#3 伊緒ルナティック
私、
その名を森下啓太という。
同じ会社に勤める彼のことが、私は好きだ。
本当に、心の底から愛している。
だけどこの恋は、決して幸せな結末を迎えることはない。
私と彼の関係が、醜く歪んだものである限り。
*
大学を卒業した私は、地元の広告代理店で働きはじめた。
元々デザイン系に興味があった私にとって、人の目を惹く広告を作ることは、一つの夢だった。そのため希望通りの職種に就けた私は、嬉しくてたまらなかった。
だけど、神様は私に、もう一つのサプライズをくれた。
それが会社の同期―啓太との出会いだった。
最初に啓太を見た時、私が抱いた印象は「頼りなさそうな人」だった。
垂れがちな目尻は気弱そうで、体もひょろっと細かった。
良くも悪くも、啓太に異性としての魅力は感じなかった。それに当時、私には大学時代から付き合っている彼氏がいた。この時の私は、まさか気が狂うほど啓太に恋をするだなんて微塵も思わなかった。
しかし、転機は突如として訪れた。
入社から一年ほど経った、ある夏の夜。三年間付き合った彼氏に振られ、自暴自棄になった私は、駅前の居酒屋で一人ヤケ酒をあおっていた。
大してアルコールに耐性があるわけでもないのに、私は無茶苦茶に飲んだ。
多分、酔った時に覚える高揚感や、全能感を欲していたのだ。ひどい振られ方をしたせいで失った自己肯定感を、酒の力で取り戻したかったのだ。
気が済むまで飲んだ後、私は店を出た。帰り道に気持ち悪くなって、電柱の下で思い切り嘔吐した。へなへなとその場に座り込んだ。
「うう…」
胸の奥で
通りかかった中年男性が、私を見て眉根を寄せた。嫌なものを見た時の反応だった。
まあそうだろうな。深夜に酔っぱらって
それでもやっぱり、蔑んだ目線を向けられるのは辛い。見えないナイフに胸がえぐられるのを、私は感じた。
「うっ…おえっ」
再び吐き気がこみ上げた。涙を目に、私は手で口元を抑えた。
なんで、こんなひどい目に遭わなくちゃいけないの…?
自分以外の何かに対する、最大限の非難を込めた問いかけを、頭に浮かべたその時。
「香ヶ崎さん?」
聞き覚えのある声だった。
「すごい顔色してるけど…」
そう言って私の同期−森下啓太が、膝を折って目線を合わせてきた。深夜にも関わらずスーツ姿で、残業でもしていたのだろうか、と思った。
「森下さ…うっ」
「わっ!大丈夫?」
思わず戻しそうになった私を、啓太が抱きかかえた。
優しく背中をさすられ、吐き気がゆっくりとおさまった。同時に、胸の奥に安堵が広がった。
「歩ける?よかったら肩貸すよ」
「よかったら」と言いつつ、啓太は既に私の肩を持って支えてくれていた。細いと思っていた体は、意外にがっしりしていた。
街灯に薄く照らされた啓太が、私の瞳には救世主に映った。
その夜、私は恋の魔物に取り憑かれた。
それからの日々は、すごく辛かった。
社内で啓太と顔を合わせても、愛想よく話しかけるなんて無理だった。今までなんとも思ってなかったのに、明確に好意を意識してから、完全にあがるようになってしまった。耳を真っ赤にして、呟くように挨拶するので精一杯だった。
当然そんな態度で接してくる相手が、まさか自分を好きだとは思わない。啓太から話しかけられることも特になく、私たちの距離が縮まることはなかった。
人生で誰かと付き合ったのは一回だけ。その一回も、むこうから告白された流れで頷いただけ。異性へのアプローチ経験がない私は、勇気という感情を持ち合わせていなかった。
自分の臆病さに溜息を吐き、今日も何もできなかったと肩を落とす。
いつまで経っても前に進めない自分を、どんどん嫌いになっていく。
楽しそうに啓太と話す女を、遠くから、ただ黙って見つめる。
あの頃のことは今思い返しても、猛烈に胸が苦しくなる。
