雨、ソラシド

未来屋 環

雨の日のソラシド・マーチ

 そのひとは、雨の訪れと共にやってくる。



 『雨、ソラシド』



 夢を見ていた。

 愛する家族を眺めながら、穏やかな子守唄を歌う――そんな夢を。


 ――がちゃん、と不協和音が鳴り響いて、私は現実世界へと引き戻される。


 もやのかかった頭のまま気怠けだるい身体を起こすと、ぼやりとした視界の中に一人の男が立っていた。

 緩やかにパーマのかかった黒髪は肩まで伸びていて、梅雨に入りたてのじめじめとした季節に似つかわしくない黒い薄手のコートと同化して見える。昨夜まで抱き締めていたはずの背中は随分と大きくて、一体身長は何センチあるのだろうと今更ながらに気になった。


 気配に勘付いたのか振り向いた男の顔は、明け方の薄暗い部屋の中でもはっきりと認識できる程彫りが深い。凹凸がなく毎朝必死で顔をつくる私と、とても同じ世界の住人とは思えなかった。猛禽類もうきんるいを思わせる鋭い眼の光が、今日という日にまだ足を踏み入れられずにいる獲物の私を捉えている。

 その眼差まなざしに耐えきれず視線を外すと、そこには昨日二人の胃に収められたものたちの残骸ざんがいが散らばっていた。ほど、先程の不協和音の正体はこれか。食欲を満たしたその足で残るふたつの欲望を満たそうとするのだから、つくづく私たちはただの生物なのだと思い知る。


「もう行くの?」


 寝起きのざらざらとした声でそう問うと、男は無言でうなずいた。私も、うん、と頷いて続ける。


「わかった。またね――ソラシド」


 男はそれに答えることなく部屋を出て行った。カーテンにへだてられた窓の外からは、降り続く雨の音が響いている。

 今日も一日雨であれば、夜にはこの部屋に戻ってくるだろう。

 ソラシドとは、そういう男だった。


 ***


露木つゆき先生、おはようございまーす」

「はい、おはよう」


 そして、今朝も私はいつも通り作り笑顔をいている。

 私の職場は都内の私立中高一貫校で、思春期でありながらも心に余裕のある子たちが集まっているからか表沙汰おもてざたになるような事件はそうそう起きない。同じく大学で教員免許を取った同級生たちに聞けば、問題行動の多い子どもたちの相手やモンスターペアレンツの対応など、身の毛もよだつ話のオンパレードだ。そう考えれば、この学校に就職できた私はとても恵まれていると思う。


 ――そう、とにかく忙しいというその一点を除けば。


 四月の入学式を皮切りに校外学習や定期テストが続き、部活の面倒見でつぶれる夏休みのあとには文化祭・体育祭の二大イベントがやってきて、様々な業務に追われて息つく間もなく年度末を迎え――あっという間に一年が終わってしまう。そしてまた、新しい学生たちと共に、次の年度が幕を開ける。

 気付けばもう四十しじゅうも目前だ。晩婚化が進んでいるとはいえ、自分の中で思い描いていた結婚適齢期は十年前に過ぎ去っていた。

 年末年始にだけ帰省する故郷で友人たちと集まらなくなったのはいつからだろう。実家の両親も五年程前から何も言わなくなった。


 それでも良いか、と思った。

 思い描いたそれとは違っても、私は確かに自分の足でこの大地に立っているのだから。

 独立した人生を歩む私の生き方は、誰にも奪われることなどないのだと思っていた。


「――音楽部の顧問、ですか?」


 その確信が揺らいだのは、つい先月のことだ。

 三年間担当していたバドミントン部の顧問をようやく外れ、久々にゴールデンウィークを満喫した休み明けの金曜日、私は教頭先生に呼び出されていた。


「えぇ、露木先生今は茶道部の顧問でしょう。茶道部は活動頻度も少ないし、音楽部もお願いできないかと思って」

「あの、音楽部は音楽の朝井先生が顧問ですよね。私が掛け持ちする必要はないと思いますが」


 私の台詞せりふを聞いて、教頭先生が言いにくそうに口を開く。


「ほら――朝井先生、お子さん小さいでしょう? できると聞いていたから今年度から顧問をお願いしたんだけど、やっぱり難しいみたいで」


 その言葉に、私の思考はシャットダウンした。

 もうこういう話になってしまえば、何も言い返すことはできない。

 私は未婚で子どもが居なくて、朝井先生には将来を担う子どもが居る――それだけで不戦敗は既に決していた。


「露木先生には皆感謝しているわ。仕事も真面目でいい先生で――そんなあなただからお願いしているのよ。こういうのって助け合いだから、わかるわよね?」


 私は曖昧あいまいな笑みを浮かべてうなずく。なおも教頭先生が話し続けているが、これ以上の会話に意味はない。

 視線を窓の外に向けると、晴れ渡っていたはずの空が密やかに涙を流し始めていた。



 その日の夜、私は一人で駅近くの居酒屋に立ち寄り、飲み慣れない酒を飲んで――そこから先のことはよく覚えていない。

 次に意識を取り戻したのは夜中で、寝惚ねぼまなこに映ったのは、見慣れない男がリビングに座ってスマホを眺めている姿だった。


「――え?」


 思わずベッドから起き上がったところで、自分が何も着ていないことに気付く。慌ててタオルケットをかぶったが、男はこちらを一瞥いちべつしただけで、何も言わず画面に視線を戻した。

