Under the Storm/嵐の日

秋色

Under the Storm

 週明けに天気の大荒れが予想された。

 スマートフォンにもこの地域が災害危険地域になる予想が速報で入った。「大気の状態が不安定で……」、「命を守る行動を」、「十年に一度の豪雨が予想される」といったキーワードが並んでいる。


 テレビでも数日前に大雨の降った地域の、増水した川の映像が流れている。アナウンサーの眉をひそめ緊急事態を告げる様子に、恐怖心を煽られる視聴者も多いだろう。



 でも僕の住居は絶対安全だと分かっている。

 同年代の同僚には、三十代に入る手前でも嫁や子どもを持っている人もいる。もし僕にも家族がいれば、家族一人一人の行動範囲を心配する気持ちも湧くのだろう。でも両親は二人とも、僕が成人して間もなく病気で他界しているので、僕は一人暮らしだ。

 そして住んでいる場所は田舎とは違い、周りの川もかなり整備されている都会のマンション。自力で購入したものではなく、亡くなった親の遺した不動産ではあったが。

 このマンションは地下が地下街へと通じていて、地下鉄のある駅にそのまま行ける。

 だから雨の日に傘を持っていなくても濡れる事はない。

 職場も地下鉄の駅から直結したビルに入っているオフィスだからだ。

 そして地下街には、小さなスーパーマーケットやコンビニも入っているので、日常品や食料品を手に入れるのにも困らない。



「午後から雨が降るので今日は長い傘をお持ちください」とか「レインコートが便利です」といったテレビやスマートフォンから流れる情報にも、いつも他人事のような顔をしていられた。


 では太陽も見ない穴蔵暮らしのような不健康な生活であるのかと言えば、そうでもない。

 オフィスの入ったビルには屋上に屋上庭園がある。そして、社員達は晴れた日にはそこで休憩時間を過ごす事が出来た。ビルに入っているコンビニで買ってきたサンドイッチやバーガーと自販機のコーヒーを持って、そこへ行くのは晴れた日の僕の日課になっていた。太陽の光を浴び、過ごす昼休み。結構良い所どりの生活だと感じる。

 大体今の生活は、自分に合っている。仕事の要領を得て、残業もそんなに多くない。卒業したばかりの社員はまだ要領を得ず、仕事に追われているみたいだけど。仕切りで区切られたスペースで仕事をしているため、普段は分からないが、この屋上庭園では、そんな会話を耳にしたり、実際に浮かない表情を目にする事もある。

 声をかけようかと迷いながらも、休憩後には仕切りの向こうに戻る。


 とにかく明日も自分の住んでいるここは安全だ。


 そう分かっていても、日曜日の夜が更け、つい窓の外を覗いてみたくなった。窓ガラスを叩きつけている大粒の雨。防音の窓のため、激しい暴風雨の音は聞こえてこないものの、窓からピシピシと振動が伝わってくる。

 ベッドに横たわると、さぞ外は荒れ狂っていて、危険がいっぱいなんだろうなと想像し、なかなか寝付けない。そして雨風の日が怖かった子ども時代の事を思い出していた。


 小学一年の途中から父親の療養も兼ね、両親両方の実家のある、九州の地方都市で過ごした。子どもの足で歩いて三十分もかかる小学校に通っていて、割と町中ではあったけど、雨風の日には学校へ行くのが大変で、気が重かった。

 傘をさすのに必死で、今考えるとそこまでの雨風ではなかったのかもしれないけど、命がけの気がした。

 小学校三年の夏のある下校時が特にひどかった。一人で帰っていた僕は途中の大きな通りから住宅街へと繫がる曲がり角がどうしても曲がれないでいた。

 曲がろうとすると、傘ごと、風の抵抗で押し戻されてしまうからだ。泣きながら何度も挑戦するのに、絶対その方向へは行けない。


 涙が頬を伝っている僕の目に、歩道を歩いてくる一人の女子の姿が見えた。同じクラスのいがらしさん。悪いけどあまり勉強が得意でない子だ。散々な点数のテスト用紙を見た事がある。そして勉強が得意でない事をあまり気にしてないような、少し雑な所のある女子だった。ただし話しやすいタイプではあった。時折、帰り道で見かける事があったので、家が同じ地域なんだろうと思っていた。

 いがらしさんは僕が泣いているのを見ても、驚いた様子は一切見せず、ましてや哀れみや蔑みといった表情を顔に浮かべる事もなかった。

 ただ、遠くを歩く女の人を指して、「ほら、あのおばさんみたいにして走るといいんだよ」と言って、傘をすぼめてみせた。そして曲がり角をそのすぼめた傘で頭を覆うようにし、一気に走った。そして曲がった向こうで、僕を待っている。僕もいがらしさんの真似をして、傘をすぼめて一気に走った。さっきは全然曲がれなかったのに、曲がる事ができた。口に入ってきた雨粒も、その時には甘く感じる余裕が出てきた。

