囁きを聞いて

幸まる

前編

雨の放課後。


駅に着いたたくみは、ホームで電車を待つ人の多さに怯んだ。

あの人数が一度に乗り込んだ車内を想像し、その湿気と熱気に吐きそうな気分になる。

あそこに交じるくらいなら、断然雨の中を歩く方が良い。

そう思って、改札を通らず踵を返した。 


自宅までは駅二つ分の距離だ。

今日は塾もないので急ぐ必要もない。



一駅分ほど歩いた頃、雨脚が強まってきた。

制服のズボンの裾は既にびしょ濡れ。

靴は言うまでもない。

しかし、ここまで来て引き返すことも出来ず、かと言って既に電車通り沿いからは離れて住宅街を歩いているのに、もう一度通りまで戻って中間の駅へ行くのも躊躇われた。


中途半端な気持ちで、惰性で足を前に動かす。

この状況はまるで、今の自分そのものを表しているようで、気分が沈む。



地元では有名な進学高校の二年生。

成績は上位。

友人、教師との関係も良好。

家の経済状況も悪くなく、このままいけば来年は、特進クラスで有名国立大を目指して受験生の一年を過ごす。

それが周囲からの期待と評価で、当然の未来だ。


匠の口から、知らず溜め息が漏れた。


まだ二年生。

そう思うのは自分だけなのか、いつの間にか周囲は全て、来年の受験に向けて動いている。

このまま日々を過ごしていて良いのだろうか。

漠然とした疑問が湧いたのは、つい最近のこと。

だからといって急に何かを変えられるわけでもなければ、変えなければならないのかどうかも分からない。




バラバラと傘を鳴らす雨粒は、更に強さを増す。


重い。

荷物が、身体が、頭が。


傘を差して歩きながら、匠は一歩毎に重みを増す自身に嫌悪を感じた。


蒸し暑く、息苦しい。

襟元を緩めるが、少しも楽にならない。

この重苦しさは、雨のせいだろうか。


なんだか身体がバラバラに動いている気がする。

この身体は、本当に自分の思うように動いているのか……。




「やあ、少年」


突然肩を叩かれて、匠は我に返った。

同じくらいの目線の高さで、横から女性が覗き込んでいた。

真っ直ぐに切りそろえられた黒髪が揺れる。


「え……、あっ!……え?」


民家の突き出した庇屋根の下で、壁に手をついて立ち尽くしていた。


「気分でも悪いの?」

「す、すみません、大丈夫です」


傘は開いたまま地面に転がっていた。

匠は急いで傘を拾う。

庇からはみ出した途端、バシバシと痛い程強い雨粒がぶつかってきて、匠は急いで庇の下に身体を戻す。


「あんまり大丈夫って顔色でもないよ? ちょっと中で雨宿りしていけば」

「いえ……」

「そこに立っていられるのは、迷惑なの。看板見えなくなるでしょ」

「看板?」


指差して言われ、匠は建物を振り返った。

てっきり民家だと思ったのに、店舗だったのだろうか。


洋風住宅の並びに、白い一軒家。

道路沿いに大きめの庇屋根が突き出しているが、やはり普通に個人宅に見える。

そう思ったが、立った側の壁には、嵌め込みの大きな窓があった。

よく見れば、窓の真ん中に白い文字で、小さく“whisper”と書かれてある。

看板らしき物は周りになく、彼女の指した先が看板だというのなら、確かにこのガラス窓の文字が看板なのだろう。


ガラス越しに見える室内には、大きな作業台テーブルが二台。

その中央に、大きなボウルと卓上ミキサー、粉袋にペストリーボード……。



「いらっしゃい。タオルと座る場所くらいは貸してあげるわ」


声を掛けられて顔を向ければ、彼女は玄関を開けて中に入るところだった。

その手には匠の通学鞄が下げられている。

そこまでされれば奪い返すことも出来ず、匠は好意に甘えることにして、玄関を潜った。


玄関自体は、やはり民家のそれと変わらなかったが、入って正面の上がり框とは別に、右手に開け放たれた扉があった。

その先には、外から見えた作業台の据えられた広間がある。


匠は引き寄せられるように、その広間に一歩踏み入れた。


ふわりと、柔らかな空気が鼻先をくすぐる。

かすかな発酵臭と、粉っぽさ。

それに混じる、香ばしい残り香。

壁の造り付けの棚には、大小様々なボウルに計量カップ、麺棒、シリコンシート。

別の棚上には小型のコンベクションオーブン。

隣は、発酵器ホイロだろうか?


「少年、こっちで拭いて」


上がり框の方から笑い含みに促されて、匠は勝手に入ったことを恥じながら戻った。

タオルを渡されて、上がり框に腰を下ろす。


「すみません……ありがとうございます」

「徒歩で通学してるの? 結構距離があるけど」

「いえ、今日はたまたま電車が混んでいて……」


制服でどこの高校なのか分かったのだろう。

匠は、勉学に追われる窮屈な日々まで見透かされたような気がして、思わず広間を指して話題を変えた。


「ここは、何をする所ですか」

「パン教室よ。予約制のね。個人でやってるの」

「へぇ……」


それであんな香りがしたのか。

頭や制服を拭きながら、匠は教室の中を再び覗き見た。


「君、パンかお菓子に興味あるの?」

「えっ」


ドキリとして振り返ると、彼女は壁に凭れて微笑み、こちらを窺うように見ていた。

どうして、と顔に表れていたのだろう。

彼女はクスと笑って、教室内を横目で見た。


「教室内を見る感じが、珍しい物を見るというよりは、興味のある物を発見して嬉しそうに見えたからね。最近は料理男子なんて珍しいものでもないみたいだし。もしかして、パン作ったことある?」

「興味なんかありません」


思わず強い調子で否定して、匠はタオルを強く握る。


「勉強だけで時間が足りないくらいなのに、そんな趣味みたいなことに手を出せませんから」

「趣味みたいなこと、ね」

「あ……」


勉強尽くめの日々を見透かされたくないと思ったくせに、自分からそれを暴露したことに気付いて口籠る。

バツが悪く感じて、下を向いて急いで立ち上がった。


「やっぱり帰ります。すみません、お邪魔しました」


荷物を持って逃げるように玄関を出た。

外に立てかけてあった傘を持って開くと、雫が飛ぶと共に後ろから声が追ってきた。


「少年」


振り返った玄関に、彼女は薄く笑んで立っていた。



「あのね、レシピ通りに作っても、本当に美味しいものは出来ないのよ」



突然投げられた言葉に困惑して、匠は眉根を寄せる。

彼女はひらりと一度手を振って、玄関の扉を閉めた。


匠は立ち尽くしてその扉を見つめる。

傘に落ちる雨粒は、少しだけ勢いを弱めていた。

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