【完結】雨の夜 君とノクターンを(作品230319)

菊池昭仁

雨の夜 君とノクターンを

第1話 雨の夜

 妻のくららが死んだ。


 カーテンを閉じたままの昼夜の区別が出来ない部屋。私は毎日浴びるように酒を飲んでいた。

 会社も辞めた。



 「坂口、奥さんを亡くしたお前の気持ちはわかる。だがそれで会社まで辞めることはあるまい」


 本田常務はそう慰留してくれたが、アル中になった私は会社のお荷物でしかなかった。


 「取り敢えず休職扱いにしておくから、いつでも戻って来い。いいな?」

 「ありがとうございます」



 

 それは酷い雨の夜だった。

 雷鳴が轟き、バケツの水をひっくり返えしたような土砂降りの雨が窓を叩いた。

 私はいつものようにくららが好きだったショパンのノクターンを聴きながら、板チョコを齧りバーボンをラッパ飲みしていた。



 「くらら、どうして君は俺を残して死んだ? おかげで俺はこの通り、ゾンビのような生きる屍だよ」


 私はくららのフォトスタンドにそう話し掛けた。



 「しょうがないでしょう? 死んじゃったんだから」



 対面キッチンに死んだはずのくららが立っていた。



 「くらら!」


 私はくららに駆け寄り抱き締めようとしたが、くららに止められた。



 「ダメよ、私に触れてはダメ。あなたが私に触れると二度と会えなくなってしまうから」


 そう言ってくららは寂しく微笑んだ。


 「くらら! 君は本当にくららなんだね?」

 「あなたは私が怖くないの? 私はもう死んでいるのよ? 幽霊なのよ?」

 「怖いはずがないじゃないか? 大好きな君の幽霊なんだから」

 「相変わらず変な人。でも、そんな変なところに私は惚れちゃったんだけどね?」

 「なんでもっと早く出て来てくれなかったんだ?」

 「いろいろ事情があるのよ、こっちの世界には。詳しくは言えないけどね」

 「会いたかったよくらら。とても会いたかった」

 「私もよ。あなたには私が見えていなかったでしょうけど、私はいつもあなたのそばにいたのよ。気付かなかった?」

 「時々、そんな気がしていた。君が隣にいるような感じがした。

 あれは本当だったんだね?」

 「そうよ、いつもあなたの事を心配していたの。

 毎日お酒ばかり飲んで、ご飯もろくに食べないで。

 おまけに会社も辞めちゃうし、会社の人たちも寂しがっていたわよ、あなたが会社を辞めちゃったから。

 意外と人望があったのね? 特に総務の律子ちゃんなんて、あなたのことが大好きみたい。罪な男」

 「そんなことまでわかるのか?」

 「そうよ、だからオイタするとすぐにわかっちゃうんだからね」

 「俺にはくららだけだよ」

 「わかっているわよ、私もあなたが大好き。

 でもね、悲しいお酒はダメ、お酒は楽しく飲まないと。

 泣きながら飲むお酒なんてサイテーよ。生きてる時はいつも一緒に楽しくお酒を飲んだわね?」

 「ああ、お笑い番組を見て大声で笑ったりしながらな?」

 「そうよ、だからこんなお酒の飲み方はもう止めてね。わかった?

 そしてきちんと食事をバランス良く食べること。

 あなたにはもっと長生きして欲しいから。私の分まで。

 だからお願い、約束して」

 「わかったよ、そうするよ」

 「私ね、雨の夜にだけあなたに姿を見せて、こうしてお話をすることが出来るの。雨の夜にだけ。

 でも、私はいつもあなたの傍にいるから安心して。あなたはひとりじゃないわ」

 「じゃあずっと雨だといいな、くららとこうして会えるなら」

 「ずっと雨っていうのもどうかしらね?」


 くららは笑った。

 くららの幽霊が突然消えてしまった。


 私はすぐにカーテンを開けた。

 するともう雨はあがり、夜空には美しい満月が輝いていた。


 その夜、私は初めて笑うことが出来た。


第2話 職場復帰

 再び働くことを決めた私ではあったが年齢的なこともあり、中々自分の条件に合う会社は見つからなかった。


 (恥を忍んで、前の会社に復職させてもらうしかないか?)



 私は本田常務に電話を掛けた。

 

 「もしもし、営業だった坂口です。ご無沙汰しております。

 あの節は大変失礼なことを・・・」


 本田常務は私の言葉を途中で遮った。


 「わかっている、心配するな。お前の席はまだそのままにしてある。

 ようやく働く気になったか?

 良かったな? やっと立ち直ることが出来て。明日から来い、待ってるからな」

 「ありがとうございます、本田常務」

 「ありがとうを言うのはこっちの方だ、またよろしく頼むぞ、坂口」

 「ハイ!」


 こうして私は前職に復帰することが出来た。




 オフィスに行くと小野律子が私に駆け寄って来た。

 

 「お帰りなさい! 坂口課長!

 今日はみんなで課長の復帰祝いをやりますからね! 強制参加ですよ! 課長が今日の主役ですから!」

 「悪いな、出戻りなのにみんなに気を遣わせてしまって」

 「何を言っているんですか! 課長がいなくて、みんな寂しかったんですから。

 でも良かった、課長に笑顔が戻って。

 じゃあ今日の18時、一次会は『漁火』ですからね?」


 律子はとてもうれしそうだった。

 くららの言った通りだった。

 くららがどこかで笑って見ているような気がした。


 (大丈夫、俺にはくららだけだから)




