六章



 動きがあったのは翌日のことだった。咲歌が食欲なくいたずらにさじで粥を掻き混ぜていれば涼永がキビキビと入ってきた。

「姫さま。ご出御しゅつぎょの命がありました」

「え……」

 あの日の裁判じみた糾弾の記憶が甦り青褪める。ついに判決が下るのだろうか。

 しかし涼永は首を振った。

ひるに鱗族の使節がおいでになります。是非姫さまともお会いしたいとのあちらからのお申し出でございます」

「あ、合わせる顔なんてないよ」

 言ったものの断れはしない。せかせかと下官たちが準備しはじめる。咲歌は淳佐の裾を引いた。

「どうしよう」

「あちらが会いたいと言ってるんです。姫さまは何も悪くないのだから堂々としていればいい」

「一緒に来てくれるよね?」「もちろん」

 しかし涼永は再びいなを唱えた。

「使節とは姫さまお一人でとの泉主のご指示です」

「な、なんで……」

「会うのは殯屋もがりやです」

「おい、姫さまを不浄の場に入れるのは許さんぞ」

 顔をしかめた淳佐が食ってかかったがさらに書面をかざした。

「少しの間だけだ。使節はその後泉主と謁見なさるから」

「とはいえ、護衛も付けず」

「出入口には立つ。姫さまと会見するのはあちらも一人だけだ」

「それは、だれ?」

 緊張した咲歌の問いに淳佐はまさか、と呟く。涼永は頷いた。

族主ぞくしゅ。鱗族の王です」



 咲歌は短い時間で用意しなければならなかった。そもそも会見は急遽決まったことらしく、下官たちも寝耳に水でひっきりなしに行ったり来たりしている。

「殿下、よろしいですか。今から必要最低限の挨拶の仕方としきたりを覚えてください」

 公主侍講じこうが慌ててやってきて衝立ついたての裏でまくし立てる。

「はじめは跪礼きれいなさいますよう。しかし朝覲ちょうきんのようにぬかづく必要はございません。膝立ちあそばして叉手さしゅするだけでようございます。泉主と同じく不躾にご尊顔を見上げないこと。また、殿下も円扇おうぎでお隠しになってくださいませ、そして…………」

 咲歌は着付けられつつ懸命に頭に叩き込んだ。帯を巻かれながら気がついたが、これは衰衣もふくだ。全てが白い。一気に憂鬱になった。会って何を言えというのか。あちらは詫びを求めているのだろうから精一杯頭を下げる気持ちはあるが、責め立てられたらどうしたらいいのだろう。しかも一対一で。本当にもしも……危ないことがあったら、淳佐は間に合うだろうか。


 不安に俯いてしまい何度も叱られ、断る暇もなくしっかりと全ての髪を頭上で結われた。今までと違うきついひきつめは、そのまま傷心に拍車をかけて胸の疼痛に変わった。





 殯、つまり遺体の安置場所とは貴賤によりもちろん等級があり、貴人は殯宮もがりのみや、または斎庭ゆにわという定められた場所がある。一方、罪人やの遺骸は宮内では外朝の端、家畜小屋の並ぶ一角の狭い、咲歌からすれば盧舎あばらやのようなところに集められていた。安置した場所を総じて殯屋もがりやと呼ぶのであった。


 咲歌の出御は徹底的に隠された。人払いをし羽林の護衛に固められつつ粛々と輿こしで運ばれ、ともかくも外見は掃き清められた掘っ建て小屋の前に降り立つ。透けた円扇の向こう、その中の比較的大きな舎屋の前にはすでに白い影が二つ立っていた。自分と会うのは一人ではなかっただろうか。そう思いつつも失礼なかろうという距離まで近づき、毛氈を敷いた上に膝を折った。

