そのふみを見た瞬間、漏れ出る笑みを噛み殺すことができなかった。


 素っ気ない料紙に簡潔に書きつけられた召喚命令文は、見覚えがある筆致をしている。


 間違いない。あの小生意気な小僧の手跡だ。


せん蘊巍うんき様。急な召喚ではございますが、応じていただけますか」


 宵口、礼部尚書執務室まで皇帝からの文を運んできた年若い官吏は、深く頭を下げながら蘊巍に願い出た。その言葉に勝利を確信しながらも、蘊巍は平静な顔を崩さないまま傲慢に答える。


「ふん。仕方があるまい」


 蘊巍の返答にさらに頭を下げた文遣いは、身軽に膝を上げると先に立って歩き始める。その先導に従い、蘊巍は室の外へ踏み出した。


『誰にも覚られることなく、私の元に来い』


 文に書かれていたのはそれだけだ。だが今この折に蘊巍がこんな風に呼び立てられる用件などひとつしかない。


 ──これでようやく私の時代が来る……!


 まずはあの小僧を後見に使い、礼部尚書として王宮に権力地盤を作る。一度優先案件を任されさえすればいい。その事実がひとつあれば、後はあの小僧が死のうがくたばろうが知ったことではない。恐らくあの杯が良い仕事をしてくれるはずだ。


 ──夾竹桃きょうちくとうの毒は、中に入れられた飲み物にもにじむ。どちらに毒が盛られたかなど分かるまい……


 漏れ出る笑みを噛み締め、蘊巍は足早に廊を進む。


 そのせいで、気付けなかった。


「こちらです」


 先導の者が開いた扉の向こうへ考えるよりも早く踏み込んだ蘊巍は、数歩中へ進み入ってからようやくそこが皇帝執務室ではないことに気付いた。


 さらに言えば、己を呼び出した人物が、皇帝陛下などではなかったことにも。


「急に呼び出して申し訳ありませんでした、宣蘊巍礼部尚書」


 部屋にわだかまる宵口の闇を払うためだけに、万灯に火が入れられていた。その怪しくゆらめく橙の光の中に、フワリと淡い色合いの可憐な装束が翻る。


 その姿を単体で見ることは、蘊巍も初めてだった。の女狐は、常に皇帝の腕の中にしか姿を現さないから。


「な、なぜ、妃殿下がこちらに……!?」


 そこに待ち受けていたのは、当代皇帝唯一の寵妃として君臨する田舎娘だった。


 思わず部屋の中を見回すが、蘊巍を呼びつけたはずである皇帝の姿はない。さらに言えばここは後宮ではなく王宮の中であるはずだ。どう考えても妃が一人でここにいるのはおかしい。


 だというのに小娘は、小賢しくも袖元で口元を隠しながらたおやかに微笑んでみせた。


「あら。呼び出しの主が陛下であるとは、誰も言っていないはずですよ」


 自分の焦りが読まれている。こんな小娘ごときに。


 その怒りで我を取り戻した蘊巍は、咳払いで威儀を正すと強く小娘を見据えた。


 齢五十を越えた蘊巍に対し、小娘は二十も越えていない子供だ。さらに言えば、人生の大半を宮廷の荒波の中で過ごした蘊巍に対し、この田舎娘はつい最近まで片田舎で呑気に暮らしてきたという。


 ここまでくぐってきた修羅場の数が違う。


 その事実を胆力に変え、蘊巍は居丈高に小娘に対して口を開いた。


「いかに貴女あなた様が陛下に寵愛されていようとも、やって良いことと悪いことがあるはずだが?」

「そうですね。だから、手短に済ませようと思います」


 娘はスッと腕を伸ばすと、蘊巍と娘のちょうど中間にあたる空間を指差した。蘊巍が眉をひそめながら仕方なく視線を向けてやれば、そこには背の低い小さな卓が置かれている。


 その卓の上に載せられている物を目に入れた瞬間、蘊巍の喉はヒュッと嫌な音を立てた。


「飲みなさい」


 白木の、小さな杯だった。今その中には並々と水が注がれている。


 特徴的な白い樹液の跡。一般的な茶杯に比べて小さすぎる形といい、間違いない。


 この杯は蘊巍が献上品として送り込んだ、夾竹桃の毒杯だ。


「な、何を……」

貴方あなたが陛下に献上した品だそうですね」


 タラリと、こめかみを嫌な汗が伝っていくのが分かった。そんな蘊巍にひたと視線を据えた妃の顔からは、いつの間にか表情が消えている。


「随分と品だったから。褒美としてまず、貴方に使っていただこうかと」


 ──この小娘、なぜ気付いた……!?


 ブワリと背中に浮いた汗を、誤魔化すことができなかった。


 この物言いからして、恐らくこの小娘はこの杯が皇帝暗殺を意図して献上された品だと見抜いている。


 だがどこでこの計画を見抜かれたのか、蘊巍にはどれだけ考えても分からなかった。


 献上品の目録は宝物庫で纏められるが、その詳細はいちいち後宮まで伝達されないはずだ。杯の詳細はおろか、小娘には献上品の中に杯があるということさえ知るすべはなかったというのに。


「今、貴方にはみっつの道が用意されています」


 必死に逃げ道を探る蘊巍の耳を叩くように、不意にカツリと音が響いた。威嚇するようなその足音は、目の前の小娘が立てているものに違いない。


「ひとつ。己の潔白を証明すべく、この杯の水を干す」


 蘊巍は反射的に懐に腕を伸ばす。そこには護身用に匕首ひしゅが忍ばされている。


 だが蘊巍の指が匕首の柄を捉えるよりも、背後から伸びてきた刃が蘊巍の首筋に添えられる方が圧倒的に早かった。


「ふたつ。私に罪を告白され、陛下の愛剣の錆になる」


 動きを封じられた蘊巍は、視線を必死に背後へ飛ばす。そこでようやく蘊巍は、自分をここへ案内してきた官吏が、男ではなく女であったことに気付いた。


 ──まさかこやつ、陛下に仕えているという三つ子のの一人……!?


「みっつ。献上品を回収し、二度とさい国の土を踏まないことを誓った上で、国外へ逃亡する」


 蘊巍との距離をゆっくりと詰めた小娘は、途中で毒杯を取り上げる。雅やかな装束の袖で杯を包み込むように手にした小娘は、怯えと焦りを隠せなくなった蘊巍に笑みを向けた。


『女狐』という呼称にふさわしい、妖艶で冷酷で傲慢な笑みを。


「早く選びなさい。さもなくばこれを飲ませた上で、ここに陛下をお呼びするわ」


 私とこんな宵口に、密室で二人きりでいただなんて。


 陛下に知られたら、楽には死ねないわね。


 そんなどんな拷問よりも恐ろしい文句を、まるで小鳥がさえずるかのように女は口にした。


 その言葉の内容を理解した瞬間、蘊巍の背筋は形容しがたい悪寒に震え上がる。


 ──一体なんだ、この女は……!!


 皇帝の腕の中に庇われた小娘は、いつだってか弱く見えた。いつもいつも震えていて、皇帝の寵愛を失ってしまえば即座に死んでしまいそうなほど、存在も立場もか弱い、脅威になどなり得ない存在だと思っていたのに。


「残念ね。『狐狼』をたぶらかす『女狐』が、そんなにか弱いわけがないでしょう?」


 今、蘊巍の目の前で冷笑するこの女は、一体何なんだ。


 あの皇帝は、一体どんなバケモノを寵愛していたというのか。


「私に化かされた時点で、宮廷は私に負けているのよ」


 その言葉に、蘊巍は己がけたことを認めざるを得なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る