 「今日からまたみんなにお世話になることになった、出戻りの坂口です。

 妻の件ではたいへんお世話になりました。

 これからもまた、よろしくお願いします」

 「よっ! 坂口課長、お帰りなさい!」

 「坂口課長、またヨロシクです」


 私はみんなに復帰の挨拶を終え、本田常務に挨拶に行った。


 「常務、その節は色々とお世話になりました。

 御恩返しをさせて下さい」

 「おう坂口、期待しているぞ! まあ今週はリハビリだと思ってあまり最初から飛ばすなよ。

 お前に倒れられると会社が困るからな?」

 「お気遣い、ありがとうございます。

 では、これからもまたよろしくお願いします」

 「ああ、頼んだぞ!」




 居酒屋には「お帰りなさい! 坂口課長!」というコピー用紙を繋ぎ合わせた横断幕が貼られていた。



 「それではみなさん、北米課の坂口課長の復帰を祝って乾杯をします! 乾杯!」

 「カンパーイ!」


 温かい拍手と歓声が上がった。


 「みんなありがとう、また仲間に入れてくれ。力を貸して欲しい」

 「もちろんですよ課長。安心しました、課長が戻って来てくれて」

 「危うく添田係長が自動的に昇格するところだったもんな?」

 「いいじゃないかその話は。とにかく飲みましょうよ! ねえ課長?」


 

 係長の添田は参加していなかった。

 私が辞めたら添田が課長に昇格するはずだったが、本田常務の横槍で添田の昇格が保留にされていたらしい。

 当然、添田は面白くはない。それは私にも分かる。

 私は添田に悪い事をしたと思った。



 「さあ課長、今日はとことん飲みましょう! 明日はお休みですから!」


 私の隣に律子が座った。


 大学で英米文学を専攻していた彼女はとても優秀な社員だった。今年で入社6年目になるから、28歳になっているはずだ。

 社内でも律子のファンは多い。



 「小野君もそろそろ結婚か?」

 「課長、それってセクハラですよ?」

 「あっ、ゴメン。あまりにも綺麗だったから」

 「それもセクハラです。アウトですよ。

 結婚なんてまだ先です。相手もいないのに。

 課長、誰かいませんか? 私の白馬の王子様は今どこにいるんでしょうね?」


 律子は上目遣いに私を見た。


 「君なら引く手あまただろうに」

 「じゃあ課長、私をお嫁さんにしてくれます?」

 「お父さんと同じような私とか? それは光栄だな? ははははは」


 すると最上が言った。


 「坂口課長はダンディだからなあ、羨ましいですよ」


 私たちは笑ったが、律子だけは笑わずに、熱い視線を私に送っていた。




 二次会はカラオケだった。

 私はみんなの歌を聴いて拍手をするだけだった。


 律子は席を離れ、トイレに行ったようだった。


 すると私の携帯が鳴った。

 律子からのLINEだった。


    『サザンクロス

     』で飲みませ

     んか?

     ご相談があり

     ます

            

            了解



 何食わぬ顔で律子が戻って来た。


 「悪いが今日は飲み過ぎたようだ。今日はこれで失礼するよ。みんな、今日は本当にありがとう」

 「お疲れ様でした。では来週からまたお願いします!」

 「課長、大丈夫ですか?」

 「ああ、大丈夫だ。すまないね?」


 私は幹事の最上に2万円を渡し、その場を後にした。




 『サザンクロス』で待っていると、15分遅れて律子がやって来た。

 

 「ベリーニを下さい」

 「かしこまりました」

 「相談て何だ?」

 「相談じゃなくて告白です」

 「告白?」

 「私、課長のことが好きです。入社以来ずっと」

 「・・・」

 「私、すごく寂しかったんですよ、課長が突然会社をお辞めになってしまって。

 2キロも痩せちゃいました」


 (くらら、いるんだろう? 俺の隣か? それとも俺と律子の後ろに?)


 「それはすまなかったね? そんなに痩せるところがあったんだ? とてもスレンダーな君なのに」

 「オッパイが小さくなっちゃいました」


 挑むように律子は私を見た。


 「ごめん、ちょっとトイレ」




 トイレに行くと、廊下にくららが立っていた。


 「くらら! どうしてここに?」

 「言ったでしょう? 雨の夜にはあなたに会えるって。

 今、外は雨よ」

 「そうだったんだ。良かった、またくららに会えて」

 「あの子、あなたに抱かれたいみたいよ、抱いてあげたら?

 溜まっているんでしょう? いつも自分でシコシコしてたもんね?

 いいわよ、私は。

 見ててあげるから」

 「ば、ばかなことを言うなよ。どこの世界に女房の見てる前で他の女を抱く旦那がいるんだ。冗談にもほどがある」

 「あら、別にいいんじゃない?

 だってこの世なんですもの、私のいる世界じゃないんだから。うふふ」


 くららはそう言って笑った。


 「くららとならしたいよ」

 「幽霊の私と? 馬鹿ね、言ったでしょ、私に触れたら消えちゃうって」

 「とにかく、一緒に帰ろう。

 良かったよ、またくららに会えて」

 「馬鹿な人ね、せっかくのチャンスなのに」




 私は律子のところへ戻ると、


 「ごめん、急用が出来たんだ、また今度、お詫びにご馳走するからね」

 「女ですか? 構いませんよ、私。課長のこと絶対に諦めませんから」


 キリッとした目で律子は私を睨んだ。


 「そんなんじゃないよ、女房が死んだばかりなのにそれはない」


 私はカウンターに1万円札を置いて店を出た。

 律子は不機嫌そうだった。




 確かに外は雨が降っていた。

 私はタクシーを拾った。


 いつの間にか隣にくららが座っていた。

 

 「この運転手さんには私の声も姿も見えないから安心して。だからあなたもしゃべっちゃだめよ、変な人だと思われるから」


 そう言ってくららは笑った。

 私は黙って頷いた。


 「何も気を遣わなくても良かったのに。

 ごめんなさいね、私が現れたのがいけなかったのよね? どうしてもまたあなたに会いたくて・・・」


 私はまた頷いた。

 くららに触れたい。くららをこの手で抱き締めたい。


 「でも、良かった。あなたが職場復帰してくれて。

 私は仕事をしているあなたが一番好き。

 これだけは覚えておいて、あなたが楽しいと私も楽しいってこと。ホントよ。

 だからテル、悲しまないでもっと人生を楽しんで頂戴。あなたが悲しむと私も悲しくなるから」


 私はまた頷いた。

 運転手が言った。


 「雨が止んだようですね?」


 運転手はワイパーを止めた。

 そしてくららも消えていた。


 (くらら・・・)