 混乱しながら頭の中の記憶をかき集めつつ、目の前の男を見つめる。薄手の黒いインナーを纏ったその男の顔にはやはり見覚えがないが、随分と目鼻立ちが整っているなと他人事ひとごとのように思った。


「あの――あなた、誰?」

「……」

「もしかして、飲み屋さんで一緒に飲んでた、とか」

「……」

「えっと――つまりこれって、そういうこと?」

「……」


 何を言っても反応がない。

 自分で言うのもなんだが、何事もなく丁寧に育て上げられ、従順に与えられたものに応え続けてここまで生きてきた。そんな私にとって行きずりの異性とのただれた経験などあるはずもなく、きっと今後も二度と起こることはないだろう。

 そんな或る意味運命の相手がこの寡黙かもくな不審者で、そして――こういう時の対処法すら知らず、私は四十年近くもの間生きてきたのだ。

 こちらを気にせず画面に見入る男を見ながら、自分が情けなくなりため息を吐いた。


 夕方から降り続いていた雨はまだ止む気配を見せず、窓をぱたぱたとやる気もなく叩いている。

 その雨音を聴きながら項垂うなだれていると、懐かしいメロディーが私の耳朶じだを打った。


「あ」


 ソ・ラ・シ・ドの四音のみで構成されたこの曲は、小学生の頃地域の発表会で演奏した曲だった。

 懐かしさに思わず顔を上げると、無表情のまま歌う男がそこにいる。

 男の歌声はハスキーでありながら伸びやかで、無邪気な子ども向けの歌詞をつむぎながらも不思議な色気を纏っていた。一音ずつ順番に駆け上がっていく音階に、沈んでいたはずの私の心も高鳴っていく。


 歌が終わり思わず拍手を送ると、男は初めてきちんとこちらを向いた。


「すごい、あなた歌上手。でも、何でこの曲を?」

「――ソラシド」

「え?」

「俺のことは、ソラシドとでも呼んでくれ」


 窓の外の雨は降り続いている。

 それが私とソラシドの出逢いだった。



 ソラシドはそれからも、決まって雨が降る夜に私の部屋を訪れた。

 やることは変わらない。家にある食べ物とソラシドの買ってきたアルコールを胃に収めてから、シャワーを浴びて同じベッドに潜り込む。そして明け方になればソラシドはどこかへと旅立っていくのだ。

 初めての夜の記憶はないが、シャワー以降はきっと同じことをしたのだろう。それくらいにその一連の流れは自然で、まるで何年もの間ずっとこんな日常を送ってきたかのような錯覚を覚えた。

 人に誇れる程の経験もない私は、ただソラシドになされるがままだ。互いの形を確かめ合っている内にいつしか眠りに落ちていて、明け方に目を覚ませばソラシドは帰る支度したくを始めている。

 これが健全な関係とはとても思えないが、さりとてふしだらとも思わないのは、私の感覚が麻痺しているからだろうか。


 ソラシドはほとんど喋らない。しかし、私の部屋を訪れる度に一曲歌ってくれる。それはこの前のような小学生向けの合唱曲であることが多かった。

 その艶のある歌声は私のささくれだった心をそっと包み込んでくれる。いつしか私はソラシドが訪れることを楽しみにするようになった。


 ***


「露木先生」


 背後から声をかけられ、振り返った私は笑みを浮かべる。

 そこには申し訳なさそうな顔をした朝井先生が立っていた。

 梅雨の晴れ間か、窓の外では太陽がじりじりと校舎の壁をいている。このままだと今日はソラシドに逢えないな、と少しだけ残念な気持ちになった。


「聞きました、音楽部のこと。ご迷惑をおかけしてすみません」

「いいんですよ、お互い様ですから」


 そう答えた時、朝井先生の胸の携帯電話が鳴る。取り出して画面を見た瞬間、その表情がくもった。

 朝井先生は頭を下げて廊下の奥へと消えていく。私はその弱く消え入りそうな後ろ姿を見送ってから、教室に向かった。



 授業を終えて職員室に戻ると、教頭先生が「あぁ、露木先生」と駆け寄ってくる。

 嫌な予感がしつつも、私は作り笑いで出迎えた。


「朝井先生、お子さんが体調を崩されて早退するのよ。午後は露木先生のクラスの授業だったから、自習の対応お願いしますね」

「――え」


 急にそんなことを言われても、課題の持ち合わせがない。

 ――作る? 今から?

 フリーズしている私を置いて、教頭先生はさっさと居なくなった。


 我に返った私は慌てて席に戻り、自習課題のネタになりそうな資料を漁り出す。或る程度解くのに時間がかかり、かつ採点の手間がかからないものを血眼ちまなこになって探しながら、朝コンビニで買ってきた新発売のパンを口に詰め込んだ。

 楽しみにしていたそれを味わう余裕など全くなくて、思わず眉間みけんしわが寄る。


 ――ていうか、何で私が?