果てしなく長い恋路に光が差したのは、ほんの一カ月前。啓太に助けられた夜から三年以上が経った、五月上旬のある日だった。
なんと啓太の方から、二人きりで食事の誘いを受けたのだ。
私は心底驚いた。なぜなら、啓太には彼女がいたことを、私は知っていたからだ。合コンで出会った女子大生と付き合っていると、同僚たちの間で噂になっていた。
私の恋心は、不完全燃焼のまま風に吹かれて消えかけていた。しかし私には、この誘いを断るという選択肢はなかった。
「何時に待ち合わせ?」
それだけ言った私の心に、再び恋の炎が灯るのを強く感じた。
仕事を終えた私たちは、駅前にある小さなレストランを訪れた。
とても雰囲気の良い店だった。木目調の壁とそこに掛かる絵画に囲まれた店内。照明は絞られ、各席に置かれたキャンドルの甘い光だけが、私と啓太の姿を映し出していた。
「好きなの頼んで」
そう言って啓太は、私にメニュー表を差し出した。その慣れた手つきから、前にもここで食事をしたことがあるのかな、と思った。
「ありがとう」
私は精一杯の笑顔を作った。すると、啓太が穏やかに微笑み返した。
特に込み入った話をするでもなく、私たちはディナーを楽しんだ。
夢のようなひと時だった。
それから、啓太に誘われるままホテルに行った。
禁忌に触れていると分かりつつも、もはやどうでもよかった。
私は啓太と、欲望のままに肌を重ねた。
行為を終え、心地よい痺れで頭を満たされた私は、隣で寝る啓太に尋ねた。
「森下さん、どうして私と…」
「啓太でいいよ。俺も、伊緒って呼ぶからさ」
そう言って、啓太は私を抱き寄せた。肌とシーツが擦れた音がした。
「じゃあ啓太、どうして私と、こんなことしたの?」
私の質問に、啓太はすぐには答えなかった。たっぷり時間を置いて、ようやく口を開いた。
「いま付き合ってる彼女がさ、重くて重くて仕方がないんだよ」
啓太の顔に影が差す。
「どんな感じ?」
私は質問を続けた。
「最初から変な子だとは思ってたんだよ。食事に行っても、絶対に俺に奢らせないんだよな。絵美の実家は金持ちだから、金銭感覚が人と違うのかな、と思ったけど。デートの予定も、必ず俺に合わせてくれるんだ。聞けば、大学の授業を休んでまで時間をやりくりしてるらしい」
「へえ…啓太にベタ惚れで、可愛いじゃない」
私の言葉に、啓太は顔をしかめた。
「可愛いで済むもんじゃないよ。最近絵美が、やたらと俺の家に押しかけて、料理やら掃除やら洗濯やらをしてくれるんだけどさ。『なんでそこまでするんだ』って聞いたら『啓太さんの身体が心配だから』って言って、俺の血糖値やコレステロールの値を
「……」
私が何も言わずにいると、啓太はさらに言葉を続けた。
「それに、作る料理がやたらと俺好みなんだ。お袋が化けてるんじゃないかと思うくらい、俺の舌に合っててさ。なぜだろうと考えたら、二人で外食する時、絵美って俺と全く同じものしか頼まないんだ。肉の焼き加減から調味料の有無まで全部一緒。きっとそうすることで、俺の好みを学習してたのかなって。あとはそうだな…最近やたらと漢字を勉強してるから、その理由を聞いたら『私と啓太さんの子供に最高の名前を贈ってあげるため』とか言うんだよ」
啓太は、今まで見たことがないほど饒舌になっていた。
「そこまでされると怖いね」
「だよな。同じ量の愛情を返せないのも苦しいし、正直もう別れたくてさ」
そこまで言って、啓太は体を起こした。
かちっ、とライターを鳴らして、煙草に火を灯す啓太。
煙の香りが、皺の寄ったベッドの上を漂う。
私は力尽きたように瞼をおろして、啓太の胸にもたれかかった。さっきまで熱かった肌は、すっかり冷えていた。
そして私は、真っ黒な眠りの底に、ゆっくりと堕ちていった。
私たちは隠れて会うようになった。ほとんどの誘いは啓太からで、私はそれに黙って頷くだけだった。
「啓太…」
「伊緒っ…!」