第3話 別れの記憶

 くららが亡くなったのも、ちょうど雨の夜だった。


 朝、出掛けにくららが言った。


 「冷蔵庫の中にビーフシチューを入れて置いたから、会社から帰って来たら温めて食べてね? ごめんなさいね? 私ばっかりユーミンのコンサートに行かせてもらって」


 くららはとてもウキウキとしていた。

 今日は松任谷由実のコンサートの日だったからだ。

 くららは松任谷由実の熱烈なファンだった。



 「楽しんでおいでよ、ユーミンのアリーナ・コンサート。

 ずっと前から楽しみにしていたんだから」

 「やっと手に入れたチケットだもん。

 終わったらなるべく早く帰って来るからね。ダーリン。

 じゃあ、行って来まーす!」


 そう言って彼女は家を出て行った。




 会社から帰宅して、くららの作ってくれたビーフシチューでワインを飲んでいると、突然、私とくららの写ったフォトスタンドのガラスが音を立てて割れた。

 嫌な予感がした。


 すぐに私の携帯が鳴った。

 それは見知らぬ固定電話からだった。


 「大宮警察署の片桐と言います。坂口輝明さんの携帯でお間違いありませんか?」

 「はい」


 その後の記憶が私にはない。



 

 病院には既にくららの両親が来ていた。


 「輝明君・・・、くららが・・・」


 

 私たちは死臭がこびりついた病院の霊安室に案内された。


 そこには白布を顔に掛けられて横たわる、物言わぬくららが横たわっていた。

 お義父さんもお義母さんも、ウチの両親も妹の晴美も、そしてくららの弟の健司君も泣いていたが、私は泣くことが出来なかった。

 泣くにはあまりに悲しみが深すぎて、くららの死を受け入れることが出来なかったからだ。


 (俺は夢を見ているのだ)


 そう思った。


 私はくららの顔に掛けられた、白布を取った。

 死化粧を施されたくららは、まるで眠っているかのようだった。


 警察からの説明によると、コンサートが終わり、アリーナから出て来たくららたちが横断歩道を渡っていると、雨で視界も悪く、脇見運転をしていたクルマが赤信号に気付かず、くららたち数名を跳ねたという。

 即死だったそうだ。


 朝、あんなに元気に出て行ったくららがもうこの世にはいない。

 私はそれ以来、ユーミンを聴くことも、くららの得意料理だったビーフシチューも食べることが出来なくなってしまった。


 私は後悔した。

 どうしてあの日、自分も一緒にコンサートに行かなかったのかと。

 そうすればくららは助けられたかもしれない。

 あるいは一緒に死ぬことが出来たのにと。



 そんなことを思い出していると、そこにくららが現れた。


 「またあの時のことを思い出していたのね?」

 「ああ」


 先程から雨が降り始めていた。


 「そんな顔しないの。こっちまで悲しくなっちゃうじゃない」

 「ごめん」

 「ねえ、ハワイに新婚旅行に行った時のこと覚えてる?」

 「もちろん。朝、ホノルルに着いて、午後にやっとチェックイン出来たよな?

 部屋に入るとフルーツの盛り合わせがどっさりとテーブルに置いてあり、ベッドにはプルメリアの花でハートが飾られていた」

 「その後エッチして、プールでひと泳ぎしたよね?」

 「それから夜、マーケットプレイスに出掛け、近くのレストランでTボーンステーキを食べた。大きなマイタイを飲んだよな?

 孫の手がマドラー代わりに付いていた」

 「その孫の手があのキャビネットに飾られたまま。

 もういい加減捨てたら? 彼女を連れ込んだ時、ドン引きされるわよ、孫の手なんて大切に飾ったりして」

 「いいよ、どうせそんなことは起きないから。

 くらら・・・」

 「なあに? あなた」

 「愛してるよ、くらら」

 「テル、私もよ。死ぬほど好き。

 違うわね?「死んでも」好き、テルのことが。うふっ」

 「くらら、俺も死んだらくららと一緒に暮らせるのかな?」

 「そんなこと考えちゃダメ。あなたには長生きして欲しいって言ったでしょう?

 三回忌が済んだら再婚してもいいわよ。あなたも独りじゃ大変だから」

 「そんなことをしたら、浮気になっちゃうじゃないか?」

 「浮気じゃないでしょう? 私とはもう出来ないんだもん」


 くららは笑った。


 「浮気だよ、その相手に対しての。

 こっそりこうしてくららに会っているんだから」

 「エッチもしないのに?」

 「浮気は体を合わせることじゃないよ。相手を愛しているかどうかだ」

 「出た、相変わらずのテルの屁理屈」

 「それにくららを越える女はこの世にはいない」

 「ありがとう、テル。

 もうじき夜が明けるわ。少し寝なさい、今日もお仕事なんだから。

 じゃあまた、雨の日の夜にね」

 「必ずまた来てくれよ」

 「うん」


 そしてくららは消えてしまった。


 東の空が明るくなって来た。



第4話 くららのピアノ

 その夜も雨だった。

 そしてまた、くららは来てくれた。

 私はズブロッカをロックで飲みながら、ショパンのノクターン第1番を聴いていた。



 「相変わらず好きね? ショパン」

 「また弾いてくれないか? ショパンのノクターンを。

 くららのショパンは最高だから」

 「しょうがないなあ」


 私はCDを停めた。

 するとくららはピアノを開けて演奏を始めた。

 さっきと同じ、ショパンの夜想曲第1番を。


 くららの美しい横顔。私はピアノを弾くくららが好きだった。

 それはまるで雨に音符が絡んで落ちて行くようなノクターンだった。



 演奏を終えたくららは言った。


 「けっこう狂っているわね? やっぱり主のいないピアノも悲しんでいるのかしら?

