第3話 童貞
その夜、私は布団の中で書道教室の冊子に噛り付いた。最初は噛り付いて見入っていたのだが、時間が経つと愛しくて実際に必要のないページをかじって食べた。生まれて初めてだ。無機物を食べたことがではない。その冊子はあの美しい筆にまた会いたくて自発した証だった。
至福の時は過ぎ去って、墨やすずりや文鎮が片付けられていく。いよいよ筆がしまわれる時に私は現実を突きつけられる。別れ。「初恋は叶わない」あの頃、教室で聞いて耳に残っていた言葉が突きつけられる。涙が湧いてきた。
だが決してその涙を零れ落ちさせはしなかった。
私は15歳ではない。42歳である。私は大人なのである。22年間一人暮らしをしている。旋盤技師の仕事も勤続24年になる。炊事、洗濯、掃除私はできる。
15歳の初恋が叶わない、しかし私は歴然と違う。自立している。
私は恋を叶えるに足る人間である。
私の脳は電気が流れたことで何かが変わったのかもしれない。このときそうとしか思えなかった。驚くほど早く傷心を修復する。恋が私を突き動かしていたのだ。
私はその時、ポケットの中にあったレシートの裏に言葉を書いた。
"私は声を出せません。それでもあなたの下で書を学びたいです"
ショッピングモールの柱は塗装の凹凸があったからそこに押し付けて書かれた私の線は波打っていた。乱雑に放り込まれたレシートは山折りで"そ"と"れ"の間で折れていた。
"筆をください。愛しています"と書かない愛情を語るにはあまりに卑怯な自分が情けなかった。今すぐ手を伸ばして筆を奪いとって走り出せない自分に腹が立った。
私の恋文はどうしようもないものだった。それでも私は、どんな卑怯になってもまた筆に会いたかったのだ。
だが人との関りを自ら持たない私にとって、恋文を渡すことは困難極まりない。目的をもった人間と接することはできる。スマホの契約のように相手の利があるのであれば私は声をかけて黙っていれば進むと知っている。私は予見できず怖かった。こんな汚く下心にまみれた恋文を受けとった人間はどんな顔をするのだろうか?
本当に綺麗に片付いてしまって先生は机から立とうしていた。まごつく私はどう覚悟したのであろうか。その時の記憶はない。途切れそうな意識の中で息の根というものを実感したことは覚えている。恋文が私の手に支えられ、何もない机の上に差し出されたはずだ。それまでのどこかで私の呼吸は閾値を超えて息の根のところまで高まって止まり、また、いやこの時は本当に昇天したのではないだろうかとさえ思う。
「まあまあさっき熱心に見てくださった方ね」
先生は簡単に私の魂を地上に下ろした。片手で私の震える手をそっと支えて丁寧に私の恋文を受け取った。普段なら人から触られるなんて耐え難くて払いのける。私はその手の熱を感じても動けずにいた。酸素だ。一旦酸素を取り込まなければならなかったからだろう。そのために動けず人間の熱を受け取ってしまった。
「なんて嬉しいことでしょう。是非いらしてください。」
先生はメモを見て読み切る前に返事をしたように見えた。私はこれ以上ない歓迎だと理解した。返事をしようにもまだ息を整えているところだった。そもそも私はここでは声をだしてはいけない。
「声はご病気かしら?普段からこうして字を介してお話されているのならあなたには格別大切に教えなければなりませんね」
それからはスマホの契約のようにスムーズに進んだ。だけどスマホの契約と違ったことは先生が丁寧に話しをしたことだ。きっと奇妙なサービスへの入会を勧められても筆への思いを抱いた私はいくらだって払っただろう。先生は私に何度も筆談で質問をする機会をくれた。私は"理解しています。大丈夫です"と書いたメモを一度書いてそれを繰り返し差し出すだけだった。それは本当に理解できていたからで、先生は私の意志を見透かすように不足なく明瞭に書道教室のことを話した。
私はその最中に冊子を受け取った。説明が終わり名残おしくも帰路につく。だが家まで歩く間大事に胸の前で冊子をかかえ幸せだった。自分の体が暖かいことを感じて、冊子にもその熱を移していた。そして家について噛り付くように見て、実際にかじって食べたのである。
光沢紙が喉をひっかきながら降りるわずかな痛みを感じて私は思い立った。愛する筆のためにしなければならないことがある。あの催事場からひと時も離さなかった冊子を暖かな布団に寝かせてから私は立ち上がった。
狭いワンルームに敷かれた布団の頭の方にある収納スペースの扉をあけて、オナホールを取り出した。私は何かあった時のためにこの不純を仕舞い込んでいたのである。
恥ずべきことだ。三つもある。
私はそれらを胸の前に抱えて狭いワンルームの玄関に向かい、そこにむき出しで置かれたゴミ袋の前に構えた。それからひんやりとした不純を一つ利き手で握ると、ゴミ袋に叩きつけたるように投げ込んだ。
一番は柔らかいやつだったからぷるぷると情けなくゴミ袋の底で滑稽な動きをした。その弾力性にゴミが張り付きまとっていた。それから二番目に最初に買ったやつを投げ込んだ。こいつは実につまらなかった。ただゴミ袋に飛び込んでそこで静止するだけだった。硬いやつは違った。まだそれほどゴミが入っていなかったから、床に届いたようでその硬さが持つ反発力で跳ね上がった。私は反撃を食らう可能性など微塵も抱いていなかったのでたじろいだ。でもそこまでの力はなく結局はゴミ袋から脱出するにも届かず底でゴミに埋もれた。
三つの不純がゴミの底に並んでもう私の精神からすっかり離れてしまった様を見た。私の両腕は勝手に視界の前に掲げられた。その両の拳はみなぎる力に任せてグッと握られた。何か初めてのもので私の拳や腕や、体中が充足された。
筆にふさわしい精神に近づいた。自然と口角があがった。私は表情を変えないように気をつけながら不純を葬った名誉の右手の力を緩めて口元にやった。確かに口角はあがっている。笑ったのはいつぶりだろうか。私は笑えるのだ。
私はまた一つ恋のすばらしさを認識した。そして暗くした部屋で冊子を抱きかかえて喜びに満たされたまま眠りについた。
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