 礼をして、声をかけられるまでは発言出来ない。じっと体勢を崩さずにいれば近づく気配があった。

 くつまで白い影が咲歌の視界のすぐ上までやってきて裾をひらめかせ止まる。


「…………七泉国第七公主、関星かんせい瑞嶺君とお見受けする」


 静かで落ち着いた声だった。一瞬息を飲み、返礼のため口を開く。

「お初に、おめもじつかまつります。り…泉客せんかくなるおん族主。拝顔の栄たまわりまして、望外に存じます」

 使節の前では鱗族とは言わず敬意を込めて泉客と呼び習わすこと。絶対に、としつこく繰り返された。そんなことさえ初耳だった。香円は何も言わなかった。

 たどたどしい挨拶をじっと聞いていた相手は目の端でまた揺れた。「私は貴君の主公しゅこうにあらず。覆いも不要」

 それで立ち上がる。おずおずとへだてを降ろし、相手の胸あたりまで頭を上げた。毎日のように見惚れていたのと同じ、つやの一切無い乳白色の長い髪に、純白の衰衣。

「鱗族族主、檀澔辛タンホシンと申す」

 予期せず名乗られ咲歌は慌ててもう一度手を重ねた。

冀翼きよくでございます」

「話に聞く通り清らかなる水乙女であるな」

 だが今は顔色悪く、気丈にしつつも目を泳がせ怯えていた。少女は問いたげに目線を上げてくる。

「文でよく伺った。あれを大変可愛がって頂き、そして大層な世話をかけてしまった。お詫びする。貴君は今回引き起こされたみにくたらしい企みとは毫末ごうまつも関わりのないことはこちらからも泉帝に忠言いたす」

「……も、もったいないお言葉です、鱗公りんこう……」

「もう少しだけお付き合い願えるか」

 手を差し出されて心の臓がひっくり返ったのかと思うほど仰天した。白魚のようだが、香円のものとは違い節立って大きい。

 乗せていいものだろうかとたじろぎ、しかし、ままよ、とそっと触れる。力を入れず引かれついに直視してしまった。

 長く白い睫毛に縁取られた黒眼には細かな光が散る。涼しげなまなじりと軽く閉じた唇。どちらも同時に動いた。

「後ほどけがれを落とさねばならぬようだが、中へ入っても?」

「は、はい」

かたじけない」

 妙齢の族主はもう一人に扉を開けさせいざなった。「せん立って間違いなく本人であることを私もあらため、蓋を閉じた」

 ひんやりとした冷気に迎えられ、殯の間に立つ。両端には氷の塊を入れた桶が並び、正面にはひつぎがありすでに白と黒の布が掛けられている。

 澔辛は手を離し前をじっと見つめた。

「――澔香ホヒャン、宮では香円。幼い頃より才に恵まれ気立て良く優しい人気者だった。殿試に十二で受かり湶后せんごうの宮付きにまでなったのは今も昔もこの者だけ。我ら鱗族の誇りだった」

 聴きながら端に控えたもう一人が悲しげに項垂うなだれる。澔辛はさらに、ごく静かに呟いた。

「そして私にとっても、自慢の妹だった」

 咲歌は愕然として無意識に半歩退さがった。

「鱗公の、妹さま…………」

しかり。波風立つのは本意でなく登殿してからこのかた、泉民には誰にも明かしておらなんだ。亡骸を返してもらえるのもその立場ゆえ特別に。私ははじめ、妹の宮仕えに反対だったのだ。しかしどうしても外へ出たいと頑固でな」

「ヒャン姉上は私たちの憧れでした」

 付き添いが声を絞り出した。「宮での生活がとても充実していると文にいつも書いておりました。公主殿下にお仕えできて幸せだと…………」

 はらはらと涙を零す。

「なぜ、なぜ、ヒャン姉上を守って下さらなかったのですか⁉」

「やめよ」

 澔辛が首を振ったが若い男は悲愴に顔を歪めせきを切ったように訴えはじめた。

「ヒャン姉上はたしかに宮の財物を盗み許されざる罪を犯しました。ですが骨蓉こつようについては全く知らなかった。それなのに殿下や一族を守るために全ての罪をかぶったのです!どうして……せめてなぜ、訊問じんもんのあいだも水を与えるよう進言して下さらなかったのです?三日も経てば死んでしまうのをお分かりだったのでしょう⁉それを七日耐え忍んだ姉上は静かな終わりを迎えることもできなかった!渇きに苦しみ抜いて死んだのです‼」

 公主が震えあがって口を押さえたのを見て澔辛はさらに手で制す。

「瑞嶺君とて何がしかの処断を待つ身なのだぞ。庇えば庇うほど危うくなったろう」

「窃盗だけなら、せめて命は助かったかもしれません!それにこれは許されざる盟約違反による獄死です!罪人といえ決が下るまで然るべき対応がなされるはずなのに、看守が不当に辱めしいたげていても上役は見ぬふり。七泉は腐敗しております!」

