有竣ゆうしゅんが世界で一番嫌いな人物は、常に不快な甘ったるい臭いを纏っている。


 珍しく周囲が闇に沈んでも執務室で筆を取っていた有竣は、漂い始めた香りに待ち人の来訪を覚った。待ってはいたが会いたくはない人物の接近に、有竣の眉間には自然とシワが寄る。


「これはこれは。随分とお待たせしてしまった御様子」


 ゆったりと部屋に踏み込んできた人物は、有竣の顔を見なくても有竣の表情が分かっているようだった。


 緑衣袍を翻し、卓の傍らに優雅に膝をついたその人物は、喰えない笑みを深めながら遅参を詫びる。


「宰相、がく催圃さいほ、ただ今御前にまかり越しました」


 その挨拶を無言のまま聞いた有竣は、椅子から立ち上がりざまに愛剣の鞘を払った。振り抜かれた剣の切っ先はピタリと催圃の首筋に添えられて動きを止める。


「……私をより長く帝位に就けておきたいならば、れん春華しゅんかには手を出すな」


 有竣の手元が少しでも狂えば。催圃がわずかにでも身動ぎをすれば。


 たったそれだけで催圃の首が落ちかねない事態に陥っていながら、催圃は浮かべた笑みを揺るがす気配さえ見せない。


「再三言っているはずだが。……お前は毎回都合良く、私の苦言を忘れるらしいな」


 その笑みだけで確信を得た有竣は、冷めた視線を催圃に注ぐ。


「お前、あえて春華に聞かせただろう」


 春華が後宮を飛び出し、ちょっとした冒険をしていたことを、有竣は知っている。その結果、有竣を狙う不穏分子がひとつ消え、有竣の治世はまた盤石さを増した。


 全てはこの国一番の腹黒狸クソジジイの思惑通りに。


「本当にあの御方は、貴方様にとっての幸運の女神だ」


 有竣の問いかけに、催圃が直接答えることはなかった。


 だが笑みを深めた催圃は、心底楽しそうに言葉を紡ぐ。


「彼女がいたから貴方様は帝位へ上り詰め、彼女がいるから貴方様の敵が消えていく」

「……っ」


 誰のせいだ、と叫びたい衝動を、有竣は今日も必死に飲み下す。


 そう、全ては三年前。


 全てを承知の上で、小さくて平和な世界での生活に満足していた有竣の前に、この老いぼれが姿を現したところから全ては始まった。


 


さい国皇帝になってはいただけませんか』


 初めて顔を合わせたのは、郷長である春華の父に従って商いに出た先でのことだった。


 そう声を掛けてくる人間が現れたことに、特段驚きはなかった。むしろ春華や春華の弟と勉学の席を離され、自分にだけ特別に帝王学や剣術の講義がやたら課されるようになった辺りで、いつかはこんな日が来るのではないかと思っていた。


 だから予測ができたからこそ、答える言葉に迷いはなかった。


『ならずとも、僕の世界はすでに満ち足りている。自分の権力闘争のために新たな王を立てたいならば、他をあたってくれ』


 血縁上の父の顔を、有竣は見たことがなかった。母の顔でさえろくに覚えてはいない。一番古い記憶は、誰とも分からない男に手を引かれ、廉家の門をくぐった時のことだ。


 だから皇帝の血筋だの何だのと言われても、実感もなければ欲も湧かなかった。


 廉家の人々は、みな温かかった。立場は下男だったが、大事にしてくれたと思う。


 特に春華は、気付いた時にはもう特別な存在になっていた。


 幼い頃は、妹のように大切に思っていた。春華は誰よりも幸せでいてほしい。それは幼い頃から有竣が春華に向けてきた気持ちの根幹だ。


 できれば春華の一番は自分がいい。自分の手で春華の幸せを守りたい。


 そんな独占欲と親愛の情の狭間で揺れ動く自分を自覚した時に、きっとこの気持ちは身内の情ではなく男女の情なのだろうとも思った。


 春華が幸せに生きる世界があれば、それでいい。その傍らに自分がいられるならば、それ以上は望むまでもない。逆にその世界から自分を引き離そうとする存在は、一律して悪だ。


