後編

家に帰って一息ついたたくみは、風呂上がりでまだ乾いていない頭にバスタオルを被ったまま、台所に用意されている夕食を見た。

ご飯とおかずが三品、そしてインスタントの味噌汁。

父は毎日帰宅が遅く、母は週三で弟を習い事に連れて行っていて、今は匠一人だ。


湯を沸かし、パッケージの表示通り計量して椀に注ぐ。



『レシピ通りに作っても、本当に美味しいものは出来ないのよ』



ふと、パン教室の彼女の言葉が甦り、顔をしかめた。

じゃあレシピは何の為にあるって言うんだ。

お菓子の本だって「計量は正確に」と書いてあるじゃないか。


匠は乱暴に椀の中を掻き混ぜる。

勢いがあり過ぎて、せっかく計量した湯が縁から溢れた。


「何なんだよ!」


この苛立ちはどこから来るのだろう。




彼女が言った通り、匠は製菓や製パンに興味を持っていた。

それだけでなく、調理全般に強く魅力を感じる。

幼い頃から好んで台所で手伝いをしたし、小学校の高学年からは、本を見て一人で菓子や料理を作った。

その度に家族は褒めて喜んでくれ、「未来のカリスマ料理人ね」なんて持ち上げてくれたものだった。


それが変化したのは、三年前。

高校受験の話題が出始めた、中学二年の頃だ。

少し頑張れば上の高校へ行けると担任に言われ、集中して勉強した。

順調に成績が上がり、上がると先生や父は更に上を期待した。

息抜きに台所に立てば「今はそんなことをする時期じゃない」と言われ、高校へ入学すれば、進学校は一年生から勉強三昧だった。


課題、課題、課題の毎日。

学校以外で、毎日四時間勉強の時間を取れと言われたら、それこそ台所に立つ余裕もない。

気が付けば今は二年で、次は大学受験だと周りは煩くなる一方だ。



考えに沈んでいた匠の頭から、ズルリとバスタオルが滑り落ちた。


「タオル、返しに行かなきゃな」


ポツリと呟いて、匠は脱衣所のカゴを見た。

結局、借りたタオルを首に掛けたまま帰ってしまっていた。





その日以降、匠は何度かあの家の前を通った。


大きな看板もなく、知らずに通れば気付きそうもないのに、口コミで人気でもあるのか、いつ通っても教室レッスンが行われていた。

ガラス窓の向こうで楽しそうに生地を捏ねる女性達を目にすれば、そのタイミングで訪ねようとは思えない。


結局、誰もいない時に訪ねられたのは、図らずもまた雨の夕方だった。




「この前のアレ、どういう意味だったんですか」


お礼を言ってタオルを返すだけのつもりだったのに、彼女の顔を見たら口をついて出たのはそんな疑問だった。

彼女のあの一言は、思いの外匠の胸に刺さっていたのだ。


「言葉通りよ?」


彼女自身も、自分が投げた言葉を覚えていたのだろう。

“アレ”が何を指すのか説明しなくても理解して、笑った。


「レシピ通りにしないと、どんなものだって上手く出来ないですよ」

「ふぅん……。ね、今時間ある?」

「え?」

「今日の予約、キャンセルが出たの。特別にレッスンしてあげるわ」


返事を待たずに、彼女は匠の腕を引いた。


驚いて断ろうと思ったのに、引かれて玄関内に入った途端に焼成ベイクの残り香を吸い込み、匠は言葉を失くす。

ラックに挿された天板には、焼き上がって冷まされているパンがいくつか並んでいて、その丸い形状フォルムとこんがりとした焼き色を見て、どうしようもなく心惹かれる自分を感じた。