 言い切った途端、目に見えない速さで青年は盛大に吹っ飛ぶ。痛ましい音が空間に響き渡った。

「たとえそうでもここで責め立てることではない。……外で待っていなさい」

「叔父上、」

「出なさい」

 泣き続ける彼は咲歌を睨み据え吐き捨てる。

「なにが清らかなる水乙女ですか。殿下は忠を誓った臣下を使い潰した鬼女にほかなりません」

 涙を散らしながら駆けで、扉は激しい打ちつけをとどろかせて閉まった。

 澔辛は苦悶の表情を浮かべ深く息を吐く。咲歌も混乱のまま半泣きになったが、男が落としていった水滴を呆然と見つめた。

「大変失礼した。どうしても同行したいと聞かず、やむなく連れてきたおいなのだが……」

 視線を追い、ああ、と頷いた。「なぜ月明珠げつめいしゅになっていないのか、と?」

「あ、ええと」

「鱗族のなかにも能力の差異がある。全てが全て水のなかに棲み、なみだたまに変えるかというとそうではない」

「そう、なのですか……」

「我らは七泉帝の慈悲に縋り水を享受している。その恩を決して忘れぬために珠を納め力ある者は宮に仕えてきた。この六百二十年間」

 澔辛はそっと柩に手を置いた。

「……貴君はなにゆえヒャンを手元に置いてくださったのだ?ふつうは皆、遠慮か侮蔑か距離をとるものだが」

「……香円をはじめて見たのは、大母上さま…湶后せんごう陛下が招いてくださった宴の席でした。そこで優美に箜篌くごを奏でる姿にわたくしめが、その、一目惚れしてしまい…………」

 それでせがみ倒して自分付きにしてもらったのだ。

 思えば、と唇を震わせた。あの場で欲しがらず、ただ眺めてでるだけにしていればこんなことにはならず、今もたまに訪ねて穏やかに茶を飲み交わしていたのかもしれない。

 嗚咽おえつが抑えきれなくなりしゃくりあげた咲歌に澔辛はついぞ声を荒げなかった。

「お泣きめさるな。舟旅に嵐はつきもの、七泉とて順風満帆とは言えぬ苦難の時代。我ら鱗族は貴国とより良い共存の仕方を模索し、互いに富んでいかねばならぬ。それは心においても。命の泉を涸らしては元も子もない」

 まともに返せもせず、ただ頷くしか出来なかった。





 家中は悲しみに暮れている。青暗い廊下を渡り奥の院まで来れば、かた…、ぱしん、と断続した音が響いていた。出処の房間へやの前で足を止める。

「……姉上」

 音が止まった。


「…………お入り」


 戸を開く。室内の半分を占める巨大な織機を前にして座った姉は水明かりに照らされた白い頭を上げた。

類離ユリ泉畿みやこはどうだった?」

「どうもこうも最低最悪でした。姉上は来なくて正解でしたよ」

 弟が憎々しげに返すと姉は俯き、再び手を動かす。

「もう少しで終わるから先に行っていて」

「途中でもいいではないですか。どうせ一緒に燃やすのですから。もったいのないことを」

 姉は黙っていた。を渡して規則的に詰めていく。いくらもしないうちにぱちりとはさみで糸端を切った。

 織り上がった綃紗しょうさは純銀。わずかな光にも燦然と輝く見事な一反だった。

「ヒャン姉上には、請雨までに新しいものを仕立てて贈ると約束していた…………」

泉人やつらが殺したのです」

「やめなさい。そもそもは誰が毒を混ぜ込んで送ったかが問題。当主はすぐに大会議を開かれる」

「当主はお優しすぎます。だから我々は泉人に舐められる。ヒャン姉上の仕えていた公主に会ったのですが、なんとも虫唾むしずの走る奴でした。自分だけが被害者とでも言うような顔をして詫びもしない。なんであんなのにヒャン姉上が頭を下げていたのかまるで分かりません」

「やめなさいと言っているのよ」

「自分の妹が恥辱に甘んじ死んだというのに叔父上は怒りもせず、いつも泉人の顔色を窺ってばかりで頼りないことこのうえありません。父上が毎回諫言かんげんなさってもまるで聞き入れてくださらない」

 やはり、と歯噛みした。「父上こそが当主を継ぐべきだったのです」

「滅多なことを言わないで、類離」

「姉上!姉上だって分かっているでしょう?叔父上が戴冠してからというもの我々はますますさげすまれ不当な扱いを受けている!先代は力を持ち太守たいしゅたちにも威厳があった。なのに今はどうです?」