 矢吹さんに調律を頼んでおいてね」

 「俺にはすごくよく聴こえたけどな?」

 「私にはちょっと不満だなあ、だってもっといい演奏を輝明に聴かせたいじゃない?」

 「ありがとう、くらら。

 明日、調律を頼んでおくよ」



 くららが『幻想即興曲』を弾き始めた。

 鍵盤の上をバレリーナのように踊る、白くしなやかなくららの指。

 私は思わず見惚れてしまった。


 くららの弾くショパン。くららはもうこの世にはいない。



 くららが突然演奏を止めた。


 「どうしたの? そんなにうっとりした顔して」

 「くららの弾くショパンはやっぱりいいなあと思ってね?」

 「そう? ありがとう」

 「俺はくららをこの手で抱き締めたいよ、思い切り」


 くららは悲しそうな顔をした。


 「あまり私を困らせないでちょうだい。

 あなただけじゃないわ、私もあなたに触れたい・・・」



 私はアルバムを取り出し、くららの前に広げた。


 「覚えているかい? 君と初めて行った神戸を?」

 「懐かしいわね? 異人館に行って、店内に滝の流れている喫茶店に入って飲んだ珈琲、美味しかったなあ。

 私が『白い異人館』でステラおばさんみたいな服を着て、写真を撮りたいって言ったのに、賛成してくれなかったわよね? 酷い人。ふふっ」

 「覚えてないなあ、そうだっけ?

 でも洋服をたくさん買ってあげたじゃないか? もう忘れたのかい?」

 「もちろん覚えているわよ。気に入っていたもの、あの黒生地に白の水玉のワンピース」


 そしてくららがくるりと回転すると、そのワンピースの姿になった。


 「どうかしら? 似合う?」

 「そんなことも出来るのか?」

 「そうよ、そして自分がいちばん好きだった頃の姿でもいられるのよ。

 80歳のおばあちゃんで亡くなっても、18歳の女子高生にもなれるわ。

 だから私はテルと一番楽しかった時のままの姿でいるのよ」


 私は涙が止まらなかった。 

 涙がポタポタとアルバムに落ちていった。


 「あらあら、写真が濡れちゃうわよ、早くティッシュ、ティッシュ!」


 私はティッシュでアルバムに落ちた涙を拭いた。



 いつの間にか夜も明け、朝日の訪れと共にくららは消えた。


 私は酔いを醒ますため、ベランダに出て朝の空気に触れた。


 頭の中ではまだ、くららの弾くノクターンが鳴っていた。


第5話 出来ない約束

 「坂口課長、書類のチェックをお願いします」


 私が律子から書類を受け取ると、水色の少し大きめの付箋が貼られていた。


     今夜 ご飯に連れて行って下さい

     これは先日の罰ですからね♡


 私は書類に検印を押し、その付箋に「OK」と書いて律子に渡した。




 仕事を終え、私は律子にLINEを送った。


    肉と魚 どっちが

    いい?

 

             お肉が食べたい

             です♡


 

    上野の叙々苑で

    待ってる

    気を付けてね

    ゆっくりでいい

    から    

      

             わかりました♡



 私は予め叙々苑を予約して、ビールを飲みながら律子を待った。



 息を弾ませて律子がやって来た。


 「遅れちゃってごめんなさい。自分から誘ったのに。ハアハア」

 「私も今来たところだよ」

 「課長のそういうところ、好きです」


 律子はベージュのバーバリーのトレンチコートを脱ぎ、エルメスのスカーフを外した。


 ニットのボルドーレッドのワンピースが、形の良いバストを強調している。

 少し大きめのプラチナ・ネックレスが、胸元をよりセクシーに引き立てていた。


 「何を飲む?」

 「じゃあビールで」

 

 私は時間の掛からないセンマイ刺しとオイキムチ、チャンジャを注文し、タン塩、カルビ、シャトーブリアン、そしてハラミを注文した。



 「課長、乾杯しましょ」


 私と律子はお互いのグラスを合わせた。

 ここ2,3日は晴天が続いていて、くららとは会えない日が続いていた。

 だが、くららは俺の傍にいるはずだ。

 何となくそんな気配がしていた。



 「先日は君だけを残して途中で帰ってしまってすまなかった。今日はそのお詫びをさせてもらうから、たくさん食べなさい。

 ところでどうして付箋なんか付けたんだい?

 LINEでも良かったのに?」


 律子はビールを少し飲んでから私に言った。


 「だって、その方がドキドキするじゃないですか?

 周りに同僚たちがいるのに「秘密の恋」をしているみたいで」

 

 私は苦笑いをした。

 

 (確かに#秘密の恋__・__#)かもしれない。ここにはくららがいることを彼女は知らないのだから)



 次々と肉が運ばれて来た。

 私は七輪に肉を次々に載せていった。


 「苦手な物はある?」

 「レバー以外なら大丈夫です」


 タン塩を律子の皿に乗せた。


 「美味しいーっ! 最高の焼き加減です、課長」

 「たくさん食べなさい、若いんだから」

 「それ、セクハラですよ課長」

 「これもアウトか? あはははは」

 「でも課長なら許しちゃいます。私、課長にぞっこんですから」

 「光栄だな? 会社のマドンナの君にそう言われると」

 

 律子は肉を旨そうに食べていた。



 「先日も言いましたけど、私、課長をロックオンしちゃいましたからね?」

 

