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 芦屋と会うことは少しずつ特別なイベントから日常へと変化した。最初はあれほど戸惑った会話も段々と上手になってきた。

 芦屋は涼哉からすれば不思議な話をする。ふとしたきっかけからある話題を切り取り、飛躍した理論や知見を見せる。

 公園内にある選挙の掲示板を見かけたときのことだ。

「もうすぐ選挙か」

 涼哉が呟いた。掲示板にはポスターが何枚か貼られていた。

「行くのだるいな。何も変わんねえし」

 ぽそっと本音が出てしまった。このインターネットが普及した時代に、わざわざ投票所に足を運ぶのが面倒臭い。それに自分の一票があったところで政治は変わりはしない。それなのに自分の時間を消費してまで選挙に参加しようとは思えなかった。

 芦屋はポスターを見ながら言った。

「明治に行われた選挙は制限選挙だった」

 突然の歴史的な言葉に涼哉は少なからず困惑した。芦屋は変わらずポスターを見上げながら首筋に流れた汗も気にせず続ける。

「高い税金を納めた人が参加できる選挙。その後納税額が下げられた男性の選挙、さらに後に男性の普通選挙が行われた。女性の選挙権が認められたのは、さらにその後」

 淡々と芦屋は続ける。

「かつて、女性は参政権のために文字通りの血と汗を流した。それは比喩でも何でもなく、本当に命をかけて、実際に死者が出ている。どうしてそこまで参政権が欲しかったのか」

 ようやく芦屋は涼哉の方を見た。静かな瞳だった。

「それが自由の証だったから。ただ政治に参加したかったってだけじゃない。でもそれ以上に、当時の女性はしがらみが多かった。売春、労働……当時の女性たちを縛るいろんなものから解放するため、世界を変えるためにそれが必要だった。戦った人がいて、泣いた人がいる。そういう屍の上に私たちの権利はある。生活がある。それなのに、手放していいのかと私は思う」

 涼哉は何か言わなければと思って、必死に言葉を紡ごうとする。

「あ、いや。そうだよな。大事だよな、選挙権」

 なんてチープな言葉なのだろう。芦屋はどこか呆れたような顔をした。

「別に、説教するつもりで言ったわけじゃないから」

 ただ、と芦屋はつぶやく。

「私、この話好きなんだよ。初めて本で読んだ時、痺れた。私が今持ってる持ち物は誰かが喉から手が出るほど欲しくて、国を変えようとした結果生まれたものなんだって思ったら、ちゃんと生きなきゃなって思う」

 汗が太陽を浴びてきら、と輝いた。

「西垣はどう思う?」

 強い瞳だ。

「西垣の言葉でどうぞ」

 涼哉は考えた。

 知らなかった。女性の解放運動のことは当然日本史で通ってきたが、参政権という視点を中心に見るとそういう見解もあるのか、と思った。そして芦屋というレンズを通して見るとそれは尚更劇的に見える。だけど涼哉は女性ではないから、その全てに彼女と同じ目線で向き合えてはいない。涼哉は男であることは変えられないから、きっとピッタリと同じ目線には一生なれない。

「俺は、金持ちのための政治ってのは嫌だな」

 金を持ってる人間なんて世間じゃ一握りだ。それ以外が大半で、その人たちのため政治をやった方が世界は生きやすくなるような気がする。何より、自分だって苦学生だからそっちがいい。

 芦屋は柔らかい笑みを口に浮かべて、

「いい答え」

 と嬉しげだった。

 芦屋はちょっとした出来事や事象に面白い見解を見せる。それは涼哉には思いつかないもので、驚きと感嘆に包まれる。と同時に芦屋という人間の面白さにどんどん魅せられていった。それはどちらかというと先生や教授に抱く感情に近かった。

 道端で枯れている紫陽花について。

「綺麗な花も時間が経てば茶色く変色して、なんかな。命あるもの、いつかは滅びるって感じ。そう思わねえ?」

「まあ。でも私は嫌いじゃないかな。枯れてる紫陽花も」

 意外な返答に涼哉は驚きつつも、その先を期待している自分がいた。こうでなくちゃと思った。

「梅雨の時期、この紫陽花は綺麗に色づいてた。今年の梅雨は短くて暑かったのに、ちゃんと咲いてた。盛りを過ぎた今、枯れてはいるけれど、それはちゃんと咲いて生きたことの印だから、それはそれで綺麗だと思う」

 美しさと醜さ。彼女の中ではその境界は曖昧で繊細な線引きの上にあるのかもしれないと涼哉は思った。

「老いた醜さじゃなく、醜くなるまで生きたと思える方が私は好きだな」

 カラカラに乾いた紫陽花が風に揺れる。

「人もそう。いつまでも若くいたい、美しくいたいっていう感情に取り憑かれてる人が時々いる。当然の感情なんだけど、程度ってものはあると思う。最近すごく日焼け止めのCM多いなって思うんだけど」

 そう思うだけなのかもしれないけど、と芦屋は付け足した。そのCMは涼哉もよく目にするCMで、出演するタレントは美容家として有名だ。

「なんか、あのタレント見てると怖いなって思うんだよね。この人、おばあちゃんになっても肌つるつるなのかなって。シミもシワもなくて、若々しいまま死んでいくのかなって思ったらすごく怖いと思った」

