13

 茜はアイスとお菓子を爆買いした。涼哉の金とわかっているからだ。涼哉は痛い出費だと思いながらも、茜がそれで満足するなら安いものかと思った。少なくともここでアイスなりお菓子を与えておけば、少しは気がおさまるものだ。イケメンの店員も拝めたのだから、尚更だろう。

 日中の暑い公園内は少し歩くだけで汗が噴き出る。そこら中で鳴く蝉の声は五月蝿すぎて風情なんてものはない。むしろ暑さを増幅させるような気さえする。茜は日傘を差しているが、涼哉はその傘の外側で紫外線を思いきり浴びさせられている。

「なあ、茜」

 茜は振り返りもしない。

「夕斗となんかあったのか?」

 当然答えなかった。それは予想の範囲内だったので、涼哉はそのまま続ける。

「茜もなんかあったんだろうけど、クッション投げつけるのは良くなかったな」

 むすっとした茜の背中は幼く見えた。実際、涼哉から見れば高校生の茜は幼い。いや、妹というのはいつまでもこんなものなのかもしれない。

 その背中の先にはこんな猛暑というのに歩いている人がいる。汗だくの中年、会社から出てきてどこかへ向かうスーツの男性、その隙間を自転車に乗った主婦が駆けていく。

 その中をまっすぐ歩く背中を見た。見慣れた背中だ。

「芦屋」

 涼哉は駆け出すように彼女の背中を追いかけた。いつもより歩幅も広く速足な彼女に追いつくにはそうするしかなかったのだ。

 近づくと芦屋がイヤホンをしていることに気づいた。涼哉は彼女の肩をそっと叩き声を掛ける。すると芦屋はものすごく驚いた。

「あ、ごめん」

「びっくりした……」

 芦屋はトートバッグを肩から提げていた。いつものサコッシュではないことに涼哉は疑問を抱く。

「散歩じゃないのか」

「ああ、今日は図書館に行ってて……」

 今日が返却日だったらしい。芦屋が持つトートバッグは膨れており、数冊入っていることがわかった。また新しく借りてきたらしい。

「ちょっと涼哉!いきなり走んないでよ!って、誰?」

 茜が大きく日傘を動かしながら追いついてきた。

「芦屋千晴。俺の同級生。こいつ、俺の妹。茜」

 涼哉が紹介すると芦屋は頭を下げた。

「芦屋千晴といいます」

「あ、ええっと西垣茜です。兄がお世話に……なってます?」

「お世話はしてないから気を遣わないで大丈夫です」

「そっか」

「いきなりタメ口使うな」

「あ、ごめんなさい」

「気にしないで。気にしてないから」

 芦屋は穏やかに茜に笑いかけた。茜も嬉しそうに笑顔で応えた。

「茜、先帰ってて。アイス溶けるし」

「うん。じゃあ芦屋さん、兄と仲良くしてやってください」

「おい」

「ははは。気をつけて帰ってね」

「はーい」

 茜はアイスがたんまり入ったレジ袋を勢いよく振りながら帰っていった。どうやら機嫌は直りつつあるらしい。涼哉はほっとしつつ、芦屋を見た。

「悪いな。失礼な妹で」

「そうかな。いい妹さんだと思うよ」

 そうでもないさ、と涼哉は言った。何せ現在進行形で兄と喧嘩をしているのだから。

「兄妹喧嘩ねぇ。可愛らしいもんじゃない?」

「それがそうでもないんだよ。今までの可愛げのあるもんじゃなくて、衝突って感じで……参ったな」

 いかんせんこのような事態に出会したのは初めてのことで、涼哉には対処法が思いつかない。いきなり二人の間を取り持つにしても、きっと嫌がられるだろう。特に夕斗の方が厄介かもしれない。弟妹との距離感がわからなくなっている気がした。

「西垣、ちゃんとお兄さんしてるね」

 突然芦屋にそう言われ、涼哉は驚いた。同時に酷く照れ臭かった。

「いや、そんなことないって」

「そう?妹さんたちのこと考えてるなって感心したけど」

「どっちかというと、どうやって接していいかわかんなくて悩んでるんだよ」

 涼哉は事の顛末を話した。実家に帰省してからというもの二人の距離感がおかしいこと、そして今朝のこと。話しているだけで気分がどんよりと沈んでくる。

「どうしたもんかな。兄貴だから、ちゃんとしないと」

 呟きに意味はなく、溢れてしまったものだった。

「家族のことだから、部外者の私にどうこう言えるものではないけど」

 芦屋が言った。

「人が人を嫌いになる瞬間っていうのは、ある程度決まっているものだと思う」

 涼哉は当然、その答えが聞きたかった。

「それって何?」

 芦屋は涼哉の目を見上げながら答えた。

「その人が自分と違うって思った時。あるいは、自分の抱いていたその人のイメージと違うと思った時」

 ぶわっと強い風が吹いた。少しだけ涼しい風が吹き抜けて心を揺らしていく。

 例えば、と芦屋は言う。

「好き同士の恋人たちがいたとする。彼らはそれなりに仲が良いと思っていたのだけれど、ある日きのこの山を彼女が買ってきた」

「きのこの山」

「そう。でも彼氏の方は生粋のたけのこ派だった。さあ、彼らは一体どうなるか」

「けんかだろうな」

「それで終わればいいけど、ここではそうはいかない。もし彼女が自分と同じ価値観を持っている彼氏のことが好きだったのなら、どうだろう」

「どうって……」

「同じ趣味を持って、選ぶものも全く同じ。違うものは選ばない。自分の好きなものを彼氏も好き。だから彼氏も好き。それで今まで上手くやれていた。そう思ってた彼女が突然自分と違う彼氏のことを知ったら……気持ちもずれていくと思う」