 ひざまずき、布を撫でる姉の手を取った。

「父上は我々の権勢を取り戻そうとしておられます。どうかこの御手みてをお貸しください。姉上の能力ちからはかつてないと皆褒め称えているのです。どうか期待に応えてやってください」

「……ちょっと待って。おまえもしや……」

 ぎらついた瞳をまじまじと見下ろし姉は自身の予想に身震いした。

「まさか……」

「…………」

 すっ、と弟は立ち上がり背を向けた。

「もう限界です。我々こそが水をきよめ水に愛される水の民。どうして悪逆無道の泉人に媚びることがあるでしょうか。姉上、あなたは特別なお方です。なれど日がな一日中そうして気ままに過ごすことはもう許されません。仮にも二つとない天命のもとに生まれた、その責務は果たさねばなりません。葬儀が終われば父上もいらっしゃいます。どうか賢明なご判断を」

「待ちなさい、類離!それは――」

 みなまで言わないうちに弟は白い衣をたなびかせて消えた。





 城下のみちを行く影がひとつあった。被った笠を押さえ一目散に走る。何度か立ち止まってきょろきょろと振り返り、人気ひとけのない廟堂びょうどうまで来ると息を整える。短い階の上の扉は当たり前に閉まっていたが、ひとまず手を重ねて腰を折った。


「泉国の神を崇めてどーする」


 突然の声に振り返ると軒下に腕を組んだ男がいた。


「大姉上は敬意を示せとおっしゃられた。俺もそう思う」

「あちらはむしろ敵意を向けてくるのに?」

「水を与えてもらっているのは事実だ」


 言えば息をついた。お優しいこった、と唾を吐き、暗がりから歩んでくる。

 同じように笠を傾けて近くに立った。目から下は覆われて感情がわからない。

「第七公主に沙汰が下る。始めよ、とのお達しだ」

「で、でも、ヒャン姉上はもういない」

「あいつには申し訳ないことをしたけどもな、全てを明かしたところで素直に従ってくれたかは分からなかった。いなくなっちまったもんはしょうがねえ」

「そんな行き当たりばったりな」

「はぁ?いいか、俺たちは泉根を潰しちまったんだ。もう後には引き返せない。分かるだろ?」

 ごくり、と生唾を飲み込んだ。

「あ、姉上はなんと言ったんだ。類離ユリが説得すると聞いた」

「案の定反対なさったとよ」

「やっぱり……」

「無理にでも協力させるがな」

「だめだ!」

 ほぼ反射で出た禁止に男はわらう。「お前たちはほんとに、ねぇやのことが大好きだな。扱いやすくて助かるが」

「姉上を苦しめるようなことをすれば俺も手を切る」

 途端、胸ぐらを掴まれた。笠の中からぎらつく双眸が刺す。

「手を切る?今更そんなこと出来ると思ってんのか?」

「当主に言いつける」

「はは、やってみろ。日和見ひよりみ主義に言ったってなーんも変わんねえ。計画はすでに滑りだした」

 それに、と続ける。

「制裁でこのふた月の間に青雲士は三分の二が罷免され、来年から殿試はますます狭き門になる。生き残ってるやつがまだ多いうちにやらなきゃならん。つまりはお前の力が要るんだ」

