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 ずっしりと胸に重りがのしかかった気分だった。さながら鉄球でも鳩尾にぴったりとはまっているかのような圧迫感がある。あるいは肋を通り越して直接心臓を握っているような圧迫感かもしれない。

 なんでもいい。とにかく涼哉は心にずっしりと打撃を受けた気分だった。

 一人きりの帰り道、炎天下に蝉の声は遠く、横を歩くサラリーマンの足音がばらばらと聞こえる。

 義務感。言葉だけが脳にこだまする。

 そんなことはない、と思うのに、いつまでも圧迫感が消えない。心臓がどこか落ち着かない。

 義務で自分は兄をやっていたのか。そんなことはない。というか、兄に生まれた時点で弟妹の面倒を見ることは当然のことで、今回の件だって涼哉が仲立ちした方がうまく回るのではないかと考えたわけで、それは別に義務感ということではない。無理をしているわけではない。そう涼哉は思っている。

 芦屋の言う事のほとんどは本質を突いたものだと思う。けれど、今回のことに関しては違う。涼哉は義務感なんて持ち合わせていない。弟妹が心配なのは当然で、それは兄として普通のことだ。義務感なんかで接してはいない。

 けれど芦屋には涼哉のことがそう見えたのだという。無理して兄をやっているように、彼女の目には見えた。

 ビルのガラスに映る自分が目に入る。いかにも大学生という見た目の自分の姿を涼哉はすっと見つめた。

 茶色の髪は大学に入ってから染めた。オーバーサイズのTシャツにシャツ、ワイドシルエットのパンツというファッションはその辺でいくらでも見る姿。一番楽で一番困らなくて一番不安を与えない姿だ。涼哉の幸運は人より少し顔が小さくて手足が長いことだ。生まれ持った自分の身体的特徴が世界に擬態するのを助けてくれた。おかげさまで量産型の味気ないものも少しは上等の味付けとして料理される。

 けれどこうしてガラスの中の自分を見ていると、あまり際立たないのだと実感する。そりゃあ量産型なのだから当然目立たないのだが、なんだろう、自分を見つめているはずなのにあまり目に入ってこない。誰よりも目立つポジションにいるのに背景に同化していく。そのうち本当にガラスの中に吸い込まれていって、この世界から消えていくのではないか。あるはずもない想像を青みがかったガラスは想起させる。

 どうして自分はこんな姿をしているのだろう、と涼哉は思う。ガラスの中の自分が世間から見た自分の姿なら、とてもつまらない人間のように思えてしまった。こんなに自分は味気なかっただろうか。こんなにも埋没していく人間だったのか。凹凸もコントラストもない自分の像に恐怖すら覚える。

 この姿が芦屋の言う義務感なのだろうか。まっさらで無味無臭の姿が義務感なのだろうか。わからない。

 義務とはなんだ。義務とは誰かにやれと言われてそうすることか。そうするべき事なのだ。

 涼哉は自分を顧みる。そうするべきこととして茜と夕斗の喧嘩を仲裁したいのか。誰かに言われたわけではない事は確かだ。でも、兄として弟妹の面倒を見ることは当然のことのはずだ。

 だってずっと昔からそう言われ続けてきたのだから。

 そこで涼哉はハッとする。そうだ、言われ続けてきたのだ。誰かにずっと前から言われ続けてきていた。涼哉は兄なのだから、弟と妹の面倒を見なければならない。二人は喧嘩が多いから、それは仲裁しなければならないと。

 仕事で留守がちな『私たち』の代わりに。

 ああ、そうか。

 自分はずっとその言葉に応え続けていたのだと、涼哉はやっと気づいた。忘れかけていたその言葉と経験が今、記憶の奥底から湧き出した。

 ガラスの中の自分を置き去りに、涼哉は歩き出した。


 涼哉と名付けられたのは涼しい日だったからだという。暑い八月が終わり、九月に入って初めての涼しい日だった。

 待望の第一子。長子として生まれた涼哉は大層可愛がられた。というより、大事にされたのだ。

 両親は幼い涼哉にたくさんの習い事をさせた。水泳、ピアノ、そろばん、空手、そのほかにもいろいろとやった覚えがある。それに加えて塾もあったから子供の頃は毎日大変だったことを記憶している。

