七章



 六嶺宮の一、東南の嶺宮・梨榮りえい宮では凶事に沈黙する本宮を尻目に連日酒宴が催されていた。


 当代宮主の冀翔思晟きしょうしせいは大の健啖家であり浪費家だった。抱える庖師りょうりにんは三十人、食べきれないほどの料理を大卓に並べ享楽にふけり美酒を振りまき下僕たちにも強飲する。慣れた者ならば主の機嫌を損なわない程度に盃を受けつつほどほどの加減が出来るのであるが、いなし方を知らないまだ若い侍女や下官などは必ず潰れてしまうのが常だった。

 今日もそうして何人かが引き摺られていき、まばらになった餐庁ひろまで完全に酔いが回った思晟は隣の駙侯を押し倒した。ぼろぼろの長姉を巧みに言いくるめてついに手に入れた、初めて見た時からずっと欲しかった男だ。

 自らの紐を解く。平脅ふくよかな体つきは妖姿媚態、足の裏まで曼膚なめらかで傷一つない珠肌たまはだは見る者を惑わす。男の手を引き、自身の張りのある胸に押しつけた。


「あたくしを好きになさい。子が生まれればお前は国父よ」


 臣下たちは扉を閉めて出て行く。彼女はに関しても大変な暴食だった。本宮ならまだしも、自宮でまぐわうのに衆目など弁える性分ではなかった。



 控えの間まで戻ってきた家令はしかし駆けてきた下女の報告に息つく間もなく慌てて門へと出向く。客人はすでに前殿に入っていた。


「姉上に用があるのだが、取り次ぎ願えないか?」


 柔和に笑う妹君に老官はしどろもどろに手を擦り合わせる。その様子を鼻で笑い、奥に視線を流す。

「相変わらず食いしんぼうなひとだ。とはいえ、悠長に待っていられない。よいよ、話だけでも聞いてもらおう」


 平伏する侍官たちを置きざりに宴のの外に立つ。馬鹿みたいに甲高い嬌声に閉口した。

「思晟姉上、乙琳です。少しお話があるのですが」

 激しい息切れと共に切迫した悲鳴と禁ずる声が響いたがこちらに対してではないと了解して構わず開けた。散らかした碗と皿の向こう、裸で男に馬乗りになり恍惚の表情で天を仰いでいた姉は、次にはぐるりと頭を巡らし訪問者を睨んだ。

「ばかなの、乙琳は!」

「ひと段落ついたところでは」

 やれやれと適当な椅子に腰掛け、手近の酒瓶を引き寄せた。「あぁん、もう!」

 髪を掻き上げ中断された怒りを表し、駙侯に覆いかぶさり音を立てて口を吸うと立ち上がる。

「何の用なのよ!あたくしはねぇ、いま国の未来をつくっているのよ、お分かり?」

「大変失礼しました。まさかこんな真っ昼間にとは思わなかったので。出直すのも手間ゆえ」

 思晟は名残惜しそうに駙侯を退らせ、差し出された酒杯を一気に呷る。

「で?なぁにそのかっこう。醍亜姉上みたい」

 髪をひとつに括り動きやすそうな武官姿の乙琳は脚を組み微笑んだ。

「まさに真似事ですよ。それに体を動かすと寝つきが良いのです」

「あら、べつに鍛錬である必要はないわね。それで?あたくしの楽しみを邪魔してまで何?」

「姉上は今のこの国をどう思われますか」

「はぁ?」

 思晟は理解し難い、という顔で呆れ再び妹を睨んだが、そちらは回答を待って淡々と酒杯に口をつけた。

「なぁによ、急に。いったいどうしたのよ?」

「……姉上。骨蓉はどこから来たのだと思います?」

「どこから、って咲歌の侍女が手に入れたのでしょお?あれ自体は珍しくもなんともない草よ。城下に行けばいくらでも生えてるわ」

「姉上はあの香円という侍女が全てを企てたと本気で思っておられるのですか」

 思晟も胸の下で腕を組んだ。「宜漣宮は実質全てその子が差配してたのでしょ?ならもっと下っ端にも顔は利いたはずね。別に宮外から何かを手に入れるのは難しくないわ」

「しかし後宮に持ち込むには厳しく検めがある。それに、案珠姉上の御膳は絶対に毒味をしたはずが、膳夫ぜんぷは異変に気づけなかった」

「まあ、そりゃあ男だし月の障りどころか妊娠なんてするわけないし」

「丹念に阿膠にまぶされていた。しかし一箱、両手に抱えるほどもある量の中に満遍なく混ぜ込むというのはわりと手間がかかると思いませんか?香円が別々にそれらを手に入れたとして、ほとんど片時も宮から離れられなかった彼女にそんなことをする暇があったでしょうか」

