10
「そっか」
次に芦屋に会った日、涼哉は過去の話をした。
しかしそっけない返事をした芦屋に涼哉は少しだけドキッとした。もしや話を聞いていなかったのではないか。涼哉が決死の覚悟で話した部活を辞めたというエピソードは彼女にとって大したことないことだったのか。自分で辞めたくせに引きずっている姿が滑稽に見えたのだろうか。
「西垣はどう思う?」
涼哉は突然の問いに困惑する。
「どうって……」
「辞めたこと。続ければよかったと思うの。それとも辞めてよかったって思う?」
「俺は……正直わからない。続ければよかったんだって頭ではわかってる。この前の芦屋の話を聞けば尚更そうだって思う。続けたもん勝ちって言葉にはすごい納得してる。でも、あの時の気持ちが全部、全部間違ってたとか勘違いだとか早計すぎるとか、そんな言葉で片付けるのはなんか、したくない。あの時の自分に続けろなんて簡単には言えない」
芦屋ならきっとこれだという言葉で語ってみせるのだろう。彼女は迷わないから、何より自由な選択をして鮮やかに解いてみせるのだろうけど、涼哉にはそれはできない。優秀な彼女とは違って、うじうじと引きずって答えを出しきれない。
しかし芦屋はまたも、
「そっか」
と答えた。
「それはすごく美しいと思うよ」
予想だにしない言葉に涼哉は芦屋の顔をまじまじと見た。彼女の顔は特に喜怒哀楽の表情は持たず、雲の多い空を見上げている。今日も暑かったが、風が吹く分気が紛れる。
「過去の選択にああすればよかったんだってはっきり言える人なんて少ないと思う。続ければ続けたなりに苦労は続いただろうし、辞めたからできたことだってあったはず。YESを選んでもNOを選んでも、結果は大して変わらなかったかもしれない」
芦屋はかすかに音を立てて息継ぎをする。
「何より、苦しんだ自分をなかったことにはしたくないよね」
その言葉が涼哉の心臓に冷たい雫を落とした。ひやりとしてびっくりするのに、動き続けた心臓にはその冷たさが驚くほど心地よくて、雫の持つ安らぎが心臓を伝って全身に運ばれるような気がした。
涼哉にとって部活を辞めた自分は汚点で傷で後悔だったのだと思う。醜い自分のその姿は触れたくない思い出の一つで、いなくなってしまえばいいとすら思えた。全てなかったことにして、西垣涼哉の人生にそんな姿はなかったと言えればどれほどよかっただろう。ダサい、醜い、格好悪い姿なんていらない。そんなの認めたくない。西垣涼哉は優秀でなければならない。格好よく、スマートでクール。そうでなければならない。挫折した自分は認めてもらえない。
それでも芦屋は肯定してくれた。苦しむ自分をなかったことにする必要はない。そんな言葉が沁みないはずがない。
「そうかな」
「私はそう思いたい。苦しんだのも自分だ、とかそういうことは言いたくないんだ。あの時の自分に顔向けできないじゃん。あの時の自分にもし『その苦しみがあなたを救う』とか『成長させる』とか言ったって全然嬉しくないと思う。だって死ぬほど辛いんだもの。そんな苦しい思いが後々役に立つからなんて言われたって、『何だよ、今救ってくれないの?』って思うよ。だったら、『苦しいか、そうか苦しいよね。苦しんでてもいいよ』って受け入れてあげる自分のほうが、私は信用できるかな」
私は、と芦屋は呟いた。
「救ってあげなよ。誰も……」
一際強い風が吹いた。湿った空気は芦屋の声をかき消してしまって後半が聞き取れなかった。
芦屋はすう、と深く息を吸った。
「もうすぐ雨が降る。早く帰ったほうがいいよ」
「え、いやでも今日天気予報じゃ降るなんて言ってなかったけど」
「天気予報よりも、今の自分の上にかかる雲見たほうがいいと思うけど」
見ると夕暮れの空に黒い雲が広くかかっている。さっきまで晴れ間が見えていたのに、あっという間に暗くなっていた。これは確かに一雨来そうだ。
「強い雨が降るよ。ゲリラ豪雨ってやつ。湿った匂いもしてきたし」
「するか?」
涼哉はすんすんと匂いを嗅いでみたが、川の匂いがするばかりでいまいちわからない。
「雨の匂いはわかる人とわからない人がいるらしいね。ま、どうでもいいよ。さっさと帰りな。傘ないでしょ」
「ああ」
まさか雨が降るなんて思ってもいなかったから傘なんてあるはずもない。濡れるのは嫌だから、さっさと帰ったほうがいいだろう。
涼哉はさあ帰ろうと踏み出し、振り向いた。そこにはまだぼんやりと空を見ている芦屋が佇んでいた。
「芦屋も早く帰れよ」
すると芦屋はいつも提げているサコッシュから水色の折り畳み傘を取り出した。
「これあるから。ある程度は大丈夫」
「用意がいいな」
「散歩のプロだからね。いいから、早くしないと降ってくるよ」
「はいはい。芦屋」
涼哉は芦屋の目をしっかり見て告げる。
「ありがとう。話聞いてくれて」
芦屋の言葉で涼哉は救われた。いつか落としていた思いを拾って、砂を払って、抱きしめることができた。
芦屋は何も言わず、手を振った。
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