#2 絵美トラジェディ
私、
その名も森下啓太さん。大学三年の私より五つ年上で、広告代理店で働いている。
そして私たちは、男女のお付き合いをしている。
最初に知り合ったのは半年前。きっかけは友人からの紹介だった。
私の通う女子大では、社会人も混じった合コンに参加することが、以前から流行っていた。小中高とずっと女子校で、男性のいない日常に慣れていた私は特に参加することはなかったけれども、「恋愛がしたい」という友人たちの気持ちにも一定の理解と共感は示すことができた。
実際その合コンの効果はすさまじく、参加した子の十人に八人は新たな彼氏を作って帰ってきた。残りの二人も収穫ゼロというわけではなく、連絡先を交換したり一晩だけ肌を重ねたりと、最初の十人にすらカウントされない私に自慢するのには十分な土産話を持ち帰ってきた。
彼女たちが喜々として語る恋愛談に耳を傾けるうち、さすがの私にも羨望という感情が芽生えてきた。そして生まれてこのかた、ただの一度も異性とのお付き合いの経験がないことが、ひどく恥ずかしく思えてきた。
私も、恋をしてみたい。
気づけば頭のどこかで、乙女チックな妄想をする時間が増えた。
そんな私を見かねて、例の合コンの常連として名高い友人が、私にある男性を紹介してくれた。
それが私の現在の彼氏である、啓太さんだった。
「絵美ってさ、意外と人畜無害そうな人がタイプでしょ?」
紹介相手として啓太さんを提示した時、友人が発したその言葉の意味はよく分からなかったけれども、たしかに啓太さんは私好みだったように思う。
わずかに下がった目尻は、初対面の私に穏やかな印象を与えた。その印象と違えることのない落ち着いた話し方は、私に大人の余裕を感じさせた。十数年振りの異性との対話に緊張しすぎて、森下さんを「もりしもさん」と呼び違えた私に、寸分の不快さも見せずに笑いかけてくれた優しさは、深い安堵をもたらした。
その日のうちに、次に会う約束をしたのは言うまでもないだろう。
幸いなことに、啓太さんも私に好感を覚えてくれたようだった。何度かデートを重ね、着実に距離を縮めていった。
そしてついに啓太さんの方から、正式な交際の申し出を受けた。私はもちろん、喜んで頷いた。
それから半年ほど、私たちは恋人としての日々を送ってきた。交際する前と後では、やはり何かが決定的に違うようで、互いにもう一歩を踏み出す勇気と、相手が踏み込むことを許容する寛大さが、新たに生まれた。
そんな調子で、私たちは公明正大なお付き合いを続けた。日本の悪しき風習である"男尊女卑"なんて概念は私たちの間にはなく、また近ごろ声が大きくなっているフェミニズム的な過度のレディーファーストも存在しなかった。
対等な恋愛関係なるものを、私たちは築いていた。
私は幸福だった。二人で過ごす時間は、啓太さんの新たな魅力を私に気づかせ、日を追うごとに彼に対する愛情が深まった。
しかし、その幸福にも陰りが見えはじめた。
きっかけは実に単純だ。ここ最近の啓太さんの様子に、私が不信感を
もっと端的に言おう。私は啓太さんの浮気を疑っている。
はじめは小さな違和感だった。私はよく、啓太さんの家にお邪魔して料理を作らせてもらっていた。就職を機に親元を離れ、一人暮らしをしている啓太さんは、日々の仕事の疲れからか随分と食生活が乱れていた。その結果は会社の健康診断にも色濃く表れていて、ほっそりとした外見のわりに血圧、血糖、コレステロールの値が異様に高かった。
見かねた私は、啓太さんのために手料理を振舞った。
「絵美の作るご飯は美味しいな。味付けも絶妙だよ」
そう言って啓太さんは褒めてくれた。私は嬉しくて仕方がなかった。
しかしここ最近、「上司と飲み会がある」「残業で帰れない」という理由で、啓太さんに私の料理を口にしてもらう機会が減った。
もちろん、学生の私は大人の事情に疎い。社会で生きていくためには、煩わしい人付き合いも理不尽な言いつけも、時に飲み込まなければならないのだろう。
けれども、週に五日も飲み会があるのは、さすがに度が過ぎると思う。
「はぁ…」
私は自宅のリビングで、重たい息を吐いた。
学生の一人暮らしには少し贅沢な、1LDKのマンション。一般的には経済的に余裕のある社会人が住居にするのだろうが、実家が裕福な私は例外だった。
リビングに、バラエティ番組の賑やかな笑い声が響いた。なんとなく今の私の気分にそぐわないので、リモコンを操作してチャンネルを変えた。
しかし金曜日の夜というゴールデンタイムのせいか、どの局も似通ったバラエティしか放送していなかった。
諦めた私はテレビの電源を落とした。そして、スマホでLINEを起動する。
『ごめん、今日も飲み会だわ。週末に会おう』
「……」
啓太さんからのメッセージ。私はそれを無言で見つめた。寂しさが胸に押し寄せるが、左右に首を振って誤魔化した。
大丈夫。啓太さんは仕事で忙しいだけだ。入社四年を迎えて、おそらく今が正念場なのだろう。ようやく昇進が視野に入り、やる気に満ちているのだ。
それに、週末に会おうと言ってくれている。それはつまり、今夜を乗り切れば、啓太さんの顔が見られるということだ。そう思うと、鬱屈とした気持ちも晴れていくような気がした。
しかしそこで、私は立ち止まった。先週の金曜日も、まったく同じ展開ではなかったか。
平日は一度も会えず、けれども金曜の夜にLINEが届き、週末に会う約束を取り付けて、大喜びする私。その約束が破られることも知らずに。
もし今週も会えなかったら、二週間も啓太さんと顔を合わせていないことになる。