「……つまり外に協力者がいたと言いたいの?」

「そう考えるほうが自然ですし、現に城下のどの薬屋を調べても大量の骨蓉を売った記録はないと聞きました。その辺のを摘んでいた目撃情報も無い。昼に限らず、夜間市内を巡回する金吾きんご兵さえ怪しい者は見ていない。鱗族についてもおおかた調べさせましたが手がかりなく」

「宮内の官吏だって全て諮問されたわよ。鱗人にかぎらないわ。あたくしの泉民の婢女はしためだって泣きながら帰ってきたもの。でも香円や宜漣宮と関わっていてもいなくても、特に妙な動きをした者は見つけられなかった。族主がわざわざ来て泉主に詫びたのでしょ?青雲士の任用の縮小と交易制裁も受け容れたそうじゃないの。鱗族自体はなんの得もしてないわよ?」

「その通りです。まあ、彼らの内情は私たちにはあずかり知らぬことなのですが。それはひとまず置いておき、姉上のご意見を頂戴したい。問題は我ら七泉朝廷とこの王家の行く末のことです。今回の件で罪人の死と公主への処罰によりひとまず事態は収束しますが、私が大変に危惧しているのは一連の、いいえ、今までも含めての、諸官のまつりごとに対するやる気のなさと適当さです」

 思晟はつまらなさそうに頬杖をついた。「大罪人の裁きを泉主の御前で行う詔獄しょうごくにはせず、決を下す前に死なせたこと?」

「近年泉主が塞ぎ込み執政が停滞しているのは無理からぬこと。しかし三公はじめ百官まで端々に億劫そうな倦怠感と妙に物事を楽観視する気風が見受けられます。大罪人とはいえ扱いはもっと慎重にすべきでした。規律が緩んでいるせいで看守たちは本来の職責から大きく逸れて苛烈な私刑に走りがちです。特に鱗族に対しては言わずもがな。族主が香円の重大な過失をみとめたから良かったものの、粗雑な投獄について訴えこじれればどうなっていたか。それなのにもう一段落したかのようなこの雰囲気。国府と朝廷はいつのまにか律と法に関して信じられないほど杜撰に軽率になっている、と言わざるを得ません」

「それが?」

ただされねばなりません。この国は今存亡の危機、一致して荒波に対処していかねば次期泉主がお生まれになり王位を継承してもみっともない態勢に失望なさるか、迎合して昏君こんくんになるだけ。今こそ諸官の汚濁おじょくと腐敗を一掃し宮に新しい風を吹かすのです」

「回りくどいわ。つまりなによ」

「姉上には、この国の未来そのものになって頂きたいのです」

 乙琳は自分の胸にぴしりと手を当てた。

「今現在、国母にもっとも近いのは思晟姉上です。こうして言っているうちに、すぐ太子を産み参らせられる。その為に乙琳は惜しみなく協力します。あらゆるしがらみやわずらい事はこの私にお任せ下さい」

「…………」

 思晟は妹の微笑みに眉をひそめ、唇を押した。

「……あたくしに何を黙っていろと?」

「黙認ではなく積極的な提携を求めます」

「あたくしを次期泉太后せんたいごうに据える代わりに、味方に付けと言っているのね?」

 話が早くて助かります、と杯を干した。



「案珠姉上には身罷みまかって頂く」



 沈黙が満ち、思晟は噴き出した。

「あのままではなにもしなくてもそのうち亡くなられるわぁ」

「どうでしょう。案珠姉上は今代第一の泉根で責任感の強い方だ。おそらく全ての望みを醍亜姉上に託し自分は縁の下の力持ち、後援になろうとしておられるのでしょう」

「王家にとってはもう用無しよねぇ」

 思晟は優越感に高笑う。「今まであれほど長女だからと高められて威張ってきて、結果このざまよ。いい気味」

「醍亜姉上も妹の甘言なぞには落ちません。軍兵に名を轟かすあの方は規律と秩序を頑固に重んじ常に泉主と案珠姉上に忠実にお仕えしてきました。それは揺らぎようもない」

「ふぅん。それであたくしに肚裡はらの内を明かしているというわけね?」

「思晟姉上は明るく快活で臣下にもよく慕われており、民の間でも人気がございます。第三公主とて泉太后へおなりになるのに嫌がる者はおりませんでしょう」

「けれど乙琳。それは案珠姉上だってそうよ?いくらこんなことになって荒れていようと基本は常識人で分別のある方だもの、すすんで王太女の位も醍亜姉上に譲るでしょう。わざわざ手をかける意味があるのかしら」