私の部屋か、ホテルのどちらかで、私たちは繰り返し求め合った。
互いに果てて満足したら、啓太は決まって同じ愚痴を吐いた。
「聞いてくれよ。この前も絵美がさ…」
そう。啓太は自分の彼女が重たい、別れたいという話を、延々とするのだった。
「ふうん…大変だね」
私は適当に相槌を打つだけだったが、啓太はそれで満足そうだった。
そんな啓太を見ていると、嫌な考えが
多分、というか絶対、啓太は私を好きじゃない。
性処理に使える便利な相談相手としか思っていない。
いや、それならまだマシかもしれない。私の理性は、もっと恐ろしい思惑が隠されていることに、薄々気が付いていた。
六月一日、啓太との関係が始まって約一ヶ月。
土曜日であるこの日、私は啓太に誘われてドライブに行った。
窓から吹き込む涼やかな風と他愛もない世間話で、車内には緩やかな空気が流れていた。
好きな人と二人きりで笑い合う時間を、私は全力で満喫していた。
「話変わるけどさ」
「うん」
前を見たまま、運転席の啓太は言葉を発した。
「最近ようやく、絵美が浮気を勘繰り出したみたいなんだよ」
「……」
黙る私と、澄ました顔でハンドルを操る啓太。
「これでやっと、自由になれるかもな」
啓太の口角が、わずかに吊り上がった。
その瞬間、私の中の疑惑が確信に変わった。
啓太は絵美に振られたがっている。だけど絵美は啓太にぞっこんだから、振られるにはそれ相応の理由が必要だ。
その理由こそが、恋愛関係において最も禁忌とされる"浮気"であり、その相手として私が選ばれたということだ。
なぜそんな回りくどいことをするかと言えば、啓太には勇気がないから。
自分のことを本気で愛してくれている彼女を、自ら切り捨てる勇気が。
「伊緒?」
「……」
啓太が私の顔を覗き込んできた。だけど、私は目も合わせなければ言葉も発しない。
さっきまで笑い合っていたのが嘘みたいに、車内は重たい空気で満たされた。
涼しかった風も、いつの間にか生ぬるくなって、ゆっくりと頬を撫でた。
「…降ろして」
「え?」
明らかに動揺しながら、啓太は聞こえない振りをした。
「降ろして!今日はもう帰る!」
私はヒステリックに
「でも、どうやって帰るんだよ?」
「歩くから!早く降ろしてよ!どうせ私なんか、彼女から逃げるための便利な道具なんでしょ!?私の好意を利用して彼女から解放されて、自分だけ楽になろうって魂胆なんでしょ!?私なんか好きでもないくせに!」
「なっ…」
言った。ついに言った。見て見ぬふりをし続けていた本当の気持ちを、思いを、余すことなくぶつけてしまった。
「……」
啓太の顔から、すぅっと光が消えた。いつもの優しい笑みはそこにはなく、代わりに現れたのは、どこまでも暗い夜闇のような、冷徹な無表情だった。
車を停めた啓太は、最後まで私の顔を見ることはなかった。
ただ去り際に、「チッ」と忌々しげな舌打ちを残して、黒のセダンを走らせていった。
その後、一人泣きながら、足を引きずるようにして、私は帰路についた。
*
翌日。
昼すぎになって目を覚ました。だけど私の気分は、一向に晴れないままだった。
もう一眠りしようかと思ったが、空腹を訴えるお腹がうるさく、仕方なく起きることにした。
冷蔵庫を覗くも、ろくな食べ物が入っていなかった。
私は、外に出ることを決意した。
ファストフードでお腹を満たした後、ぶらぶらと色々なお店をまわってみた。
素敵な雑貨屋さんに入っても、お洒落なカフェで紅茶を飲んでも、活気に満ちた繁華街を歩いても、私の気分は落ちたままだった。
これ以上傷つかないために、脳がすべての感情を、シャットダウンしているみたいだった。喜びも悲しみも、愛情も憎悪も、ベクトルは違えど、感情が揺れ動くという意味では一緒だ。
この感情の波こそが、人間の心を疲弊させる。動物より豊かな感受性を獲得してしまった人間の、悲しき
