百奇百夜

@foi1991

一奇一夜 『新宿の地下通路』

ある夜の、ある奇しい噺。


 寝苦しい7月の夜だった。Aさんは目を瞑ったまま、タオルケットを押しのけた。つけたままのエアコンから吐き出される微弱な冷風が、汗で湿った彼の肌を冷やしはじめる。胸に張り付いたTシャツを、突っ込んだ右手で剥がしながら、チクチクと痒くなった肌を掻きむしった。


 ふと、彼の手が冷んやりとした何かに触れた。


『あれ…胸の上に、何かが乗ってる?』


 突然の異物感に、彼の意識は急速に覚醒し始める。恐る恐るその異物にもう一度触れてみた。すると、その質感と形に覚えがあった。


『これ、人間の手だ』


 彼は咄嗟にTシャツから右手を引き抜いた。すると胸の上の異物感が、逃げ出した右手を追いかけるように、彼の胸の上を這いずり回っている。

 金縛りにあったように動けなくなったAさんは、混乱する頭で前日の出来事を思い出していた。


 彼のバイト先は新宿にある大きな映画館だった。地下鉄の新宿三丁目駅には、とある大型書店に直接つながる地下通路がある。レンガ作りの壁に飲食店が複数立ち並ぶ、そこそこ人通りのある通路だ。そこを抜けて地上に出ると、目の前に彼のバイト先の入り口がある。

 その日もいつものように地下通路から地上へ抜け出そうとしていた。しかし、通路に足を踏み入れたAさんには、微かな違和感があった。平日の昼下がり、人で溢れかえる新宿の地下街で、その地下通路だけ不自然なほどに静まり返っていた。

 一歩引き返した新宿三丁目駅のメイン通路は、普段のように多くの人が行き交い、活気が溢れている。それなのに彼が進む通路からは、人気も物音もぽっかりと抜け落ちている。ただそれは、彼が足を止めるほどの違和感ではなかった。Aさんは一歩一歩、その静かな通路を進んだ。

 すると、彼の視界5mほど先の地面に、真っ白い人間の手が置かれていた。それは手首のあたりでスッパリと切り落とされた、真っ白い、おそらく成人女性の左手だった。

 目の前のそれが、白い手袋やマネキンのパーツか何かだろうと、自分に言い聞かせる時間もなかった。

 白い手が、突然動き始めた。ネズミが全速力駆けるような勢いで、白い手が床を這いずり、もうAさんの足元まで迫ってきている。彼は咄嗟に足を上げて避けようとしたが、足首をグッと掴まれた。冷んやりとした感触は、彼の足首、脛、太もも、腹、そして胸元まで一瞬で這い上がってきた。

 Aさんは声を上げることもできず、白い手に触られた感触の残る胸を何度も叩き、服の中からその手を追い出そうとした。しかし、服の中にはもう何もいなくなっていた。

 その場に呆然と立ち尽くす彼の周りには、いつの間にか人気が戻っていた。彼はなんとか落ち着きを取り戻すと、人波に乗って地上へと流れ出した。


 あの地下通路での出来事は、自分の勘違いだったと言い聞かせたはずだった。それなのに、今まさにあの白い手が、ベッドで眠る自分の体の上を這いずり回っている。彼はその手が、自分の胸や腹の上を行ったり来たりする感触を、息を殺して堪えていた。

 しばらくすると、冷たい異物感はなくなり、体が動かせるようになった。Aさんは部屋の電気を全てつけると、鏡の前に立ってTシャツを捲り上げた。胸から腹にかけて、無数の赤い腫れが浮き上がっていた。それはどれも、くっきりと手の平の形を残していた。


 結局その後は一睡もできずに朝を迎えた。Aさんはそのまま、バイト先の新宿へと向かった。いつものように、新宿三丁目駅で電車を降りる。気味の悪い出来事の後だったので、地下通路を通るのは止めようと頭では考えていた。それなのに、無意識のうちに体は慣れた動きでいつもの道順を進んでしまっていた。

 地下通路に足を踏み入れたとたん、彼はまた自分の胸のあたりに冷たい異物感を覚えた。


『また、あの白い手だ』


 一瞬彼の足が止まった。すると白い手の感触は、彼の胸から、腹、太もも、脛、足首へと勢いよく駆け降りて、通路の床に飛び出した。Aさんは息を飲んだまま、白い手が地下通路の壁に向かって這って行くのを眺めていた。白い手はそのまま、壁に吸い込まれるように消えていった。


 それ以来、Aさんはあの地下通路を使っていないという。ただ彼は、週に何度かその通路の入り口から、通路を通り抜ける人々のことを、ボーッと眺めているそうだ。するとAさんと同じように、足元に何かを見つけ、飛び上がっている人がたまにいるという。


Aさんは、少し意地の悪い笑みを浮かべながら教えてくれた。


「あの白い手は、無差別で歩行者に飛びかかってるみたいです。僕みたいに見える人もいるみたいですけど、ほとんどの人は、足を掴まれていることに気づかないまま、連れて帰っちゃってますね」

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