こんなこと、以前ならあり得なかった。互いに忙しくても、必ず予定を合わせて会っていた。それは決して容易なことではなかった。啓太さんは社会人で、私だって来年には就活を控えている。それでも、二週間も会わないなんてことはなかった。
あんなに近くにいたはずなのに。啓太さんの顔も、声も、肌も、心も。今では遥か遠くにあるように感じられる。
やはり啓太さんは、私以外の女性と…
「もう!そんなワケないじゃない!」
自分の頬を叩いた。彼女が彼氏を信じなくてどうする。啓太さんが、浮気なんて不誠実な行為に手を染める人間でないことは、私が一番知っている。
気を紛らわすため、私はペンとノート、そして一冊の本を机に広げた。
ここ最近の日課となっている、漢字の勉強。別に漢検を受けるわけではない。というか、小学校の宿題で出される、ノートにひたすら漢字を書きこんで暗記するような勉強ではない。漢字の成り立ちや、込められた意味を知るのが目的だからだ。
そうして私は、広いリビングで一人、恋人のいない夜を過ごした。
*
六月二日、日曜日。
約束通り、私と啓太さんはデートをした。
二週間ぶりに見る啓太さんの顔は、やはり穏やかだった。何だかもう永遠に会えないような気すらしていた私は、待ち合わせ場所で顔を合わせた時、瞼が熱くなってしまった。
お洒落なカフェでランチをした。私と啓太さんは舌が似ていて、頼む料理は全く同じだ。
「食べ比べとか出来ないね」と啓太さんは笑って言った。私も笑って返した。
その後は、商店街でショッピング。色々なお店をまわったけれども、最も長く滞在したのは本屋さんだった。啓太さんは読書家だから、きっと一番落ち着く場所なのだろう。
啓太さんはミステリーを好んで読む。特に米澤穂信の作品には目がなく、私たちは最近完結した『小市民シリーズ』の話で大いに盛り上がった。
そして今、私は啓太さんの家にいた。
冷たいフローリングの上にクッションを敷いて、その上にちょこん、と正座している。啓太さんはシャワーを浴びていて、私はそれを待っていた。今晩は二人でカレーを作ることになったのだ。
久々の啓太さんの部屋は、私の記憶にある啓太さんの部屋と同じだった。ただ、最後に来た時より床の
「掃除機でもかけようかしら」
私は立ち上がった。テーブルを見下ろす形になったその時、視界にあるものが入った。
啓太さんのスマホだった。さっきまで座っていた位置からは、ちょうど他の物で隠れて見えなかったのだ。
「……」
どうして着替えと一緒に浴室に持って行かなかったのだろう、という疑問は一瞬浮かんですぐ消えた。私の頭は、別の考えに支配されていた。
「!」
私は思わず驚いた。真っ暗だったスマホの画面が、軽快な音と共に、ぱっ、と明るくなったからだ。
『
画面に表示された通知に、私はごくり、と唾を飲んだ。
男性でも女性でもあり得そうな名前の差出人。けれども一つだけハッキリしていることがある。
私はこの人を…否、啓太さんに「伊緒」なんて名前の知り合いがいることを、私は知らない。
気づいた時には、私の手は勝手に動いていた。ロックを解除して、LINEを起動する。
私は、伊緒なる人物とのトーク画面を開いた。スクロールして、会話の履歴に目を通す。
『啓太:今から伊緒の家行っていい?』
『啓太:昨日はありがとう。またゆっくり話したいな』
『啓太:悪いけど、夕飯作ってくれないかな?』
『啓太:昨日は悪かった。また二人で会えないかな?』
「うそ…でしょ…」
後ろから頭を思い切り殴られたような、強い衝撃が走った。自分の目を疑いたかったが、私が見ているものは確かに現実だった。
このLINEを見るに、啓太さんは間違いなく、「伊緒」という名の女性と浮気をしている。しかも、啓太さんの方から言い寄っている臭い。これは女の勘だが、啓太さんからの誘いに対する「伊緒」の返事が、どことなくそっけなかった。
『伊緒:あのさ』
『伊緒:これで会うの最後にしない?』
先ほど届いた、女性からのメッセージ。文面には、啓太さんと会うことに対する躊躇いが漂っていた。数十秒間、私はそれを無心で眺めた。
「…こんなの、ひどすぎる」
私は呟いた。啓太さんが今まで「飲み会」とか「残業」とか言っていたのは、全て嘘だったということ?私を騙して浮気相手と会うための、偽りだったということ?
しかも、女性側からではなく、啓太さんのほうから熱心に言い寄っているだなんて…。
私はもう一度、啓太さんのスマホの画面に視線を落とした。
『これで会うの最後にしない?』という、女性からのメッセージが、私の瞳に貼りついて離れない。何か強い感情が、この言葉から伝わる気がした。
私はその感情を、拒絶と解釈した。
「もう浮気なんてやめにしたい」と思う女性の、啓太さんに対する拒絶。
けれども啓太さんには、浮気をやめる気はないのだろう。伊緒という女性がいくら離れても、彼女の私がいくら近づいても、啓太さんは逢瀬を重ねたがるのだろう。
そう思うと、真っ白だった心に火がついた。どうして…どうしてなの?私は、こんなにも啓太さんのことが好きだというのに…!私はただ、遊ばれていたということ?
頭の中がぐちゃぐちゃになり、両目からは涙が溢れた。
「ふんふんふふ~ん♪」
その時、浴室から啓太さんの声が聞こえた。シャワーを浴び終え、呑気に鼻歌なんて歌っていた。
「……っ!」
感情の濁流が、私の胸を
つづく
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