 今、考えると間抜けで情けない話だけど、当時は一命をとりとめたくらいに感じていた出来事。

 勉強は出来なかったいがらしさんが、まるで防災エキスパートみたいに、緊急事態への対処法を編み出した事。そんな大げさな事でもないのだけど、それが当時は何だか不思議で、眩しく感じられた。そして、嵐の風景が一気に青空に変わったような気までした。運動会の日、彼女が弟も妹もいる大家族だった事を知った。それがしっかりしている理由と何らか関係はあるのだろうと今にして思う。

 その後五年生になって僕は都会へと戻ったので、彼女の消息もその聡明さについても深くは知るすべもなかった。でも後々、「いがらし」は五十の嵐と書くのだと知って、不思議な因縁を感じた。


 不思議といえば、以前空き家になっている家の前で、知らないおじいさんから傘を借りた事がある。学校からの帰り道、途中にある古い、いかにも日本家屋といった大きな家。その家には誰も住んでいないようで、ちょっと子ども心に気になっていた。その理由は大好きな祖父母の家に何となく似ていて、しかも祖父母の家より大きかったので、いつか中に入ってみたいという憧れがあったから。

 クラスメートの中には、「あれは幽霊屋敷に違いない。ほん怖に似たような屋敷が出てきた」なんて言う男子もいたが。

 ある雨風の日の事だった。その日は朝は晴れて青空が見えていた。午後から天気が荒れるという予報を信用する事もしない、ただの楽観主義な僕は、そのため折りたたみ傘しか持って来ていなかった。

 帰り道、小さくて頼りない折りたたみ傘をさし、風と戦いながら歩いていると、その日本家屋の前の門辺りに一人のおじいさんがいて、「その傘じゃ濡れるだろう。これを使いなさい」と、大きな紺色の傘を差し出された。今までその家の辺りで住人の姿を見た事がなかったのに。

 大きな紺色の傘はとても役に立ったけど、その傘を返そうにも、誰に返していいか分からなかった。その大きな家はいつも無人だったので。クラスメートの男子は「それは、やっぱり幽霊」と言ったけど、もしそれが本当でもそんな悪い幽霊には見えなかった。と言うか、そもそも幽霊には見えなかった。冷静に考えて、あれは空き家であってもたまに家主が管理のために訪れる事のある家だったとも考えられる。あるいはその家とは全く関係のない人物がたまたまそこにいただけだったとか? あるいはそこの住人の古い友人で、すでに空き家になっている事を知らず訪ねてきたのかもしれない。

 わが家で返す当てのなくなった紺色の傘は、引っ越しのドサクサで行方不明となるまで、しばらく僕をさまざまな空想へと導いた。



 都会に戻った僕が、もう雨や風に悩まされなかったかというとそうではなかった。今みたいに、地下から色々な場所へ通じているわけではなかったから。もちろん小さな身体で傘を必死で握りしめていた時代からは進化したが。

 

 小さな身体で、というと思い出す出来事がある。高校に入って僅か三ヶ月で辞めた陸上部。先輩からの理不尽な扱いを受けるのがイヤで辞めた。同じように学年格差が頭にきている一年生は多かった。

 そんな流れを止めようとしている二年生がいた。陸上の才能はあり、身体は小さいものの、走るのは超速かった。

 その先輩は、他の先輩達から僕等を守ろうと頑張ってくれた。ある時、雨風が吹く中でその先輩が備品を一生懸命片付けている姿を見かけた。僕はもう陸上部を辞める事が、少なくとも僕の心の中では決まっていたので、部活を休みがちで、だからその日の詳細も分からない。ただ、その必死に片付けている姿に、おそらくその日も、下級生を守るため代わりにやっているのだろうと推測された事、そして手伝おうかと思ったけど、体が動かなかった事を苦く記憶している。体が動かなかった理由は、何だか億劫で、そこまであの部のためにやるという事に意味を見出だせなかったから。

 大人になった今、あんな先輩は稀有な存在だったと身に染みて感じる。


 そんな記憶の連鎖で、長い事眠れずにいた僕は、それでもいつの間にか眠りについていて、朝が訪れた。


 不思議なくらい、窓の外は明るく、光に溢れていた。予報は外れたのか、ただ予報士は危機意識を解かないよう脅していただけなのか、嵐はひと足早くこの地域を去っていた。


 あとに残されたものは、口の中に何故か残っている雨粒の甘さ。陸上部の先輩の小さな背中を思い出した時の心苦しさ。そして玄関の傘立てに陣取っていた、持ち主不明の紺色の傘がいまだに玄関ドアの近くにあるような錯覚……だけかな。


 いつもの日常に戻るため、まるでアルコールを冷ます時のように少しだけ頭を左右に振った。そして心の中で呟く。


 大丈夫。雨の日に傘を持っていなくても濡れる事はないんだ。


 でも心の中であの日の泣き顔の自分が知らせる。

 いや、でも雨と風でずぶ濡れになるのもきっと悪くはないんだよ、と。





〈Fin〉

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