「俺は伝鳥とりになるために国府に仕えているわけじゃ」

 ない、と言い募ろうとして、さらに顔を近づけられた。笠と笠がぶつかる。

 男は鼻と口を覆った布をぐい、と下げた。白い肌に浮かぶ痛々しい傷に怯える。

「お前は一族の為にここにいる。そーだろ?泉人あいつらが俺たちに何をしてきたか、澔香ホヒャンにどんな仕打ちをしたか、もう忘れたんかよ?」

「……わ、忘れてない、けど」

「悪いが協力が無理ならお前の姉やにもおとなしくしといてもらう。好き勝手動かれちゃあ困るからな」

「な……」

 瞠目どうもくし、弱々しいかおを怒りの色に染めた。襟を掴み返す。

「ふざけるな」

「ただ出られないようにするだけだ。何かするわけねえだろ、水龍ミルに選ばれたお方なんだからな」

 お前だって、と猫撫で声になった。「毎日いびられたり虐められたり辛い思いをしてんのは分かってるさ。それを変えてやろうっつってんだ。だから手を貸してくれ、なあ?」

「俺は、役には立たないよ……」

 怒りから悲しみに変わった声音に微笑み、指でひとつ浮き出た粒をすくう。

「お前は宮の様子を報告して、言われた通りにすりゃあいい。あとは外にいる俺たちがやる」

 なみだの塊を本人の手に握らせた。

「六百二十年間の怨みを晴らす」

 今がその時だ。

 男に諭された少年は白珠を見下ろし、やがて力なく頷いた。





 絹を引き裂くがごとく悲痛な泣き声が宮の門前にいても聞こえる。立ち止まり、大きく一呼吸した。心構えして、よし、と小声で呟き椒房ねまの外に立った。


「案珠姉上、醍亜が参りました」


 応えはなく、ただただ呻きが続いている。しばらくして、そっと隔扇とびらが開き、疲れた様子の男が醍亜を招き入れた。

 鳳床ねどこ帷帳とばりは閉じられている。脱ぎ捨てられた衣に垂れ下がった帯、荒れ放題の室内。今までの姉ならば信じられない。

 はなを啜りぼそぼそと嘆き、駙侯ふこうの慰めにまた咽び泣く。

「姉上。どうかお顔をお見せくださりませ」

 そうっ、と内側から開く。こちらも濃い隈を浮かせた男が途方に暮れて醍亜に助けを求める視線を寄越した。

 すぐ後ろ、もう一人に寄りかかり、手帕てぬぐいをくしゃくしゃに握り締めて悲嘆する案珠がいた。乱れ髪を振り乱し、げっそりとけて肌は青白く、萎んでしまった腹をひたすら押さえている。

 いたたまれずしとねに腰掛けた。

「姉上。このあいだ真夜中にお独りで出歩かれたと。宮の庭といえ危のうございますよ」


 その夜の相手をした駙侯が言うには寝入りのときたしかに横にいたのはずが深夜にはもぬけの殻になっていた。衛兵らと捜し回り疲れ果てて夜明けに戻ると、案珠は忽然と被衾ふとんの中に戻っていたのだという。


「知らないわ。おぼえていないわそんなこと」

 可哀想に、現実を逃避するためなのか彼女自身は夢の中にいたのだろう。どちらにしてもかなり参っているようだ。

「さぞお辛いでしょう。だが食事は摂らなくては身が持ちません。駙侯方もお疲れですので、横になられては。眠れないのなら薬湯をもらってきますよ」

「薬なぞ二度と口にするものか!私の……私のややこがっ、ああっ、あ」

 滂沱ぼうだの涙を流し激しく首を振る。「なぜ、なぜなの……私が何をしたというの!」

「姉上、落ち着いて」

「取り戻すのよ!」

 喚き散らし拳を振り上げる。「醍亜‼よいか、一年以内に必ず子を孕みなさい!丈夫で健康なお前なら出来るはず。泉主もそれをお望みです!これは命令よ!逆らうことなりません!」

 醍亜は頭を下げた。

「――拝命致します」

「私のものをくれてやるわ。自分ので無理ならあらゆるものを試すの。私とてそうしてきた」

 案珠は欠けた鋭利な爪で夫の頬を掻き、泣きながら擦り寄せた。

「私にはもう子を生すことはかなわないわ。皆伏せているけれど分かる。自分の体ですからね。なれば第二公主のお前と第三公主の思晟になんとしても次代の泉主を産んでもらわねば」

「……例の駙侯を本当に下賜くだされたのですか」

 訊けば、ええ、と虚ろな眼をした。

「飛び上がらんばかりに喜んでご満悦だったわ。あの男は良いたねです。必ず恵みを与えてくれます。このさいお前と共有するがいい」

「それは……」

「なに?嫌だと言うの?知っているのよ、醍亜。あなた良家の駙侯をもらっておきながら婚儀以来、初夜しか肌を合わせていないでしょう。なにが睦まじくしている、よ。自分の立場を軽んじているの?それとも、私がいるから跡継ぎのことは全て任せようという魂胆だったのかしら?」

「とんでもない」

「私たちは犬猫ではない。子をたった一人産み出し育てるのにどれほど努力して苦しむのか、母上たちを通してお前はなにも学んでこなかったわけではないでしょう?」

 醍亜は俯き下唇を噛む。案珠は鉤爪のような両手でその頬を包んだ。

「お前も、私も、ただの女ではない。七泉王家、始祖羨天せんてんの血を継ぎ泉を澄明にする責務とほまれを負う神の末裔なのよ。宿命さだめから逃れることはできない」

「もちろん……分かっております」

 ならば、と酷薄とした笑みのまま、さらに一筋涙を流した。

「生まれ損なった私のややこを、今度こそ、この手に抱かせて頂戴」




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