15
陰鬱な気分が涼哉から食欲を奪う。やる気を奪う。何をする気にもなれない。枕のそばに置いたスマホの通知が鳴っている。返信するのは今の涼哉にはとてもできない。
二十二年だ。二十二年生きてようやく、涼哉は自分の存在の希薄さに気がついた。十代の多感な時期ではなく、分別もついて世間はそんなに面白いものではないということに気づいている今、ようやくだ。情けない、さながら中高生のようだ。
自分が特別じゃないことなんてとっくの昔に気づいていたはずなのに。
そうだ、それ自体には気づいていた。だからそれが辛いわけじゃない。ただ、そんな自分にも少しはアイデンティティのようなものはあって、これが西垣涼哉だと語れる何かはあるものだと信じていた。それなのに、振り返ってみれば涼哉の人生は誰かの期待や願いに応えてきただけで、自分の意思で決めたことなんか何一つありはしなかった。
こんな人生に、なんの意味がある。
中学受験に成功し、中高をそれなりに過ごし、良い大学にも入った。早期内定を実現し、四月からは社会人として生活を送る。仕事も充実して、そのうち誰かと結婚して家庭を築いて、穏やかな老後を過ごす。
そんな人生を送ったところで、涼哉は空っぽのままだ。誰かの言葉に従って、誰かの望むように生きていく。
そんな人生に、なんの意味がある。
今まで頑張ったつもりでいた。目の前のことを精一杯やって、誰かの望む『西垣涼哉』でい続けるために頑張ってきた。でもそれは頑張らなくてもよかったことで、本当はもっと他に熱量を注ぐべきだったのだ。
かつて陸上に向き合っていた時のように。
いや、それすらも違うのかもしれない。本当は陸上なんか好きでもなんでもなくて、ただ『部活に打ち込む西垣涼哉』を全うするためだったのかもしれない。
だったらあの苦しんだ時間も全部経験しなかった方がよかったんじゃないか。選ばなかった方の未来にいたら、自分は今頃悩んでもいないし絶望もしていないかもしれない。
今更自分の思うようには生きていけない。自分のわがままを通せるような気はしない。自分がここで何かを言ったら他の人に何か言われるかもしれない。嫌われるかもしれない。わがままで傍若無人なやつだと思われるかもしれない。自分の意志を貫き通せるほど涼哉は強くなく、子供でもなくなっていた。
どこへ向かうにも、もう遅すぎる。
弟妹の喧嘩から始まったはずの小さな歪は涼哉に絶望を残した。兄として、そして家族として家の中の蟠りを解決したかっただけなのに、自分自身の問題が大きく膨らんでしまった。
芦屋を恨めしく思う。
そもそもは芦屋の一言から始まったのだ。芦屋が義務感で接するななどと言ったから、こんなことになっているわけで、彼女の一言さえなければ何も気づかないままでいられたのだ。
何も気づかず。
今まで通り。
知らないまま、誰かの思う『西垣涼哉』で生きていく。
芦屋がいつか言っていた言葉を思い出す。
『この世は疑問を抱かず続けたもん勝ちだよ、やっぱり』
本当にそうだろうか。
今はこんなに胸が苦しくて、悲しくて虚しくて潰れそうにはなるけれど、気づかなかった未来よりはいいんじゃないのかと、気づけてよかったのではないかと思える自分がいる。
誰かのための『西垣涼哉』は、ここで終わる。それを間違っているとは思えなかった。
疑いが初めて涼哉の目を覚ました。疑問を抱かず生き続けていたら、自分はどうなっていたのだろう。きっとそれなりにうまくやっていたと思う。誰かの望む通りに涼哉は生きて、それなりの幸せを掴んでいたはずだ。器用な涼哉ならそうなっていたかもしれない。でも、それで涼哉だけの幸せを掴めていたかと問われれば頷けない。
誰かの望んだ人生ではない。自分だけの人生でなければ意味がないのではないか。
だとしたらやはり、気づかないまま生きていた未来は違う。疑問を抱いて、辛く悲しい思いをしても負けだなんて思わない。
涼哉は目を開いた。
やるしかないのだ。涼哉は変わりたいと望んでいる。このまま誰かのためにだけ生きて死んでいきたくはない。この気持ちだけは嘘じゃない。
西垣涼哉の人生はここから始まる。いや、始めなければならない。芦屋ならきっとそうする。芦屋なら問題を放っておくようなことはしない。
問題は解かなくてはならない。まずは夕斗と茜の間にある歪だ。
兄としてではなく、涼哉がそうしたいのだ。
幾千日の問い 月岡玄冬 @tsukiokagentou
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