Day29 焦がす


 職場の隣りの飲食店が、火事になった。

 幸い、こちら側の建物の壁に防火処理が施されていたことと、発見からの対処が迅速であったため被害は火元の建物の主に店舗部分のみにとどまり、けが人もいなかった。ただ、もちろん……飲食店のオーナーにとっては、この先、事後処理が山積みで、「幸い」などとは言っていられないだろうが。それゆえ、数日は鼻についた焼け跡の臭いもその後の解体作業の騒音も――事務所内では、おおむね同情的な空気が漂っていた。

 異変に気が付いたのは、隣りが一度更地になり――その飲食店が消えてしまった以外の日常を取り戻した頃だった。

 男子トイレの洗面台脇の白い壁に、うっすらと黄ばみに似た染みが広がっていた。

 丁度、成人男子の頭の位置であったので――誰だか、一日染めでもした頭で寄り掛かったんじゃないか……肩を竦める程度で、始めは皆その場限りの興味しか持たなかった。

 しだいに、三台並ぶうち壁にもっとも違い洗面台の使用が忌避されはじめたのは――徐々に、火に焙られたような色に濃く大きく育った染みを人間の顔のように見るものが、ひとりふたりではなかったと言うことだろう。

 点や線が逆三角形に並んでいると『顔』と認識してしまうという現象はよく知られていて、理性的な大人として誰もがなかなか口にしなかったが――ひとりが、ぽろり…と自虐的に指摘すると、やはりそう思うか……ほぼ全員の共通見解であることが判明した。

 事実、点や線が並んでいる…と言える範疇を超えていた――。

 瞳こそはっきりとはしないが、『目』と見える一対の並びには、それぞれ目蓋があり目尻があり、顰めやられた眉のふくらみが見て取れた。

 『口』のように見られる図形は、上下に唇らしき影をもち――さらには、時おり何をかを語りかけるかのように、形を変えているようにさえ思われた。


 苦悶の表情…と、一同の認識は一致した。


 定期的に回ってくる清掃員も一度は気味悪がりながらも対処を試みたもの――表面の汚れではなく、内側から滲み出た汚れと思われる……報告の後は、規定通りの清掃をそそくさと済ませて立ち去るようになっていた。


 沁みの不気味さはともかく――壁を確認してもらうべきではないか……事務所の上役と建物の管理会社との間で、点検と修繕の了解がついたのは、その壁が火事にさらされた外壁の内側に面していたことが大きかっただろう。確かに、計算と実験を積み重ねて開発された防火素材であり――同じ建物の他の箇所では、何ら問題の生じていないものではあるが、もしか受けた熱が一部で想定を超え、壁内部の素材に影響があったのかもしれない。


 工事作業員が入った日の午後――緊張に顔をこわばらせた作業員が事務所に現れると、早足に所長のもとに向かい、何事かを短く告げると連れだって出ていった。

 一度、戻ってきた所長の指示で、全員、他の階にある貸し会議室に移動させられる。

 何事だろう?……囁き交わす中にも――実際の男子トイレの利用者は、おそらく同じことを想像していただろう。


 やがて、けたたましいサイレンが違づき、建物の前で止まった。



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