『左様ですか。まぁ、無理は言いませぬよ』


 有竣の返しに、催圃はあっさりと引いた。


 今と同じように、喰えない笑みを顔中に広げながら。


『それでは、気分が変わりましたなら、いつでもご連絡くださいませ。私はしばらくこちらに滞在する予定ですからな』

『変わることなんてない』

『なんの』


 すげなく言い放つ有竣にも、催圃の笑みが揺らぐことはなかった。


『権力が必要になれば、貴方は乗るしかなくなるのですからな』


 その一週間後、廉家を宿にした県令が春華に目をつけた。


 決して県令の目に春華が入らないよう、有竣が念入りに準備をしていたというのに、だ。


【県令様が、私を嫁に欲しいって言い出したらしくて……】


 催圃の発言と笑みの意味が分かったのは、春華の口からその言葉を聞いてからだった。


 ──ハメられた。


 すぐに分かった。


 あのクソジジイだ。あのクソジジイが県令に何かを吹き込んだに違いない。


 春華を危機におとしいれることで、有竣が権力を欲するようになるように……全てを覆す絶対的な切り札に手を出さざるを得ない状況を作り出すために。


 有竣を皇帝の座に就けるために、あのジジイは春華に手を出したのだ。


『覚えておけ』


 里を飛び出した有竣は、その足で催圃の滞在先に向かった。肩で息をしながら登場した有竣の姿に催圃が満足そうな笑みを浮かべたあの瞬間を、有竣はきっと一生忘れないだろう。


『あの子の生活をこれ以上おびやかしてみろ。こっちはお前の首なんて簡単に飛ばせるんだぞ』

『生憎と老い先短い病持ちの老翁でしてね。死なんぞ今更怖くはありませんよ』


 ひとつ、取引をしようじゃあないですか。


 そう言って、催圃は不治の病の痛みを誤魔化すために吸っている、妙に甘ったるい香りがする煙草タバコ煙管キセルで吹かした。


『私が生きている間だけでいい。【貴方汪有竣】という存在を私にお貸しください』


 ようやく国の頂きに立てる瞬間がやってきた。自分は有竣という旗を使い、生涯の最期の時に頂上からの景色を眺めてみたい。


『お貸しいただけるならば……貴方と貴方の想い人が、何にも脅かされずに生きていける世界を用意して差し上げようじゃあないですか』


 取引のようでいて、実際は脅しでしかなかった。有竣が春華の生活を守るためには、その話に乗るしかなかったのだから。


 ──何が『誰にも脅かされずに生きていける世界をあげる』だ。


 そもそも有竣が傍にいさえしなければ。有竣が春華を『特別』にしていなかったら。


 春華はそもそもこんなことに巻き込まれずに、平穏無事な毎日を過ごしていられた。春華の『誰にも脅かされずに生きていける世界』を奪ったのは、他でもない有竣だ。


 だというのに。


【有竣は、どうして、私にそこまでしてくれるの?】


 あの無垢な問いに、有竣は答えることができなかった。


 むしろ、どう答えろと言うのだろう。有竣が人生の全てを費やしてあがなったところで、春華の平穏な世界はもう戻ってくることはないというのに。


 そう思っていながらも、もう自分は己から春華の手を離すことなどできない深みにまで、はまり込んでしまっているというのに。


「これからも、貴方様方には踊っていただかなくては」


 そんな沈み込んでいくかのような絶望感までをも、催圃はきっと把握している。


「私がここに居続けるために」


 催圃は指先で有竣の剣先を己の首筋からずらすと、いともたやすく膝を上げた。有竣が催圃を睨みつけたまま剣を引けば、催圃は無害を装った笑みを有竣に向ける。


「陛下もそろそろお戻りになられては? 妃殿下が首を長くしてお帰りをお待ちでございましょう」


 その言葉に、有竣はあえて答えなかった。表情も、まとう空気も、意図して一切を変化させない。


 そんな細やかな抵抗に軽く肩をすくめてみせた催圃は、緩く一礼をして部屋から去っていった。


 臣下達はすでに全員下がらせている。灯火で払いきれない闇は、こちらが押しつぶされそうなくらいに濃密だった。


「……ねぇ、春華」


 しばらくその闇を見据えてから、有竣は椅子の背に身を投げ出した。


 小さく大切な人の名前を呟いてみても、あの明るく伸びやかな声はここでは聞こえない。


「ここは狭くて息苦しい世界だね」


 今は無性に春華の声が聞きたかった。だが手元にはまだ書きかけの書類が残されている。


「それでも僕は、君に世界の全てをあげる」


 心が折れそうになるたびに呟く言葉を今日も小さく口に出し、有竣はもう一度筆を取る。


「だから、君の心のほんの片隅に、僕を少しだけ置くことを、許してほしい」


 切なる願いは、誰にも届かないまま闇に溶けて消えていく。


 そのことをきちんと確かめてから、有竣は書類に筆を走らせ始めた。



【了】

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