「――私はついひと月ほど前、落血の儀をして参りました」


 平然と宣言し、二杯目の酒を注いだ。今度こそ唖然として戻れない姉を見返す。


「いま……何と言ったの……?」

「王位継承を黎泉てんへ請願したと申し上げました」

昇黎しょうれいを乙琳が⁉何を馬鹿なことを」

 身を乗り出し、――――真の意味に気がつき虚脱した。震えが足許から全身へ伝染する。

「…………うそ…………では、」

 まさか、と手で口を押さえながら妹を凝視する。乙琳は再び話し出す。

宗正府そうせいふによれば王位継承権を持つ全ての泉根男子は班位はんいにかかわりなく昇黎しょうれい資格を持つ。実際の行為者が本人でなくとも捧げた血がふさわしく正当であれば陰譴ばつくだらない。血の持ち主がたとえ次王でなくとも同様。しかし、資格のない血が昇黎すればその者は見えない神雷いかずちに撃たれ命を失う」

「案珠姉上の――」

 小さな悲鳴をあげた思晟に対し真顔で頷いた。

「――――胞衣えなを天水盤に献じました」

「……なんてことを……まずどうやってあの厳重な北壇ほくだんの鎮護兵を掻い潜ったの」

眉蘼びびの手を借りたのです」

「眉蘼……話が見えたわ。宮医とも懇意にしてるあの子なら姉上の流産に駆けつけた医官を手懐けて後産あとざんを持ち出すのは難しくない……」


 さまざまな薬の調合や煉丹れんたん、摩訶不思議な実験が趣味の六女は秘儀を行うと主張してたびたび儀式場である北壇にも行き来していた。おそらく兵士たちはいつものこととしてなんの疑いもなく持ち場を離れた。


 でも、と思晟はやや非難する眼を向けた。「どうしてそんなことを?」

「どうして?」

 乙琳は瞬き、まるで姉に冗談を返されたとでも言うように両手を挙げてみせた。

「機会が巡ってきたからです。私もはじめは話半分でした。文献を読み漁り仮定を確信に変えた論考を披露したが、誰にも相手にされなかった眉蘼が私ならばと開陳してきたのです。つまり、継承資格があるのは古来より泉根男子と定められているが、男子が全くいない場合の次王位の選別はいったいどうなるのだろうか、と。過去幾年いくとせ、泉根男子が全くいないという状況は一度たりともありませんでした。それはこの大泉地の泉国九国どの王朝においても、元初から今日まで女の王がったためしなどない。継承に失敗した国はすべからく黎泉の加護を失い泉を涸らした。八泉はまだマシですが、三泉の噂を聞けば内状は相当に悲惨なものとか。しかし二国とも、かつての王家は残っているのです。つまりは黎泉に見放された時点でも王統系譜に連なる者はいたわけです」

「けれど公主が昇黎した実例なんて全くないはずよ」

「だからこそ試すべきだと眉蘼は結論しました」

 そんな、と絶句した。それを真に受けたのか。乙琳は肩を竦めた。

「それほど奇特な発想とは思いませんでした。言われるまで深く考えたことはありませんでしたが、むしろとても興味深い。考えれば考えるほど天というのは分からない。何が寿ことほがれあるいは忿怒ふんぬを買うのか、我々はこの寰宇せかいにはじめに公布された泉柱せんちゅうという大不文律でしか知り得ない。残るは先人の記録や経験によってのみ。一度もおこなったことのない事象は身をもって確かめねば、天は結果でもってしか正誤を与えてくださらない。なら、やってみるしかありません」

「そんなもの、結果など分かりきってるではないの!いくら泉根といえ、公主の血よ⁉案珠姉上は確実に死ぬわ」

「ええ、通常ならば案珠姉上は薨去こうきょなさるはず。…………しかし…………」

 乙琳は一度俯き、目線を上げた。


「ここからは眉蘼の予想が当たった場合の話です」


 了解をとるように窺い、話し始める。

「――このひと月、案珠姉上は流産でお弱りなもののこれといって命に別条なく過ごされております。それにおそらく落血に成功なされたようで。なれば、」

「ちょっと待って!それなら、死ななかったのなら、姉上が王……」

「いいえ。そうではありません。昇黎した後に罰がくだらないからといってその者が王というわけではない。黎泉に指名されれば神勅しんちょくが与えられ国に瑞祥ずいしょうしるしが現れます。もし案珠姉上が死なないならば、王では有り得ない。――しかし同時にそれは昇黎を認められたことにもなる。つまりは継承資格がある方だったという証になります」