 くららが笑っている気がした。


 「その気持ちは嬉しいが、僕は家内を亡くしたばかりで、まだ恋愛を楽しむ余裕がないんだ。

 それに君とは年齢も離れている。

 君は美人でモテる。僕の出る幕ではないよ」


 律子はグラスを置いて、真っすぐに私を見た。


 「私、父を中学の時に亡くしました。

 母は高校の音楽教師をして私を育ててくれました。

 だから、ファザコンなのかもしれません。

 同年代や年下には全然興味がないんです。

 考えが幼な過ぎてついていけません。包容力がないんです。あの人たちには」

 「私も同じようなものだよ。包容力はないからね。

 寧ろ私の方がもっと幼稚かもしれない」

 「課長といると安心するんです、私」


 今度は律子が私の皿に肉を乗せてくれた。


 「私のこと、嫌いですか?」

 「小野君を嫌いな男性はいないよ。

 でもね、僕は妻のことが忘れられないんだ、これから先もずっと」


 私は少し温くなったビールを飲んだ。


 「ワインに変えようか?」

 「はい」

 「すみません、このワインをボトルで下さい」

 「かしこまりました」


 

 すぐにワインのボトルも空き、肉もかなり食べた。


 「冷麺、食べるか?」

 「もうお腹いっぱいです」

 「じゃあ、そろそろ出ようか?」

 「課長、少し運動しませんか?」

 「えっ?」


 私はヘンな想像をしてしまった。


 「運動?」

 「やだなー、課長。そういう運動じゃありませんよ、その運動の前の「準備運動」ですよ。

 ボーリングしません? 私、こう見えてもボーリング上手いんですよ。

 大学の時、ボーリング同好会でしたから」




 ボーリングをしたのは何年ぶりだろう?

 私は16ポンドのボーリングボールが少し重く感じたので、14ポンドに変えた。


 「課長、勝負しません?」

 「どんな勝負だい?」

 「課長が勝ったらもう課長のことは諦めます」

 「もし、君が勝ったら?」

 「私と付き合って下さい」

 「いいだろう、受けて立つよ」

 

 いくら学生の時にやっていたとは言え、所詮は女の子、私はその勝負を軽く承諾してしまった。


 (私が負けることはあるまい)


 私はそうたかをくくっていた。



 律子のフォームは完璧だった。

 膝下のワンピースのヒップラインと、流れるような曲線美に私は欲情した。


 彼女の投げたボールはフックし、センターピンを捉えるとすべてのピンを大きく吹き飛ばした。

 豪快なストライクだった。


 律子は軽くジャンプをして喜んだ。

 張りのある律子の胸が上下に揺れた。


 「課長! ストライクですよ! ストライク!

 私、女子の大会で準優勝したこともあるんです。

 週末のボーリング場主催のイベントですけどね?」


 律子はそう言って微笑むと、私にハイタッチを求めた。


 律子の掌は少し汗ばんでいた。

 それが私にはとても淫らに感じた。


 (いいのよ、この娘さんとしても)


 くららが面白がって見てるような気がした。


 (くらら、僕は君だけを愛しているんだ)



 2ゲームをした。彼女のスコアは205と223。私は1ゲーム目が135で、2ゲーム目は少し勘を取り戻したが168止まりだった。


 私は律子に完敗した。



 「課長、私の勝ちですね?」

 「ああ、負けたよ。すごいね、小野君は?」

 「課長、約束ですよ」

 「・・・」




 私たちは上野公園を宛ても無く歩いた。

 人気のない、暗い夜の公園。


 律子は急に立ち止まると私にキスをした。

 それはかなり濃密なキスだった。

 私は律子の好きに任せていた。


 「課長の嘘吐き! 負けたら私と付き合うって約束したじゃないですか!」

 「すまない小野君、私は妻をまだ愛しているんだ! そしてこれからも僕が死ぬまで永遠に!」

 「死んじゃった人はもう戻っては来ないんですよ!

 連れ合いを失ったら恋をしちゃいけないんですか!

 そんなのおかしいです!

 こらからも課長の人生は続くんですよ!

 それで亡くなった奥さんは喜ぶんですか!

 私の母も亡くなった父を愛していました!

 でも5年経って母は再婚しましたよ!

 父も天国で喜んでいてくれているはずです!

 だってそうでしょう! 愛した人がしあわせになるんですもの!

 それを喜ばない訳がないじゃないですか!

 もし課長が奥さんの立場だったらどうです! 奥さんがずっと独りで寂しそうに悲しみを抱いていることを喜びますか!

 そんなことないでしょう!」


 律子は号泣していた。

 私は律子をやさしく抱き締めた。それは恋愛感情としてではなく、自分の娘を労るように。

 

 満月の夜だった。

 秋の夜風が歩道の枯葉を揺らしていた。


第6話 独りよがりの愛

 「どうしてあの日、あの娘を抱いてあげなかったの?」


 くららはダイニングテーブルに頬杖を突いて、笑って私を見ていた。

 1週間ぶりの雨の夜だった。



 私はあの日、律子を彼女の家まで送って行った。


 「課長、送っていただきありがとうございました。

 今夜もとても楽しかったです」

 「じゃあ、おやすみ」

 「少し寄っていきませんか? 散らかってますけど」

 「ありがとう、君も疲れただろうからゆっくり休むといい」


 そう言って、歩き始めた私を律子は呼び止めた。


 「課長、またご飯食べに連れて行って下さいね? 約束ですよ」


 私は振り返らずに右手を軽く挙げてそれに応えた。

 私は律子を抱く気にはなれなかった。



 「妻の見ている前で他の女は抱けないよ」

 「あら、ということは私に見られなければ「しちゃう」んだ?」

 「くららとならしたいよ」

 「昨日、自分でしてたじゃない? かわいそうに。

 いいのよ、男の人は溜まっちゃうから仕方がないもの。

 それに彼女の言っていたことってその通りだと思う。

 私はあなたがしあわせならそれでうれしいの。

 あなたが寂しい顔をしているのを見ているのは辛いわ。 

 一度、彼女とお付き合いしてみたらどう?

 私なら構わないわよ。その時は見ないようにしてあげるから」

 

 私はマッカランの25年をキャビネットから取り出し、氷を入れたグラスに注いだ。


 「くらら、俺は君をずっと愛していたいんだ。こうして雨の夜にくららと会えれば寂しくはないよ」

 「うれしいっけど嬉しくないなあ。

 人はね、いつまでも若くはいられないものよ。テルはもう若くはないのよ、身体も衰えて行くわ。

 三大欲求を満たすことは生きていくには必要なことよ。食べて寝て、そしてエッチして。

 そのうちエッチも出来なくなるけどね?

