12

 八月に入り一週間ほどが経った。涼哉は朝から自室で卒論に使う資料を眺めていた時だ。

 廊下から茜の怒号が聞こえてきた。

 何事かと思い、涼哉は部屋の扉を開ける。すると目の前を何かがすごい勢いで横切った。それはぼすっという音を立てて、何かに当たった。夕斗の顔面だった。

「だ、大丈夫か」

 夕斗は鼻を手で抑えながらああ、と答える。鋭い目つきで茜を睨んでいた。一方の茜も肩を上下させながら憤慨している。

「んだよ……いきなり」

 夕斗が低く唸るように言った。

「だらしないって言ってんのよ。いつまでもダラダラして、朝ごはんも食べないでさ」

「茜に関係ねえだろ」

「見てるだけでイライラすんだよ」

 涼哉はこれはまずい、と思い仲裁に入る。

「おい、やめろ二人とも」

「兄貴は黙ってろよ。関係ねえだろ」

 夕斗が涼哉を思い切り睨んだ。思わぬ凄みに涼哉は怯む。とはいえ、ここで引き下がるわけにはいかない。

「関係ないわけないだろ。きょうだいなんだから」

 すると夕斗は心底嫌そうにチッと舌打ちをして洗面所へ向かった。

「おい」

「うるせえよ。うぜえんだよ兄貴はいつも」

 バタン、と大きな音を立てて洗面所の扉を閉めた夕斗を、涼哉はただ呆然と感じていた。そして目の前に落ちているクッションを拾い上げる。茜が投げたのはリビングのソファに置いてあるクッションだった。それなりに長く使っているクッションだから少しくたびれている。

 茜は俯いている。拳はギュッと握りしめながら、行き場のない怒りに震えていた。

「茜……大丈夫か」

 茜は答えず、自分の部屋へ閉じこもってしまった。

 それからしばらくして夕斗が外出した。大学へ向かったのだろうか。何も聞けず、何も言えず、涼哉は渋々部屋へ戻った。

 この夏に家に帰ってからずっと夕斗と茜の関係は悪い。ぎすぎすしている。兄妹の喧嘩というのは確かに頻繁にあるものだったが、このように関係が悪化していることはなかった。今までの喧嘩が平仮名の『けんか』だったのに、今のはまさに『喧嘩』だ。

 一体二人の間に何があったのだろう。それに加えて夕斗が涼哉にまであたるというのは今までに一度もなかった。確かに小さい頃は些細な衝突さえあれど、喧嘩という喧嘩はした覚えがない。

 夕斗は幼い頃、静かで大人しい子供だった。自分から人と関わりに行くのは苦手だったから、涼哉の後をついて回るような弟だった。そんな夕斗は涼哉は可愛がっていた。けれどそんな夕斗も小学校に入ると少しずつ友達と関わるのが上手くなって、涼哉も嬉しく思った。その頃には塾へ通い始めていたから、忙しくもあって夕斗の世話を離れられるのも助かった。

 中学校に入れば部活と勉強で忙しくてあまり相手ができなかった。けれど、その頃には夕斗はすっかり学校という家以外の世界に順応していたから、程よい距離感で接していた。兄弟らしい距離感だったと思う。

 しかしそんな夕斗に『いつもうざい』と言われた。その『いつも』とは一体いつからいつまでの『いつも』だったのか。何がダメだったのか。期待に添えられなかったのか。兄として不十分だったのか。色々と考えてはみたものの、答えは出ない。

 そして茜。茜は夕斗のことは嫌いじゃなかったはずだ。末っ子の茜は二人の兄に守られながら、のびのびと育った。今までの茜を見ていても、特別兄を嫌っていたようには思えない。確かに年相応にうざがられはしたが、それでも大した衝突じゃなかった。

 自分たちきょうだいは、いつから間違っていたのだろう。仲は確かによかったはずなのだ。何が変えてしまったのだろう。

 考えてはみるものの、これといった答えが思い浮かばない。涼哉はふと、芦屋のことを思い出した。賢い芦屋ならばきっと最善策を思いつくのだろう。涼哉にもあんな知識と頭の回転の速さがあればと思ったが、ないものねだりに意味はない。

 自分の持ち物で解決するしかない。

 涼哉は部屋を出た。そして茜の部屋をノックする。

「茜、起きてるか」

 反応は無かったが、ごそ、と動く音がした。

「アイス、食べたくないか」

 あのイケメンの店員がいるコンビニに買いに行こう、と涼哉が言うとドアが少しだけ開いた。

「……奢ってくれるなら」

 涼哉は支度しろ、とだけ言った。

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