Day31 またね


 袖を引かれても、振り返ってはいけないよ。

「今は、忙しいから――」

 やんわりと、断りなさい。



 小学生初めての夏休み――祖母の家に遊びに行くと、新しい浴衣を着せてくれた。

 去年までのような、リップル加工された化繊の白地に蛍光色でいかにも子供の好みそうなキャラクター化されたうさぎや蝶々のプリントされた浴衣ではなく、淡く広がる流水紋に朝顔と金魚の散らされた浴衣は、帯こそ子供らしい兵児帯ではあったが、少し『お姉さん』になったように思われて嬉しかった。


 『お姉さん』は、小さな子に優しくしてあげなくっちゃ……。


 すっかり浮かれていて、祖母に聞かされた浴衣を着た時の約束を忘れていた。

 いや。あれは夜のお祭りに行く時の約束で、明るい昼間の約束ではないと思っていたのかもしれない。

「『お姉ちゃん』の浴衣、新しいの?」

 くいくい…ごく軽い力が袖を引き、子供の自分よりさらに低い位置から声がした。

「うん。そうよ。新しいの」

 振り向くと、赤い浴衣を着た目の大きな少女が、しゃがみ込んで見上げていた。

「お姉ちゃん、遊ぼ」

「いいけど、夕方までよ」

 田畑の広がる地域のことなので、遊具があるわけでなし、浴衣姿でかけっこや泥遊びもしたくなかったので――神社の階段で、グリコをした。ぴったりでないと上がれないルールにして、階段の往復を繰り返していたら――決着のつかないまま、当時、夕方五時に流されていた町内放送が聞こえた。

「帰らなくっちゃ――またね」

 ばいばい…手を振ると、少女も嬉しそうに手を振った。

「うん――またね!」

 けれど、その年の滞在中に再び、少女と会うことはなかった。


 翌年の訪問は、夏祭りでなく盆踊りの時期になったが――盆踊り会場では、両親のどちらかと常に一緒だったためか、少女には会わなかった。

 翌々年からの数年は、浴衣よりサマードレスのブームが自分の中では起きていて――中学に入ってからは部活動や塾通いで、祖母の家に遊びに行くのは年末年始だけになってしまっていた。


 なので、すっかり忘れていた――。


 祖父の新盆で、久し振りに真夏の祖母の家を訪れた。

 手入れの良い祖母の浴衣が、レトロで可愛らしく思われて――せっかくなので、借りて盆踊りに出かけてみた。

 子供の頃の記憶より集まるひとはまばらだったが、充分に賑やかしい人ごみだった。

 くいっ…不意に袖を引かれたのは、だから擦れ違う誰かの荷物にでも引っかかってしまったのだと思ったのだ。


 忘れていたことを――思い出した。


「お姉ちゃん、遊ぼ」

 赤い浴衣の目の大きな少女が見上げていた。





「い…今は、忙しいから――」

 とっさに、もうひとつ思い出した――断りの言葉を口にする。


「そう。じゃぁ――またね」

 唇を尖らせた少女の姿が、薄れて消えた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

文月の訪問者 若月 はるか @haruka_510

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