 でもね、人肌っていいものよ。安心するわよね? 人の肌の温もりって。

 誰かが傍にいてくれるって素敵な事よ。

 辛いことは半分になるし、喜びは何倍にもなる。

 私は大丈夫、テルにたまに想い出してもらえたらそれでいいの。

 それに・・・、そうすれば私も安心して成仏出来るし」

 「えっ」

 「あなたに会えるのはうれしいわ。でも私がこうしているのはあなたのことが心配だからなの。だからお願い、私を心配させないで」

 「くらら・・・」


 私はタバコに火を点けて考えた。


 (もしかすると私がくららが天国に行くことを邪魔しているのかもしれない)


 「テル、お願いだからこれからの自分のしあわせを考えて欲しいの。

 それが私の幸福でもあるのよ」

 「ゴメン、くらら。君の事もよく考えずに我儘を言って」

 「死んじゃった私には、もうあなたに何もしてあげられない。それが辛いの・・・」


 そしてくららは消えた。


 私はくららを想い続けて生きることが、本当の愛情だと思っていた。


第7話 逆さのテルテル坊主

 「課長、お昼ですよ」

 「ああ、もうそんな時間か?」


 顔を上げると律子が微笑みながら私のデスクの前に立っていた。


 「ランチ、ご馳走して下さい。デザート付きで」

 



 私は律子と昼食を食べにオフィスを出た。



 「課長、そんな暗い顔しないで下さいよ。

 この前のことはもう気にしていませんから。

 課長は何が食べたいですか?」

 「ごめん、ちょっと考え事をしていたんだ。

 小野君の好きな物でいいよ」


 私はくららのことを考えていた。


 (私がしあわせにならないとくららが成仏出来ない?

 くららは私を心配している。

 私がくららを苦しめているということなのか?

 私はただ・・・)



 「じゃあ『ロズウェル』のランチで。

 お肉とお魚が選べて、レアチーズもついて1,280円ですから! ふふっ」

 

 律子はうれしそうだった。


 

 店は昼食時ではあったが満席ではなかった。

 私たちはすぐにテーブルに案内された。


 給料日前の千円越えのランチは、サラリーマンやOLたちに敬遠されていた。

 ビジネス街の昼食代は基本的に1,000以下か、逆に3,000円以上のパワーランチだ。

 殆どの男性社員のランチはワンコインだった。

 だがワンコインで食事を済ませようという男は、すでに出世コースから外れているとも言える。

 なぜならランチを軽んじるサラリーマンの仕事はマンネリで、進歩がないからだ。

 

 「安く食えれば何でもいい」


 

 1,000円台のランチは中途半端な食事だ。

 貧弱でもないが、かと言って豪華でもない。

 見てくれだけの女子ウケする物が多い


 「私はカレイのソテーで。飲み物は食後で温かい紅茶を。

 課長はどうします?」

 「私はサーロインでアイスコーヒーを食後で」

 「かしこまりました」



 食事をしながら律子が言った。


 「課長、今度はお寿司が食べたいです。

 回らないお寿司屋さんに連れて行って下さい」

 

 会社にいる時の律子は髪をアップにして、聡明な美しさがあった。

 

 (私はこんな若い女に好かれているというのか?)


 「いつでもいいよ。君の都合のいい時で」

 「じゃあ今度の金曜日はどうです?」

 「いいよ」

 「やったー、楽しみにしていますね?」


 私は今度のデートでは自分の欲望に抗う自信が無かった。




 今夜は満月だった。

 私はヘネシーをグラスに注ぐとベルリンフィル、カラヤン指揮のブラームスのレコードを掛けた。



     ブラームス作曲『交響曲第1番』



 先日、ピアノの調律を終えたばかりだった。

 私はピアノを開け、人差し指で鍵盤を叩いた。



 ピアノの調律をしながら調律師は言った。

 

 「誰がこのピアノを弾いてくれるんですか?」

 「私が練習しようと思ってね? 四十の手習いだよ」

 「そうでしたか? それは良かった。この子も喜ぶことでしょう。誰も弾いてくれないピアノはかわいそうですから」



 このピアノもまたくららが弾いてくれることで喜んでいるに違いない。

 私はくららのピアノをそっと撫でた。


 あんな若い娘に告白されて、悪い気はしない。

 くららが生きていたら、私はおそらく自慢したはずだ。


 「今日、会社の若い美人社員から告白されてさあ、俺もまんざらでもないだろう?」

 「はいはい、それは良かったわね? 畳と女房は新しい方がいいもんねー」

 「でも、俺には素敵な奥さんがいるからね? たとえ中森明菜から告白されても俺は「Yes」とは言わないよ」

 「本当に? 山口百恵でも?」

 「百恵ちゃんでもだ」

 「じゃあ、キャメロン・ディアスでも?」

 「うーん、キャメロンかあ?

 ちょっと悩むけどやっぱりくららの方がいい」

 「何よそれ、どうしてキャメロンだと悩むのよ? コラーッ!」


 そう言ってくららは私の頬を軽く抓って笑うはずだ。


 でもくららはもういない。

 くららには雨の夜にしか会えないのだ。

 


 私はテルテル坊主を作った。

 そしてそれをベランダに逆さに吊るした。


 子供の頃、遠足が晴れるようにと母とテルテル坊主を作った。


 「輝明、ちゃんと頭が上になるように吊るすのよ。

 逆さまにすると雨になるから」


 私は毎日、夜が雨になることを祈った。


第8話 別れの曲

 約束の金曜日がやって来た。

 五反田の寿司屋で食事を終え、私と律子はショットBARへ移動した。


 「あのお寿司屋さん、よく行くんですか?」

 「回転寿司は苦手なんだ。あの店には鮨を食べに行くというより、酒を飲みに行くという感じだね。

 もう若い頃のように沢山食べることもないし」

 「私も回転寿司って駄目なんです。なんだか追い立てられているみたいで。

 それに、自分が狙っていたお皿がひょいと途中で盗られてしまったりすると「あーあ、盗られちゃった」ってがっかりするじゃないですか?