 余計なお世話だと思うし、本人の意思なら別に問題ないのだけれど、と芦屋は言った。

「でも、大抵の人はいつまでも若々しくいたいと思ってる。もし、それが世の中のステータスになったら、私はそれが一番怖い」

 皆、いつまでも若いままで死んでいく。そんな世の中になったら。それが当たり前になって、醜い姿を許容できない世界が生まれたのなら、私は生きられないと語った。

「日に焼けたっていい。だって生きた証だから。二十二歳の夏、馬鹿みたいに目的もなく歩いたことが、いつか脳からなくなっても体に刻まれた記憶だって思ったら、シミもシワも悪くないよ」

 芦屋の話を聞きながら涼哉の頭に浮かんでいたのは、明日香の白い肌だった。明日香は夏が嫌いだ。というか日光が嫌いだ。日に焼けるのが何よりも嫌いで、日陰ばかりを歩く彼女の姿を思い出す。そんな彼女はきっと芦屋の言うような、シミもシワもないおばあちゃんになるのかもしれない。そうでなくとも、実年齢よりも若く見られるような老人になるのだろう。もしかしたら、その隣にいるのは自分かもしれない。

「桜が散らなかったら、あんなに春は盛り上がらないと思う」

 桜がいつまでも咲いているような花ならばきっと今のようには愛されていないと思う。いつでも見られる花に人はそこまで興味を示さない。常にあるものの魅力に人は気づけない。春のほんの少しの間だけ見られるから、桜はあんなにも美しく見えるのだと、芦屋は言う。

「終わりがあるから綺麗なんだよ。花も若さも」

 とはいえ、と芦屋は笑う。

「綺麗でいたいと思うのは悪いことじゃないし普通の感情だと思う。つるつるの老人になりたいと思うのも止めやしない。それはそれで面白いだろうし。他人がしたいことを止める権利なんて私にはないからね」

 芦屋はそっと枯れた紫陽花に触れる。その手は少し日に焼けていた。紫陽花の命を慈しむような手だと、それに値する手だと思った。

「爺さん婆さんになっても見た目が若かったら、妖怪みたいだな」

 涼哉が言うと芦屋はあはは、と笑った。

 こんなに素直な笑顔は、初めて見た気がした。


 池を泳ぐ亀がいた。

「のんびりしてていいな」

「どこがよ」

「え」

「こいつら、外来種。在来種を脅かしてんの。風情を感じてる場合じゃない」

 芦屋は恨めしそうに亀を見ていた。

 蜻蛉が草の上を飛んでいる。

「あれ何」

「オオシオカラトンボ。綺麗だよね」

「赤いのは?全身真っ赤なやつ」

「ショウジョウトンボ。血まみれって感じのやつでしょ?」

「血まみれってお前……物騒だな」

「そう?いい例えだと思ったけど」

「まあ確かに。全身赤いし」

 芦屋は物知りでもあった。

 魚が跳ねた。ばしゃ、びたん、と水面が鳴る。

「びっくりした……」

「いきなり来ると驚くよね」

「予告してくれたらいいのに」

「魚の都合と人間の都合はあんまり合致しないよ。諦めな」

 達観している。そしてその通りだ。

 木々がざあ、と音を立てて揺れる。

「風、強いな」

「そのくせ涼しくない。今日は昼も暑かったからかな」

「かもな」

 涼哉にはよくわからないが、芦屋には微妙な温度の違いも肌でわかるらしい。感覚が鋭い。

 知らない花が咲いて、枯れている。

「あれ、なんて花?」

「タチアオイ。白いのが特に綺麗」

「へえ」

「私個人の意見ね」

 側に咲いている花は華やかな濃いピンクだ。白い花が見たくなった。

「どっかに咲いてる?」

「公園の中にあるよ。けど、もう枯れてると思う」

「そっか」

「うん」

 時間とはこんなにゆっくり流れるものだっただろうかと涼哉はふと思った。

 よく晴れた日の夕暮れだった。オレンジに空が染まっていた。優しいその色を芦屋は見上げていた。

 空がその瞳に映ってきらきらと輝いた。人間の目には水分がある。だから太陽の光が反射して輝いているとわかっている。わかっているのに、どうも彼女の目は自ら発光しているようなそんな錯覚を起こす。

 きっと今、芦屋は空を綺麗だと思っている。彼女の世界は綺麗に満ちている。生物も花も空も、彼女にとっては綺麗なのだ。その目で見る世界は綺麗なのだ。その肌で感じる世界は美しいのだ。彼女の世界は綺麗だ。

 その世界を涼哉は好きになりかけていた。芦屋のおかげで世界が少し輝いてみえる。変わり映えしなかった都会の景色は、彼女というレンズを通して今、彩りを増してビビッドに、時にセピアにモノクロになりながら様相を変えて楽しい。生きるのが少し面白い。

 自分は思ったよりも退屈を感じていたのかもしれない。そんなことを涼哉は芦屋の横顔を見ながら思った。

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