「そんなこと、有り得るの?」

「昇黎したものの王ではなかった泉根男子の場合と同じということです」

「いつ分かるの」

 顎に手を当てた。「これまでの記録では七泉の降勅こうちょくはおおよそ昇黎してから二月ふたつき前後。今回もそう、とは断言出来ませんが、前例通りと考え、もしもあと一月経って案珠姉上に何も起こらなければ」

 稀有に満面の笑みを浮かべた。

「それは大変に喜ばしいことです。それはつまり我々にも継承資格があると天が看做みなしたということに他ならない」

 思晟は目を大きく見開いた。乙琳は立ち上がり、卓を回ってひざまずく。


「もうお分かりですね、思晟姉上。姉上にはこの上なく素晴らしい可能性がある。泉太后、はたまた七泉国王、ややもすれば――上帝位。この世のすべての者の頂点に立つ、極みない大王母です」


 手を取って口づけてきた妹に、しかし姉はまだ懐疑の念を消さない。

「なら、それはあたくしだけの可能性ではなくてよ。胸算用に期待なんてしたくないけれど、案珠姉上がもし眉蘼の言うようになったのなら、あなたにだって降勅こうちょくの見込みはある。それに、あたくしの前には醍亜姉上がいるわ。継承は基本として長幼の序列、それが覆るのは越位えついにおいてのみ。そうそう起こることではないわ」

「起こせばいいではありませんか」

 あっさりと言い切った乙琳はすく、と立ち上がり今度は見下ろした。

「醍亜姉上にも生を終えて頂きましょう」

「あ、……あなたいま、何を言ったか分かっているの⁉それにそうなったらあなたはあたくしも殺すのではなくて⁉」

 掴みかかられて乙琳は目を伏せ首を振った。

「それは有り得ません、思晟姉上」

「信じられないわ!」

「私は生涯、子を生むつもりはありません。玉座にも興味はない」

 静かに言い切り、固まった顔に微笑む。

「ただ、いずれ光来する泉主の摂政せっしょう位に私を就けてください」

「摂政位に…………」

「まこと、女とは生きにくいものです」

 乙琳はゆっくりと思晟の手から離れた。

「公主というご自身の立場と今の生活を謳歌しておられる姉上には理解出来ないでしょうが、生まれてから死ぬまでほぼ宮に閉じ込められ全てを決められて生きる公主など生けるしかばねです。己の力を限界まで試す機会もなく蜜湯に漬けたように甘やかされ何も知らぬ無垢のまま育てられる。周囲は何も知らなくていい、知恵をつけなくていいと言います。男は言うのです。われらがさかしらになれば反抗し不要な波風が立ち世を乱す。女は馬鹿で弱いまま、家に尽くし子を産み育て、そうして死ねば良いと。……我々は一体何でしょう?着せ替え人形ですか?子孫を殖やすための水袋でしょうか?本能であり必要不可欠だと言い訳する快楽を感じるための、気持ちの良い穴ですか?おんなとは何でしょう、思晟姉上。私は私が何者なのか、いまだ分からない。なぜならまさに今述べたとおり、天にとっては泉根を生み出し国を継続させていくだけの素材、道具にすぎないからです。有用であると考えれば少しは誇りを持てましょうか。天帝はなぜ女にわざわざ自我を植えたのでしょうか。私たちが鳥や魚のようであれば、男にちり紙のように使い捨てられても嘆くことも心を病ませることもなく、これほど惨めな気持ちにならずに済んだのに。そして、男にしか与えられない特権を僭越にも欲しがったりしなかったでしょう」

「…………あたくしは、そのように思ったことは、なくてよ」

「そうでしょう」

 背を向けた乙琳の表情は分からない。

「姉上はこの鳥籠の中で許されるあらゆることを楽しんでおられる。外のことに目を向けても手は届かぬ致し方のないことと割り切り諦めておられますから、憂いなぞないでしょう。……ですが、籠は今、ほころんでおります」

 見つめる先で、透き通るみどりの髪を陽にきらめかせ振り返る。


「外を覗いてみませんか、思晟姉上」


 見られるものなら、そこがいったい、どんな景色なのか。


 思晟は目を細め、それから息をついた。散らかした大卓を眺め渡す。

「……外には今まで食べたことのないものがあるかしら」

「もちろん。とてつもなく美味で珍味な料理が山ほどございます」

 ご覧に入れましょう、と差し出した手に、まったくしょうがない、と肩を竦め同じものを重ねた。




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破軍姫王 合澤臣 @omimimi

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