第7話 娼館の小間使い・柘植律
「まさか私が花街に繰り出す日が来るとはな…」
普段は来ることの無い87階の西側に、その日武原は足を踏み入れた。まだ日が高い時刻を選んだとはいえ、先程からすれ違うのは娼館の小間使いであろう汚れた身なりの少年か、昼間から事を致そうとやってきた酔狂な情人どもばかりである。
構造的に陽の光が入らない常夜のエリアとはいえど、まあこんな時間からお盛んな事だ、色事にそう興味を持たずして生きてきた武原は呆れ半分興味半分で思う。
しかして異様な雰囲気ではあるな、武原は改めて町並みを見渡した。店々に掲げられたネオン看板や提灯は夜になれば点るのであろうが、いまは煤けた姿を晒すばかり。店のシャッターは閉められ、窓にはカーテンが引かれている。生きものの眠る気配、しんとしたその静寂は、この九龍街において珍しいものだ。
夜にしたって煌々と明かりが町中につくし、酔っ払い共の喧嘩に工事の騒音、そういったもので溢れかえるのがここの常。
夜とも違う、昼とも違う。そんな特殊な雰囲気に、成程ナアと武原の視線は観察時のそれになってゆく。
目当ての店はそう難儀することなく見つかった。緑の塗装の建物は、他に比べればやや豪奢な、洋風の佇まいである。こんな娼館が贔屓?まったくあのひとのどこにそんな金があるのか、どうせまともな出処ではあるまい、とため息の出るような心地がした。
アポは取ってあるから、と嘯いた五厘の言葉を信じ、兎角武原は金のドアノブを引いた。その重厚の作りからは想像し得ないような滑らかさでそれは開く。
「いらっしゃいませ?…………やあ、貴方様がお話のあった武原様でしょうか?」
玄関口に小さな陰。武原を迎え入れたのは、齢17、8といったところか、褐色の肌に藤色の髪の少年。水色の瞳はどことなく冷え冷えとしており、見るものに妙な不安感を与えた。こういう予感はいやに当たるんだよなァ、と武原は思う。
「嗚呼、その通りだ。話が通っていたようで何より、なんせあの女はご存じのようにちゃらんぽらんだからね。兎角、慣れん場所で右往左往する羽目にならずに済んで良かったよ」
「あはは。それは良かった。…さて、武原さん。立ち話もなんでしょう、翠の部屋をご覧になりたい、との事でしたね?部屋と言っても娼婦に充てられた所謂───その、仕事部屋ですけど。」
「何構わん、見せて頂けるだけで僥倖さ。」
ではこちらへ、と軽やかな声で少年が武原に背を向ける。じじ、じじ、とどこかの蛍光灯から断続的に鳴る音が妙に大きく響いていた。
薄暗い廊下には、規則的に扉が並んでいる。こつこつと迷いなく進む案内役の少年の後を追いながら、武原はふうむと辺りに視線をさまよわせた。
「こちらです。いまお開けしますね」
ある扉の前で立ち止まった少年が、ポケットから鍵束を取りだした。
ひとしきりがちゃがちゃと鍵束から目当ての鍵を探す少年に、ぼんやりと武原が語り掛ける。
「…しかし今更だが、女ひとりのために見ず知らずの私をここまで引き入れ、あまつさえその行方を探して欲しいと言うのは妙な話だな?突然相次いで女が消えたとて、こんな場所ではそのようなこと、日常茶飯事だろう。採算が合わないならばやくざらしく女の家族だのなんだのを質に入れてやれば良いだけだ。それでも足りない程の借金が?それとももっと…別の理由があるのかね」
目の前の少年の背中に語りかけると、ぴた、と鍵束から鳴っていた金属音が不自然に止んだ。
はぁ、とひとつため息をついた少年が、にこりと笑って武原を見遣る。
「いやぁ、…………武原さん。僕ただの小間使いですから。上の人の考えることは分かりませんし、それにやくざだなんて大袈裟ですよ」
「そうかい?あなたたちのその生業は…所謂やくざみたいなもんだろう。しかしてあなたのようなひとが私に接触をはかる理由がまず分からんな。…ふむ、私は知らん間にいらぬ事に巻き込まれたようだ」
「うーん、だから考えすぎですってばぁ」
「…注意深く見ることを怠らなければあなたが小間使いなんてものでは無いことなどすぐに分かる。はぐらかすのなら指摘するしかないが構わないかい?」
薄暗闇で武原がにやにやと人の悪い笑みを浮かべるのを見て、少年ははぁ、とひとつため息をつく。気だるげに髪をかきあげ、指先で鍵束を弄りながら、彼は返事をした。
「……まあ、聞きましょうか?」
「…まず君のその手首だ。褐色の肌で分かりづらいが、左手首の周りだけ薄ら肌色が薄い。所謂時計焼け、というものだろう。この店は娼館だ。店のあちこちに時計が配置されているのだから、水周りの世話が多い小間使いが腕時計をつける意味が無い。」
