Day30 色相


「あらあら、いけませんよ。それは、おじいちゃまの大事大事ですよ」

 記憶の初めにあるのは、祖父の部屋から抱き上げられて連れ出された時の母の声だった。

 祖父の部屋の棚に並んだ小さな陶器に並んだ絵具がとても綺麗で――その頃は幼すぎて絵の絵具だとは知らなかったのだけれど……眺めていたら祖父が紙とともに何色か取り出してくれて、使い方を教えてくれていたところだったのではないかと思う。祖父が、ほんの少しその場を離れた間のことで、困惑しつつ咎める母の口調が、いたく不服だったことを憶えている。

 それでも、やっぱり祖父と祖父の部屋が好きで――いけません……禁止する母の目を盗んでは入り込み、絵具や祖父の描き残した絵を見せてもらっていた。どの色が好きだい?……問うてくる祖父の声は柔らかく、けれどもしっかり心が通っていて――幼心に、そんなふうに感じる色があれば一等好きになるだろう……思っていた。


 とはいえ、子供のすること……内緒であったつもりでも、さすがに見つかってしまうもので――祖父に教えてもらって、色を混ぜて新しい色を作ることに夢中になっていたせいもあるかもしれない……程なく、今度は、父に見つかってしまった。

 しかし、父は、色付いた紙をとっくりとながめつすがめつしたのち、ふむ…ひとつ得心気な溜息をついた。

「お前も絵を描きたいのか……?」

 そうして、父は――未就学児童にも扱いやすそうな筆を選び、基礎的な色が花のような形をした器にまとめられた絵具を買い与えてくれた。

 子供っぽ過ぎじゃないか……子供ながらにも生意気に不満を持ったりもしたが、可愛らしいセットを前に――この色は、その色は……教えてくれる祖父が楽し気で、すぐに自分専用の道具を買ってもらえたことが嬉しくなった。

 それからは、庭木の花や飛んでくる虫や鳥、窓から差し込む陽射し、綺麗だと思った色を写しとり残したいと――祖父に教わりながら、絵にするようになった。

 混ぜると鈍く濁ってしまう組み合わせや柔らかく落ち着く組み合わせ、混ぜるのではなく配置することで互いを引き立て合う組み合わせ――祖父は、なんでも知っていた。


「もうおじいちゃんの知っていることは、すっかり教えてしまった」


 どこか誇らしげに、どこか寂し気に――ほぉ…祖父が溜息をついたのは、小学三年生の夏休みのこと。

「これからは、自分の目指す色を――自分で探して、自分で作って行くんだよ」

 本当のことを言えば、その頃には、うすうすわかり始めていた――気付かない振りをしていたけれど。


『さすが、彼のお孫さんだね……』


 小学校に上がった頃から、描いた絵をひと目に触れさせる機会が増えた。

 筆運びを色使いを――褒められた。

 そして、多くの人が祖父の名をあげ、祖父の功績を惜しんだ。

 時には、祖父が見ていたら喜ぶだろう……感慨深げに目頭を押さえる者もいた。


「もう、できるだろう……?」

 もしかしたら、祖父の姿は薄らいでいるかもしれない……だから、顔を揚げずに、頷いた。





 あれから、二十年の時が過ぎ――大きな賞をもらったことで、何件かインタビューを受けた。

「先生の持ち味は、なんといってもこの独自の色彩だと思うのですが――参考にされたり、絵を描き始めた頃に師事された方はいらっしゃるのでしょうか?」

 繰り返される質問に、繰り返し答える――。

「祖父です」


 生まれる前に、亡くなっていた――祖父に全てを教わった……と。




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