 だから回転寿司は嫌いなんですよ。

 せっかく回って来た「課長」というお皿を誰にも渡したくない・・・」


 律子は私に寄り添い、膝を寄せて来た。


 「誰も取らないよ、ネタが干からびて、シャリも乾いてしまった僕の皿なんて。

 僕は誰にも取ってもらえない、いつまでも回っている寿司皿だよ」


 律子は私の手に自分の手を重ね、耳元で囁いた。


 「私を食べて下さい」


 私は川の向こうで手を振る律子に、舟を漕ぎ出すことを決めた。

 くららのことを忘れて。





 ベッドでの律子はまるで別人のようだった。

 敏感でしなやかな肢体。私は久しぶりに自分の中に封印した男の野性を解放してやった。

 彼女の控え目な乳房を揉みしだきながら、潤んだ中心の蕾を丹念に舐めていると、時折、律子のカラダがピクンと反応し声が漏れた。


 「う、うんっ、はあ、はうっ、あっ・・・」


 エクスタシーに負けまいとする、苦悶する律子の顔は男心に火を点けた。

 私がベッドヘッドに置かれたコンドームに手を伸ばそうとすると、律子がそれを制した。


 「ゴム、嫌いなんです。私」

 「じゃあ外に出すね?」

 「今日は大丈夫な日ですから、そのまま中に出して下さい」


 私は律子の足を広げ、挿入を始めた。

 律子はかなり本気のようだった。

 女が「大丈夫」と念を押す時は、大抵は「大丈夫ではない」という時だ。

 私は律動を繰り返しながら外に射精するタイミングを図っていた。

 顎を上げ、喘ぐ律子を眺めながら。


 彼女の呼吸が次第に早くなり、言葉も短くなっていく。


 「あ、あ、あ、うっ。あ、あん、い、い・・・」


 それはフェイクではなく、オルガスムスの瞬間が迫っていることを示していた。

 本当に行為に没頭している時には「イキそう」などと言っている余裕はない。

 それは演技の場合が多い。女とはそう言う生き物なのだ。


 「あうっ」


 彼女が短い感嘆詞を発し、クライマックスを迎えたことを確認すると、私は自分を引き抜き、律子のヘソのあたりに射精した。


 ガクンガクンと弓なりになり、口を真一文字に結んだ律子はやがて口を半開きにして動きが停まった。

 彼女の体が痙攣が始まると、私は彼女に快感を与えることが出来たことに満足だった。


 その時、くららの気配を感じた。

 私の背後でくららが泣いているような気がした。



 落ち着くと律子は言った。


 「初めてです、セックスでイッたのって。

 欲を言えば、中にしてくれたら気絶してたかも。

 中で大丈夫って言ったのに。

 流石に大人の男性は違いますね?」

 

 (くらら・・・。これで本当に良かったのかい?)


 「課長? これからは課長のこと、「輝明さん」って呼びますからね? 輝明さん」

 「・・・」

 「私のことは「りっちゃん」って呼んで下さい」

 「律子」

 「ちがう、りっちゃんでしょ?」




 外はシトシトと雨が降っていた。

 自宅マンションの玄関を開けると、ショパンのノクターンが聴こえた。

 くららがノクターンを弾いていた。

 酷く悲しいノクターンだった。


 「お帰りなさい。おめでとう、テル」

 「ごめん、見ていたのか? 君の気配を感じていたよ。あの場にいたんだろう?」


 くららは再び演奏を続けた。


 「いたわよ。でも見てはいないわ。見たくなかった。

 耳も塞いでいた。そういう趣味は私にはないから。

 うまくいくといいわね?「りっちゃん」と」


 おそらくくららは見ていたはずだ。

 怒りと悲しみ、そして愛の籠った複雑な心境で。


 「以前のピアノに戻ったのね? とてもいい音。ありがとう、あなた。

 どう? 素敵なショパンだったでしょう?

 じゃあ次はこの曲を」


 くららは『別れの曲』を弾き始めた。

 


 演奏を終えるとくららは言った。


 「今度こそしあわせになってね? 私の分まで。

 ありがとう、輝明」


 それ以来、くららは雨の日の夜にも私の前に現れることはなかった。


最終話 銀の架け橋

 私の一番好きだったショパンの『ノクターン 第1番 変ロ短調』

 悲しみに傷ついた心に突き刺さる、高音域の鍵盤の音に涙が溢れた。


 「くらら・・・」


 私はくららを愛し過ぎた。




 律子とホテルのスカイレストランで食事をした。

 律子はいつもよりドレスアップをし、優雅に食事とワインを楽しんでいた。


 「ずっと憧れだったんです。課長を下の名前で呼ぶの」

 「・・・」


 大きなガラスウォールには、銀河宇宙のような明かりがパノラマに広がっていた。

 ガラスに映る私と律子。

 律子は私のグラスにワインを注いでくれた。

 