 自習にするなら、課題くらい用意してから帰ってよ!


 そう頭に血が昇ったところで――まぶたの裏に朝井先生のか細い背中がよみがえった。

 瞬間的に怒りが冷め、はらの中には罪悪感が横たわる。

 いつしか窓の外には雨雲が忍び寄り、空が暗くよどんでいた。



 ――あぁ、私って、何て嫌なやつなんだろう。



 薄暗闇になびくカーテンが白くまたたく。

 遠くの方でぴしゃんと音がして、私に覆いかぶさったソラシドが身体を起こした。

 ――雷でも落ちたのだろうか。そう思いながら、私はぼんやりとソラシドを見上げる。

 もう一度光が走って、ソラシドの左半身が白く染まった。その鍛え上げられた体躯たいくに見惚れていると、ソラシドが口を開く。


「――終わりだ」


 ぽつりと呟かれたその言葉の意味を捉えかねていると、ソラシドはベッドを降りて床に落ちているインナーを拾った。

 そこで初めて、ソラシドがこの土砂降りの雨の中出て行こうとしていることに気付く。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 慌てて起き上がった私に、ソラシドが顔を近付けた。

 間近で見るとその顔の美しさがよくわかる。綺麗な二重に縁取ふちどられた双眸そうぼうには力があり、私のひん曲がった心を鷲掴わしづかみにした。


「おまえはいつも何も言わない。何をしたいのか、どこに触れてほしいのか、そして――俺と過ごすこの夜のことをどう考えているのか」


 ハスキーな声が暗い部屋に響く。雨の音がうるさいはずなのに、その声は何故かくっきりとした輪郭りんかくを持って私の耳に届いていた。


「一つだけ最後に教えてやる――きちんと自分の思いを伝えろ。それができないのであれば、おまえは死んでいるのと一緒だ」


 ソラシドの鋭い眼光が私を射抜く。

 その瞬間、私の脳裡のうりには教頭先生の言葉がよみがえっていた。


『露木先生には皆感謝しているわ。仕事も真面目でいい先生で――そんなあなただからお願いしているのよ。こういうのって助け合いだから、わかるわよね?』


 あの時、私はただ笑ってやり過ごしたけれど――今思えば本音を叩きつけてやればよかったのだ。


 私が真面目でいい先生? まさか。

 単に皆さんにとって、都合がいいというだけでしょう。

 そもそも『助け合い』って、何ですか?

 私も今後助けて頂けるんでしょうか。

 今のところ、払ったご祝儀ですら取り返せる見込みがないですが――。


 そう、すべてを飲み込んだ結果消化不良を起こし、自分も相手も愛せなくなってしまうくらいなら、いっそ。

 こんな私にだって、できることがあるはずじゃないか。

 

「さぁ、言ってみろ――おまえはどうしたい?」


 ソラシドの台詞と共に、私の意識がこの部屋に戻ってくる。

 目に映るその顔がもう一度白く光り、ぴしゃんと音がした。


 その光と音に背中を押されて――私は目の前の形の良い口唇くちびるにそっと口付ける。

 触れた時間はそれこそ一瞬であったろう。

 星の瞬きよりも短い刹那せつな、それでもその触れ合いは昨夜までの情交より遥かに意味があるように私には思えた。


 顔を離すと、ソラシドが驚いたように目を見開いている。

 その表情がなんだか可笑おかしくて、思わず笑みがこぼれた。


「――ずっとこうしたかったのよ、ソラシド」


 私がそう告げると、ソラシドの瞳に色が戻る。


「あなたと話したかった、優しくキスしてほしかった、そして――雨の夜以外にもあなたに逢いたいと思っている」


 想いを口にする度に、胸が高鳴った。

 そう、それは一つずつ音階を駆け上がるように。


 視界と意識がクリアーになっていく。

 私は目の前の男を見つめながら、その日やるべきことを頭の中で組み立て始めていた。

 まずは教頭先生に相談することから始めよう。

 朝井先生のサポートをするために、皆でできることを考えませんか。

 誰か一人が我慢するのではなく、お互いが少しずつ助け合えるような、そんなやり方を。

 

 いつしか夜は明けている。降り続いていた雨の音はどこかに消えてしまっていた。

 生まれたままの姿でカーテンを開くと、暗く澱んでいたはずの雨空が端から白く染まっている。

 その勢いで窓も開け放った。こんな時間に生きているのは勤勉な新聞配達員くらいだろう。窓の外に顔を出して大きく息を吸うと、夏の訪れを感じさせる澄んだ空気が肺に流れ込んでくる。

 まるで別の生き物に生まれ変わったような気持ちで、私は振り返った。


「ソラシド、たまには一緒に朝ごはんでもいかが?」


 明け方の光の中で見るソラシドの顔は、いつもとおもむきが違う。

 彼は鋭い眼差しはそのままに、ただ少しだけ朝の光に目を細めながら頷いた。

 そう、こころなしか口の端に微笑を浮かべながら。



(了) 

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雨、ソラシド 未来屋 環 @tmk-mikuriya

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