 けれど涼哉がこれほどまでにいろいろやらされたのは、涼哉がそれをこなせたからだと高校の頃に気づいた。弟や妹はそこまで多くの習い事はしていなかった。子供の頃はどうして自分だけこんなに多くやらなければならないのかと思っていたが、気づいてしまえば大したことない。夕斗と茜は全ての習い事を全てできるわけではなかった。疲れたから行かない、とか、向いてない、といったことを父や母に言っていた。両親はそれならしょうがない、と言って一ヶ月後には辞めさせていた。涼哉がいろいろやらされたのは、その全てにおいてそこそこの成績を残し、文句も言わずにやったからである。疲れた様子も見せなかった。頑張っている自分を褒めてもらいたかった一心で隠し続けた。

 褒めて欲しかった。でもそれ以上に、喜んで欲しかったのだ。両親が自分がいろいろやって喜んでくれるなら、それでとても嬉しい。弟や妹にとってかっこいい兄でいたい。そのために辛くても疲れても頑張れた。

 でもいつからかそれは変わっていたのだ。『喜んで欲しい』は『失望しないで欲しい』になって、喧嘩を仲裁するのが『危ないから』や『悲しいから』ではなく『両親に怒られるから』や『面倒だから早く片付けたい』になった。放っておけばいいのに手を離せられなかったのは、いつかかけられた『涼哉は兄だから』という言葉だったことには気づかずに。

 この言葉が涼哉の核になっていたのだ。兄だからちゃんとする。良い学校に行って独り立ちして良い会社に入る。就職活動がうまくいくのは当たり前だ。何せ企業の求める人材になればいいのだから。涼哉にとってそれはずっと昔、子供の頃からやってきたことだった。誰かの求める姿になるのは訓練済みだった。

 何か能力が認められたわけではない。光る才能があるわけでもない。ただ応えただけなのだ。求めるものに上手に応えられただけで、自分だけの何かを証明できたわけではない。

 涼哉には何もない。

 自分は空っぽだったのだと涼哉は初めて自覚する。小説や漫画の中で語り尽くされてきた『空っぽ』の主人公に、涼哉はいつも哀れみを持って眺めていた。けれど、本当に空っぽだったのは自分自身で、それに気づいた今、こんな気持ちになるなんて思いもしなかった。

 虚しい。辛い。苦しい。悲しい。何かに怒りたいのに、どこへぶつけたらいいのかわからない。兄に生まれたことを酷く後悔する。夕斗や茜にいろいろ言ってやりたい気持ちがある。でも彼らにあたるのはお門違いだということも充分わかっている。親の言葉に縛られてきた。それを恨めばいいのか。

 どこから間違えた。きっと『何か』を間違えてしまった。

 長子は生まれた瞬間に運命を背負っている。自分の下に誰かが続くことはあれど、誰かの下になる事はない。

 それが涼哉の中にはずっとあったのだ。気づかなかっただけで、長子で生まれてしまった事実は少しずつ涼哉の人生の舵を取り、進路は段々と本来の自分からずれていった。自分のアイデンティティのようなものは薄まっていって、だからガラスの中の自分は背景に消えていくようになってしまったのだ。

 だとしたら、本当の自分とはなんだったのだろう。期待に応え続けた人生ではなく、自分の思うままに生きてみた自分はどんな姿だったのだろう。

 本当の西垣涼哉はどんな人生を歩んでいたのだろう。自分は一体、どんな人間なのだろう。今更になって、何も見えなくなってしまった。

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