 「私、入社してからずっと輝明さんが好きでした。

 会社に来るのが楽しくて、うれしくて。

 あなたに会える、あなたと一緒に働ける、それだけで私はしあわせでした。

 だってあなたには奥さんがいたから。

 私には不倫する勇気はありませんでした。

 奥様に悪い気がして。

 同じ立場だったら絶対に嫌だろうと思うから。

 奥様がお亡くなりになって、輝明さんも会社を辞めてしまった時は絶望しました。

 でも、諦め切れなかったんです、私。

 そして輝明さんが会社に復帰すると聞いた時、私は天にも昇るような気持ちでした。

 私の輝明さんへの想いは恋を越え、愛に進化したんです。

 私は奥様を亡くされたあなたを癒してあげたい・・・」


 律子の手が止まり、彼女はナプキンで涙を拭った。



 「ありがとう、そこまで私を思ってくれて。

 君は魅力的な女性だ、男なら誰もが君と付き合うことを望むだろう。

 でもね、私にとって妻は特別な存在なんだ。

 妻が死んだ時から僕も死んだんだ。

 僕はもう、誰も愛することが出来ない。

 自信がないんだ、人をしあわせにする自信が。

 人は誰もが死を迎える、頭では理解している。

 ここで食事をしている人たちも、このメガロポリスの灯りの中で生きている人すべてが死ぬということも。

 そしてもし、今度は律子が僕より先に死んだらと思うと、僕は二度と立ち上ることは出来ない。

 僕は律子を笑顔にする自信がないんだ」


 すると律子は言った。


 「笑顔は人にしてもらうものではないわ。自分でなるものよ。

 楽しいから笑うんじゃない、笑うから楽しくなるの。

 だから輝明さんにはそれを求めはしない、私が輝明さんを笑顔にしてあげる。

 だからお願い、これからもずっと私と一緒にいて欲しいの」




 私は無意識のまま、茫然とホテルの部屋にいた。

 ソファで私に寄り添う律子。

 雨が降って来た。


 目の前にくららが立っていた。

 だが律子にはくららの姿は見えないし、声も聞こえない。



 「いいのよあなた、この子は本気であなたを愛してくれているわ。

 彼女ならあなたをしあわせにしてくれると思う。

 私があなたにしてあげられなかった分まで。

 だからお願い、彼女の愛を受け止めてあげて」


 私はくららを見詰め、泣いた。


 「それじゃああなた、天国で待っているわね?

 焦らないでゆっくり来てね?」



 私はくららを抱くように、律子を強く抱き締めた。


 「輝明さん・・・」


 律子の香水はくららと同じ、シャネルのアリュールだった。


 その夜、私は何もせず、律子と朝を迎えた。

 律子は私に抱かれたまま、静かに眠っていた。





 ここ2週間、雨は全く降らなかった。

 私はくららに会えない寂しさから、日増しに酒の量が増え、また以前のように多くの酒瓶が部屋に転がっていた。

 私は忌々しい太陽を避けるため、遮光カーテンは閉じたままにしていた。

 テレビでお天気お姉さんが天気予報を告げている。


 「本日も絶好のお洗濯日和になるでしょう!

 それでは今日の占いです! 今日、最も良い星座は・・・」


 私はテレビを消し、鋏を持ってベランダへ出た。


 「テルテル坊主 テル坊主 今夜は雨にしておくれ しないと首をちょんぎるぞ・・・ テルテル坊主 テル坊主」


 私はそう歌うと、テルテル坊主の首に鋏を入れ、首を刎ねた。


 ベランダの床に、ポトリとテルテル坊主の首が落ちた。

 



 その夜、テルテル坊主の祟りなのか、予報に反して稲妻が夜空を走り、雷鳴が轟く激しい雷雨になった。


 くららが隣に立っていた。


 「どうしてテルテル坊主さんの首なんか切っちゃったの? かわいそうでしょう? 雨は必ず降るものよ」

 「くららに会いたくて、死にそうだったんだ」

 「馬鹿なひと。言ったでしょ? いつもあなたの傍にいるからねって」

 「会えなきゃ嫌だよ、くららの顔が見たいんだ。

 くららと話しがしたい、声が聞きたいんだ」


 私は泣いた。


 「そんな子供みたいなこと言わないの。

 どうして律子ちゃんを抱いてあげなかったの?

 そうすれば寂しくないのに。

 いいのよ、もう私のことは忘れても・・・。

 私は輝明の笑顔が好き、そんな悲しい顔は見たくないわ」

 「君を忘れることなんか出来ないよ! 増してや他の女を抱くなんてもう無理だよ!

 愛した女はくららだけだ!」


 くららは悲しそうな顔をした。


 「じゃあもし、あなたが私よりも先に死んで、私があなたみたいに毎日浴びるほどお酒を飲んで泣いてばかりいたら、輝明はうれしいの?」

 「今は君の話をしているんだ! そんな例え話なんか聞きたくもない!

 僕は益々、君を失った悲しみから抜け出せない!」


 くららは困ったように言った。


 「ごめんなさいね、私があなたの前に現れたばかりにかえって輝明を苦しめてしまったようね?

 私もあなたに会いたかったの。そしてあなたに立ち直って欲しかった・・・」

 「くららあーっ!」


 私は思わずくららを抱き締め、激しくキスをした。

 そのカラダと唇は、まるで氷のように冷たかった。

 

 私は遂にくららとの約束を破ってしまった。


 「どうして、どうしてこんなバカなことを・・・。

 あんなにダメだって言ったのに・・・」


 くららの身体がどんどん透けていった。


 「サヨナラ、あなた・・・」

 「くららーっつ!」



 私は再びくららを失ってしまった。



 私はボトルに残ったラフロイグをラッパ飲みし、ショパンの『別れの曲』を掛け始めた。


 カーテンを開けると雨は止み、大きな満月が浮かんでいた。

 夜空には「銀の虹」が掛かっていた。


 私はマンションの窓を開けるとベランダへ出た。

 すべての音が止んだ。

 私はそのままマンションの9階のベランダから飛び降りようと、発作的に手摺に手を掛けた。


 その瞬間、くららが私にしがみ付き、泣き叫んだ。


 「死んじゃダメーーーッ!」

 「くらら・・・」


 私の体から力が抜け落ちた。


 「あなたを死なせない! 絶対に!

 私があなたを守るから!」


 そしてくららは消え、『別れの曲』が聴こえていた。


 カーテンが静かに揺れていた。

 まるでくららが私に手を振っているかのように。 

              


         『雨の夜 君とノクターンを』完


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【完結】雨の夜 君とノクターンを(作品230319) 菊池昭仁 @landfall0810

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