気が付けば匠は、エプロンを着けて作業台の前に立ち、レシピを渡されて材料を計量していた。


小麦粉、水、砂糖、塩、生イースト、スキムミルク、バター。

一つ一つ、丁寧に計量する。


ボウルに入れた粉類をゆっくりと指で回し混ぜると、少しヒヤリとして、サラリとまとわり付く。

久しぶりに触れる粉の感触。

それは、驚くほど匠の胸を凪いだ。



生イーストは水に溶いて使う。

レシピ通り、生イーストを小さなボウルに入れて水を注ごうとすると、台を挟んで見ていた彼女が止めた。


「今日は雨だからね、水分量はレシピの九割でいきましょう」

「雨の日は粉が湿気を吸うからですか?」

「やっぱり、よく分かっているじゃない」


小麦粉は湿気を吸いやすい。

雨の日は少な目の水から初めて、様子を見て徐々に足す。

天候によって水分量を調節するというのは、製パンの本にも書いてあることだ。


匠は言われた通り水を減し、粉と混ぜ合わせていく。

水分を吸った粉はすぐにベタベタとして、指の動きを妨げるほど重くまとわり付く。


「どのくらいずつ足しますか?」

「さあ? それは君がこの子に聞いて」


『この子』と示されたのは、匠の右手にまとわり付く生地だ。


「生地に、聞く?」

「イーストって、酵母菌のこと。発酵を促す微生物なの。生き物なのよ」

「生き物……」


匠のは右手に付いた生地を見つめる。

パンを作るのは初めてではないが、そんな風に見たことはない。

急にこの手の中にあるものが、とても不思議なものに思えた。


「この子の声を聞けるのは、捏ねている君だけね。『もういいよ』って教えてくれる時は、指から自然に離れてくれるわ。だから、指先、手の平で感じて、変化する様子をよく見て」


聞けるのは自分だけ、というのは、どこか特別な気分と責任を感じる。

匠はコクリと一度唾を飲んで、指先を動かし始めた。




グチョリとした生地は、子供の頃初めて捏ねたハンバーグを思い出させた。


上手く成形できずに、おかしな焼き上がりを一緒に笑った母。

弟が目玉焼きを乗せて欲しいと言うので、緊張して割った卵。

最高に美味いと、皿に残ったソースまでパンで拭った父。



ボウルに小匙一杯の水を足す。

混ぜて、もう一杯。



料理をして家族が笑ってくれることが嬉しかった。

もっと喜ばせたくて、甘党の弟の為に、レシピより砂糖を増やした卵焼き。

硬めが好きな父のために、表示より短めに茹でたパスタ。

自分で考えて、工夫する楽しさを知った。



生地が纏まり、指から離れた。

ペストリーボードの上に出し、バターを加える。

纏まった生地が再び緩むが、じわりと油分を取り込み、伸びが増し、ツヤが出始める。



新しいレシピを知ると、ワクワクした。

次は何を作ろうか、そう考えると休みが待ち遠しくて、宿題を早く終えて本を開いた……。



クッと、手の平の付け根に力が入る。

汗が滲み、自分の呼吸と、僅かに軋む作業台の音だけが室内に響く。

遠くで、規則的な雨垂れの音がする。

指先を押し返す弾力が増し、表面に張りが出た。




僕は、料理が、好きだ。


もっと知りたい。

もっと関わりたい。

学ぶなら、食に関する事を学んでいきたい……。




「上手く聞けたみたいね」


彼女の声で、我に返った。


が出来たじゃない?」


柔らかく微笑んだ彼女の視線の先、匠の両手の中には、つるりと丸く、艷やかな生地が収まっていた。

側に置かれた小さなボウルには、水が少量残っている。


『美味しくなるよ』


まるでそう主張しているような生地の塊は、確かに匠がこの手で作ったものだ。

まだパンになってすらいないのに、どうしてだか誇らしく、胸がいっぱいになった。



「レシピはね、美味しく作るためのヒントが書かれてあるだけなの」


彼女は、残っている水が入ったボウルを手にして、真っ直ぐに匠の顔を見た。


「レシピ通りでは、美味しくならないのよ。






その日、匠がぷっくり丸々と焼き上がったパンを持って帰ると、家族はとても驚いた。

今後の進路希望を告げた時には、それ以上の驚きと困惑を表し、父は猛反対した。

しかし、諦めず、長い期間粘り強く説得を続ける匠の決意を理解すると、調理一択でなく、栄養学を学べる大学へ進むことで譲歩の姿勢を見せてくれたのだった。




三年生になって、進路希望を決定させた匠は、パン教室の前まで来てぽかんと口を開いた。

ガラス窓から見える室内はがらんどうだった。


隣人が鉢植えに水をやっているのを見つけて、走り寄る。


「あの! このパン教室、なくなったんですか!?」

「ああ、山瀬さん? 少し前に旦那さんが亡くなってね、引っ越されたのよ」


匠は、呆然とした。

彼女の名前すら知らなかった事実に、今更気付いたのだ。

まるで狐につままれたような気分で、庇屋根の下に立つ。


ガラス窓の中央には、消された“Whisper”の文字跡が見えた。





一年後。


地元大学の健康栄養科学科に入学した匠は、充実した毎日を送っていた。

専門分野はとにかく学ぶことが多いが、もう重く苦しい気分にはならない。


誰かに決められた未来ではなく、自らの心の声を聞いて進んだ先に立っているから。



小雨降る六月のある日。

初の製パン学科授業を受ける匠は、講義室の最前列で、今日の授業資料を配られて目を見開く。

講師の名は、『山瀬 陽南』。


「久しぶりだね、少年」


講師として入ってきた彼女が、悪戯に笑む。

匠は、初めて正面から笑みを返した。




《 終 》

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囁きを聞いて 幸まる @karamitu

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