九龍偏屈作家譚〈渾渾沌沌の街の人間模様を、好奇心のまま暴くから巻き込まれるんですよ!?〉

具屋

第1話 偏屈物書き女・武原紙魚

「ああ!ああ!この男の情念を表す言葉を見つけられない歯痒さ焦燥感苛立ちに憎悪!ヒトの交合を文字に落としこもうということがそもそもの話傲慢やる形ないことなのは千も承知、しかし生まれついての作家というものはそうせなければ生きてゆけない業の深い生き物!まるで自分の尾をはむかのような生き様よ!どうか哀れと嗤ってくれるか友よ!」


九龍街111階南角部屋六畳一間クーラーなし、混沌ひしめく街のその一角で、その女は書き損じたのであろう原稿用紙を空中に撒いてそう叫んだ。


尋常とは言い難いその様子、紙のちらばったその暑苦しい室内。襦袢姿でどすどすどすと足音を踏み鳴らしながら部屋を歩き回る彼女を、彼女の飼い猫がうしろからついて行く。どうやら遊んでもらっていると思っているのだろう。


混沌と狂気とほんでもって無垢なものがしっちゃかめっちゃかになっているその様子を、友よ、と呼びかけられた女は煙草を咥え笑って見ている。


「わはは、笑おう笑おう。…さてさて武原せんせ、どうも書き物は行き詰まっている様子やけんども。私から言わせてもうたらそらせやん?ここ数年でいっとうの酷暑!ホモ・サピエンス犇めくこの九龍街!おまけにえろう日当たりのいい西向きのお部屋!なんとまあ不快指数の大三元ときた、ここまで執筆に向かん環境が揃うこともそうそうあるまい?」


そこで提案や──────


「私と冷た〜くて甘〜いもん、食べいこ?」


武原せんせの印税で。


ぐわんぐわんと窓の外から大量の室外機の音。

クーラーのある部屋に住める金持ち共が出している騒音と思えばより腹だたしい。いまのところ目の前の女──────五厘凪のへらりとした忌々しい顔よりも、だ。


そして五厘の言う通り、書き物が行き詰っているという焦り、こくこくと迫る締切、汗でじとりとした襦袢…多少思うところはあるものの、その誘いに乗るのもまあ悪くはなかろうか、とゆだった頭で彼女は判断する。


「…95階の餡蜜屋。もしくは同階の木心茶館しか認めん。あと10分で支度する、五厘先生は部屋の外に出ていてくれたまえ。覗くなよ?」


「覗けへん覗けへん。ぜーったい覗けへんよ。ほんまほんま。な?げんちゃん?」


にゃおにゃおと武原に語りかけていた飼い猫に五厘が声をかけると、彼は警戒するようにすんと押し黙る。賢い子だ、己が愛する飼い主を五厘が連れゆこうとしているのを気配で察知しているのだろう。


「嗚呼、お前は賢いね、すぐ戻るよ。だから冷風室に入っていい子で待っておいでね。」


この街で小型の生き物を飼うに必須である冷風室に、武原は彼が過ごしやすいようにと柔らかな布をひいてやる。それがここ最近飼い主の外出の合図であると悟っているゲンは、どことはなくより胡乱気な目を五厘に向けた。


「やあやあ、なにもそんな顔で見なくてもええやん。嫌わんといてぇな。」

「……不誠実の権化といっても過言でなさそうな貴女だぞ?ゲンちゃんは女を見る目がある。…ああそれから私は着替えると言ったはずだが?デリカシイというものを少しは学んでは如何です?」

「ひゃあ、えらい言い草。神経逆立ちすぎとちゃいます?そない言わんでも出ときますぅ」


やれやれと言ったような顔で、白いシャツを翻し五厘が部屋を出て、彼女の煙草の燻した紅茶のような香りが漂う。武原も喫煙者ではあるが、そう言った香りの付いたものは愛用しない。


しかしこの香りが漂えば、たしかに五厘のことを思い出すだろうと思う。そういう事まで計算づくであろうから、相も変わらず軟派な女だ。


じっとりとした襦袢を床に落とし、冷水を通した手ぬぐいで簡単に体を拭う。その間に何を着るかぼんやり考えて───とかく、目にも涼しい柄がよかろう。

箪笥から紫陽花の注染浴衣を引っ張り出し、簡単に身に纏う。その上にとっときの絽の袴を履き、髪を簡単にゆえば、出かける支度は終わりだ。

鏡で全身を確認し、良い塩梅だとうなづく。外出用のハンドバックを掴んで玄関の戸を開けると、共用廊下でしゃがみこんで待っていたのであろう五厘がおう、と軽く手を上げる。


「いやあせんせ、相変わらず洒落てはるね。その袴、夏用のええやつやろ。ちょいとオヤツがてらの外出なんかに来ていってええもんなんかいね?」

「服は好きな時に好きな物を着るべきだ。TPOさえ弁えればな。私はそういう主義だ。そもそも、いいものだからと箪笥の奥深くにしまい込んで年に1度や2度着るだけなぞ、それこそ服に失礼だと思わんか?宝の持ち腐れ甚だしい」

「それは素敵な主義やねえ。しかしいやはや、洒落た別嬪さんと歩くのは緊張してまうなぁ。」

「世辞はいい、早く行こう」


はいはい、と五厘が立ち上がる。ふたり連れ立って歩くのはいつもの事であるし、先程も世辞はいいときっぱり言われてしまってはいるが、とみに洒落た相手と並ぶというのはなんとはなしに緊張してしまうものだ、と五厘は思う。

自身に服のこだわりが無いというところもあるのだろうか、彼女のそういった主義や装いは、目に新しく楽しい。


「しかし最近はいやに暑いな。突然この九龍の人口が増えたわけでもなかろう?最早石油燃料も使わなくなって数百年経つ位なのだから、温暖化とやらも進んではいないはずだが」

「さあ?一般人の五厘先生にはとんと分からんねぇ。」


びょう、と熱風が吹く。短い茶の髪を五厘がかきあげ、ほんまかなんわ、と笑った。





25× × 年。

2000年代に起こった急激な海面上昇から逃れるため、人類は上へ上へと街を作った。

国の境界線は徐々に薄れ、国家という存在も破綻してゆき、残ったのは混じりに混じった有象無象の人間と、縦横無尽に広げられた滅茶苦茶な街並み。


暴力も言論も宗教も通貨も魔術も血族も入り乱れた混沌、しかしてヒトというのは群れを生して生きながらえた生物である。


そう、自警団・宗教団体・大店、───まあ最もどのような思想を主軸にしているかはこの際問わないが、自治組織が各地で生まれ始めたのだ。


とかく現在は、かれらが大小様々な地域を治めている。それらによって、一先ず混沌とした世界は、安寧を手に入れた。


それが永遠のものか仮初のものかは今はまだ解るはずもないが────とにかく。


とにかく我々は、しっちゃかめっちゃかに混じりあったこの〈九龍〉で、面白おかしく生きてゆくしかないということである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る