第4話 先生

先生を思い出すとき私の鼻腔にはにおいを感じる。おそらく先生は私が匂いを感じ取れるほど近づいた両親以外の初めての人間なのである。墨の匂い、着物の生地の他の衣類にはないあの匂い、そして30代の女性のにおい。私は彼女の匂いに勃起した。疑いようもなく私の人生で一番の勃起だった。だが先生が私の肉体の機能を起こしても、こころは奪われることは今についに訪れなかった。


電車は嫌いだ。たくさんの人間を運んでしまう。移動は営みの中心なのだ。人間は集まり会話し子供を産む。私は乗り物は好きではない。


電車を部品の一つまで、モーターの回転機構のベアリングや車内の広告板を留めるネジについたヒートンまでばらばらにして線路の上に並べておいてくれればいい。他の人間が駅に止まり喚き散らしている最中も、快適な一本道を私は一人歩いてただの物となった電車を眺めながら楽しく移動するだろう。


私は毎週土曜の14時に書道教室に通った。そして毎週愛しい筆の姿に何度も心奪われた。滑らかな筆の動き。この頃の私はの上で踊る筆を遠巻きで眺めることで満たされていた。私の心は未だにこの距離を持っても溢れる感情に満たされていて、このまま筆に触れてしまえば心の淵はひび割れて砕け散ってしまうのではないかと思う。二人の距離は私の準備が出来るまでこのままの方がよいのだと考えていた。


気づきは3回目の教室で起きた。

私は筆のどこが好きなのだろうか?


思い返せばこの疑問こそが少しずつ私が筆に対しての準備を進めていることを現わしていたのだと思う。


私は筆が文字を描く姿に恋をした。それ以外の時にも私の心は確かに惹かれている。先生が見本を書き終えて、公民館の教卓の上に置かれた筆を私は目で追ってしまう。教室が終わって筆巻きに包まれる度に胸が痛む。だがやはりあの瞬間が最も美しいのは疑いようがなかった。


そこで私が最も問題視したことは先生なのだった。あの姿には筆の主である先生がになるのである。もしいつの日か筆が私の物になったとしてあの姿を見ることは叶わなくなってしまう。


私は先生を必要としている。悪寒を覚えた。私は人間を必要としたくない。しかし私のこころを整理すれば避けようもなく先生が必要なのである。


先生は私より歳が下だ。30いくつだと聞いた。人間の醜美など私の知るところではない。だが先生の周囲にはたくさんの人間が集まっていることは確かだ。私にとって多くの人間に囲まれる人間ほど遠くいものはない。ピラミッドや凱旋門の方がきっと私には近い。


「あら、ごめんなさい」


私のシャツの背中には一人の生徒の筆を洗った水がかけられた。下半身まで薄墨で汚れていた。


私は考えを巡らせるていて公民館が指定している筆を洗っても良い場所を独占してしまっていた。確かに私の108円の安い筆は透き通った水道水をそのままの輝きで排水溝に流していた。


「いいのよ、あなたはおしゃべりになれないものね。そこを開けて下さったらそれでいいの。お気になさらないで」


彼女は私に笑顔を向けた。

振り返ると多くの生徒が列を成して同じような笑顔を向けて私を見ていた。


私は逃げた。すぐに自分に与えられた席に戻って乾ききってない安い習字道具をしまいこんで帰路についた。私は恐怖の中で救いを求めるように愛する筆の方を見た。そこには筆はいなかった。教卓の横で無表情の先生を涙の向こうに見ただけだった。


土曜の電車はたくさんの人であふれていた。老人、中年、そして若い男女。彼らは何が楽しいのか笑っている。こんなに怖い電車は初めてだった。


私は家に帰ると狭い浴槽に体を押し込めて、薄墨で汚れた服とズボンに漂白剤を染み込ませて叩きながらたくさん泣いた。

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筆おぢ ぽんぽん丸 @mukuponpon

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