 今まで全く同じだと思っていたところに、少しのずれが生まれる。

「でも、所詮きのこたけのこの話だろ」

「例えだよ。もしこれが、自分が核にしている価値観だったら?家事を手伝わない、いびきがうるさい、化粧が長い、食器の扱いが雑……そういうものに置き換えてみても、小さいことだって言える?」

 それは、言えない。

「『この人はこうだ』って思ってたんだよ。この人は私と同じきのこ派だって思ってたから、思いもよらない『違い』に対応できなかった。側から見れば大したことじゃないのに、彼女たちにとっては『違う』ことが何よりも問題だった。だって『同じ』ことが彼らを繋ぎ止めてたから。きのこたけのこの『違い』は、彼らの決定的な『違い』になったんだよ」

 だから多分、と芦屋は言う。

「妹さんの中で弟さんの『何か』が『違って』しまって、それを受け入れられない状態なんじゃないかなと。単に思春期っていうのももちろんあると思うけど」

 最後は自信なく芦屋はつぶやいた。

 涼哉は芦屋の言葉を脳で反芻する。『違い』か、と唱えるようにこぼした。

「違うってことは、そんなに問題か?」

 自分と他人は違うことなんて当たり前のことなのではないかと涼哉は思う。個体差があるのは当然なのに、その違いで関係を壊すのか。

 芦屋は静かに答える。

「同じだと安心するもの。予想の範囲内で収まればびっくりするようなことは起こらない。『同じ』は防御なのかなと思うよ」

 防御、と涼哉は呟く。

「違うものは排斥されるの。歴史がそれを証明してる。世の中のセオリーに当てはまらないものは理解ができなくて、恐いから退ける、排斥する、消したくなる。そうしてきたのが人間の歴史なんだと私は思う」

 ああ、それはなんとなくわかるな、と涼哉は思った。身分、肌の色、宗教、身体的特徴、考え方、さまざまなもので人間は特定の人を排除しようとした歴史がある。それは義務教育で必ず教わることで、その先の領域を知れば尚更その卑劣さと愚かさを痛感する。歴史だけの話ではない。現代社会にだってそういう微妙な『線引き』はあって、それを侵したと勝手に判断して排斥したがる人がいる。

 少しの『違い』は単なる『違い』ではない。それが判断材料なのだ。それを以てして人は人を判断する。人は弱いから、そうやって自分を守らねばならないのだ。

「そうか。弱いな、人間は」

 涼哉はやるせなさを感じた。

「弱いから考えるんだよ。すぐ淘汰されるから、知恵を絞る」

 芦屋はトートバッグを肩に掛け直し、とにかく、とまとめた。

「色々言ったけど、結局は妹さんや弟さんと話してみないとなんとも。きょうだいの問題はきょうだいにしか解決できないし。西垣がどうにかするしかないよ」

「だよな……」

 涼哉ははあ、とため息をついた。想定していた答えが最善だったのだ。やはりそれしかないのかと気分が憂鬱になる。茜も夕斗も頑固そうだ。

「西垣がどうしたいかだとも思う」

 涼哉はえ、と芦屋を見つめた。芦屋は表情ひとつ変わらず淡々と続ける。

「兄妹間のいざこざなんて時間が解決してくれることだってあるから、放っておくっていうのも一つの解決策だと思う」

「いや、でも」

 それでは二人の不仲をただ茫然と見ているだけになってしまう。それは避けなければいけない気がする。

 だって涼哉は長男なのだ。弟妹の面倒を見なければいけない。それが兄としての役割で、そうでなければならないのだ。昔からずっとそうしてきたのだから。

「無理に口出されても五月蝿いだけだと思うけど。妹の立場から言うとね」

 芦屋は涼哉を静かに見る。

「私、姉がいるの。『姉だから』って理由で私の人生と生活に口出しされたら嫌」

「でも、そんなの当然だろ。きょうだいで、下の妹が心配なのは」

「義務感で年上やってもらわなくて結構って言ってんの」

 強い言葉が芦屋から聞こえて、涼哉の心臓は縮み上がるような気がした。切長の目が涼哉をまっすぐ見つめる。

「西垣がきょうだいを心配してんのは、『兄だから』っていう義務感なんじゃないの?」

 それは無償の愛ではなく、ただの義務感。

「酷いこと言ってるってわかってる。でも、私には西垣がそういう風に見える」

 ごめん、とだけ残して芦屋はその場から去ってしまった。一人残された涼哉に蝉の声は絶え間なく降り続け、思考の邪魔をする。

 ただ、義務感という言葉が響いていた。

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