だから、私の心は空っぽでよかった。何も感じないで済むのなら、それが一番楽だった。感情が死んだままの状態だったら、私は誰も傷つけずにいられた。
ぴろん。
スマホが鳴った。
「……」
死んだはずの心が、ぴく、と動いた。
私の理性が、「見るな」と警告しているのが分かった。私はそれに従いたかった。だけど私は、ポケットへと伸びる手を、どうしても止めることができなかった。
「―!」
息が詰まった。
『啓太:昨日は悪かった。また二人で会えないかな?』
しばしの間、私はそのLINEをぼーっと眺めた。
本当に、どうしようもないくらいの最低男だ。道具である私に図星を突かれ、露骨に機嫌を悪くして、車から放り出したくせに、何をいまさら。
薄っぺらい謝罪に加えて、しっかりと次に会う約束も取り付けようとしている。
心の底から、啓太のことをクズだと思った。
だからこんなLINE、届いたところで何も感じない。私の心は動かない。死んでしまった感情が目を覚ましなどしない。そんなことありえない。
…ありえない、はずなのに。
「どうしてよ…どうしてこんなに、嬉しいの…?」
私は、自分の顔を手で覆った。火傷しそうなほど熱かった。
理由はどうあれ、啓太がもう一度、私に会いたいと言ってくれている。
甘い言葉の裏に潜むのは、きっと冷たい打算でしかないのだろう。
それでも啓太は、私を必要としてくれている。道具だろうが何だろうが、少なくとも私は、絵美とかいう女よりも遥かに、啓太に欲されている。
「あはは…私って、おめでたい女」
自嘲気味に呟き、顔を上げた。
目の前を、たくさんの人が行き来していた。
わいわいと賑わう、日曜日の商店街。
さっきまで重たかった足が軽くなり、私はスキップでもしたい気分になった。
啓太には、後でLINEしておこう。
そう思って私は、スマホをポケットに突っ込んだ。そして、なんとなく目に入った、商店街の一角の本屋さんへと歩き出した。
騒がしかった外と打って変わって、店内は非常に静かだった。客足もまばらで、落ち着いた雰囲気が流れていた。
最初にファッション雑誌を眺めて、それから小説のコーナーに向かった。
整然と並ぶ本たちに視線を送っていると、近くで人の話し声がした。
「米澤穂信だったら、最近完結した『小市民シリーズ』が面白かったわ」
「あ~『冬期限定ボンボンショコラ事件』だろ?まだ買えてないんだよなぁ」
男女の声だった。その仲睦まじい会話を聞いて、私は思わず足を止めてしまった。男のほうの声に、なんとなく聞き覚えがあったのだ。
棚に身を隠しながら、足音を立てないよう慎重に、声の主に近づいていった。
そっと、男女の姿を盗み見た。
「ねえ啓太さん。今日の夜は、ご飯はどうするつもり?」
「ん~そうだなぁ。あっ!カレーとかどう?一緒に作らない?」
私の中の何かが、音を立てて崩れた。
そこにいたのは、啓太だった。
さらにその隣に並ぶのは、髪の長い綺麗な女。
まさかと思った私に、神様はすぐに答えを投げかけた。
「じゃあ、近くのスーパーで買い物をしましょう」
「そうだな。じゃあ絵美、そろそろ出るか」
「ええ」
そう言って、本物の恋人である絵美は、幸せそうな顔で啓太と腕を組んだ。
まんざらでもない感じで、啓太も絵美に体を寄せた。二人は歩調を揃えて、店から出て行った。
その姿は誰が見ても、幸福な恋人同士だった。
「…どうして?」
私は、その場に立ち尽くした。全身の毛が逆立ち、唇はわなわなと震えていた。
「啓太…言ったよね…?重くて重くて仕方ないって…もう別れたいって…」
体の奥底から、とてつもなく巨大で、真っ黒な何かが、ずるずると這い上がってきた。
「ああああああああああっ!」
気付けば、私は狂ったように走り出していた。
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