに胸が苦しくなって、私は逃げるようにベッドから降りた。


 このままベッドの上で放心していたら、じきに巨大な苦しみに押し潰される。


 何かしなければ。


 私は、とりあえずリビングに行って、テレビを点けた。


 薄暗い部屋に、テレビを中心とした青白い光が灯った。


 ニュースキャスターの声と、聞き覚えのあるBGMが流れた。それだけのことで、私は一抹いちまつの安堵を覚えた。


 その後、夜になるまで私はテレビの前に張り付いた。リビングから一歩も出ることなく、食事も取らず、地元のニュースと変なクイズ番組を瞳に映し続けた。


 そうして孤独を紛らわすうちに、背後から睡魔が忍び寄ってきた。ベッドにも戻らず、私はその場で眠ってしまった。


 

 翌、六月四日。


 目を覚まして体を起こすと、全身がみしみしときしんだ。


 それもそのはず、リビングの床で眠りこけてしまっていたのだから。


 『十一時になりました。地元のニュースをお伝えします』


 女性の澄んだ声がした。どうやら、テレビも点けたままだったらしい。


 「ふぁ…」


 私は、軽く欠伸をした。少し頭が痛い。おそらく低気圧の影響だと思う。外を見ると今日も雨だった。


 「今日は…午後から授業か」


 少しの逡巡を経て、私は大学に向かうことを決意する。


 

 シャワーを浴びて、髪を乾かす。冷蔵庫にあったバナナを一本と、コップ一杯の牛乳を流し込む。軽い栄養補給を済ませ、私は真っ黒なワンピースに着替えた。



 十一時五十分。


 シャカシャカと歯を磨きながら、私はテレビに目を向けた。


  『今日午前、X県Y市内のマンションの一室で、男性の遺体が発見されました。警察の調べにより、この遺体は市内の広告代理店に勤める、森下もりした啓太けいたさん(25)であることが確認されました』

 


 「え………?」


 一瞬、私の体が全ての動きを止めた。


 頭の中が真っ白になり、一気に血の気が引くのが分かった。


  『遺体の発見者であり、森下さんの同僚である男性は、六月三日から森下さんとの連絡がつかなくなったと話しています。遺体には、刃物のような鋭利なもので刺された跡が複数あり、警察は殺人事件として捜査を進めています』



 「どういうこと…?啓太さんが殺されたって…一体、誰がそんなこと…」


 困惑を極める私の脳内に、ある女性の姿が浮かんだ。


 「まさか…」


 走馬灯のように、日曜日の記憶が頭を駆け巡った。


 普通に考えれば、あの女性を犯人と決めつけるのは、あまりにも早計だ。


 もちろん有力候補ではあるのだが、決定的な証拠が何も…


 「はっ…!」


 私は息を吞んだ。そうだ。確かに一つ、私は目にしていた。


 香ヶ崎伊緒が啓太さんに向けた、確かな殺意を。


 彼女から彼に送られた、暗号化された殺害予告を。



 「―っ」


 私は、テーブルに置いたままにしていた、緑色の財布を手に取った。


 チャックを開け、中から一枚のカードを取り出す。


 香ヶ崎伊緒の免許証。そこには確かに、彼女の住所が記載されていた。


 「許さない…絶対に許さない…」


 私は、彼女の免許証をポケットに入れた。いつも大学に持っていくバッグを肩にかけ、キッチンに向かう。


 刃渡り十七センチの包丁。私はそれを手に取り、銀色に光る刃を這うように見つめた後、タオルで優しく包んだ。


 

 狂気の塊をバッグに潜めて、私は自分のマンションを後にした。

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