「ふんふん、なるほどなるほど」
「そして2つ目だが、見る限り87階は排水構造が他階よりも脆弱だろう。だからここで日々働くものであるならば、乾いていたとしてもその靴は廃水による染みができていなければおかしい。…そして最後に、隠しているようだったが鍵を探す際屈む動きの際に少し動きが常人と違った。銃のホルスターの位置にありがちなのは太腿、腕、もしくは胴。まあ胴だろう?その服装であれば。」
「なるほど。見事な推理でびっくりしちゃいました。…まあうん、はぁ、僕が小間使いでは無いとしてですね、それ以上に厄介な何かだとは思った訳でしょ?」
「まあそうだな」
気の抜けた返事に、今度は律が胡乱気な顔になる。
「それならこんな…いっそ楽しむみたいに暴くやり方が、危険だと思わなかったんですか?はぁ」
ため息と呆れ混じりの問いかけに、武原は可愛らしくくすくすと微笑んだと思うと、そのまま笑みを深くする。
「ふ、ふふ!…危険だと思わなかったのかだと?嗚呼そりゃあ思ったさ!思わない訳がなかろう?しかし貴方、ここを何処だと心得る?支離滅裂で暴虎馮河、まさに渾渾沌沌の権化、九龍だぞ?暴けるものは暴く、それがこの街で楽しく過ごす極意さ」
大仰な身振り手振りは舞台役者もかくや。ひらりと腕を動かす度に舞う浴衣の袖が暗い空間でなまめかしく揺れる。陰翳礼讃、そんな言葉が柘植の脳裏を過った。
「ひぇえ〜…、命がいくつあっても足りなく無いですか?やばい人だなこのひと…いや、まあ、いいか。えーと、武原さんといいましたか?すこしこちらもお伺いしたいのですが…」
「ふむ良いだろう。なんでも聞きたまえよ」
「尊大だな〜〜…。いやはい、まあ、そもそも貴方は何故ここで女性が消えたことを知ったのです?見るからに場所慣れなぞしていない貴方が。」
やれやれ、と少年はため息をついて髪をかきあげた。心底面倒だと言うような表情をもはや隠しもしないのは、先程のゲームが当たりだった証左と見て間違いないだろう。
「まあなに。消えた女の贔屓客が私の知人だったのさ。謝礼は弾むとの事だし、奴に借りを作るのは悪くない。ましてや何があったか…隠された事実を詳らかにするのは私の好むところだ。要するに私は何も求めちゃいまい。何が起きたか、それだけが欲しいだけの狂人さ」
「えぇ。やだな〜関わりたくないな……。はぁ…それで、その知人、と言うのは?」
「それこそあなた達であれば把握していらっしゃるのでは?飼い猫の贔屓客の身元なぞ、既に手中であらせよう」
「……………それはまあ、まあね。ふうん、……なるほどそれでその石を持ってらしたと」
「……ふふ、そこまでお見通しとはな!これではどちらが探偵役かわからないじゃないか」
「言葉遊びは苦手なたちでしてね。話は早ければ早いほどいい主義なんです。」
「なるほど、やくざらしい実務主義だな。…しかしまあ、私は現時点では何も知らないただのお使いさ。私を締めても分かることは何もないよ」
「でしょうね。しかしまあ……」
「…………そういう遺物を貸し借りできるほどの仲なのですね、貴方は。………かの一角と」
その言葉と共に、少年の瞳が剣呑に細められる。不意に浴びせられる殺気に武原は一つ喉を鳴らして、それでもなお笑みを崩さない。
「おや、その物言いは。一角殿の持つ遺物にさぞさぞご興味がある様子だが……少なくともこれではなさそうですがねぇ」
指先でふらふらと遊ばせていた鍵束を不意にぴた、と少年は止めた。再び上げた顔には先程までの人懐っこい笑顔が貼り付けられており、武原は舌を巻く。
「はは、失礼致しました。……さて、案内も済んだことです。あとはじっくりおひとりでどうぞ。必要があればそこのベルでお呼びつけくださいね。では、失礼」
「ともに見なくてよろしいので?」
「……お気遣いは無用ですよ、武原先生。では」
ぱたん、と少年はそう言い残し扉の向こうへ消える。小間使いにしてはやけに爽やかな香のかおりが残っていて、武原はがしがしと頭をかいた。
「ふむ、厄介なものだな、ああいう手合いは。…さて…」
ごそごそと懐を探り、紫色の布袋をつまみ出す。手のひらにころんとこぼれ落ちた美しい石。それがまあ過去を再生するオーパーツだなどと誰が思うものか。半信半疑、と言ったていで武原はその小さな石を部屋の中心に置き、立ち上がってそして、小さな声でその石の名を呼ぶ。
「─────────……」
端的に言えば武原の考えは杞憂に終わった。
その小石は名を言い終えたと共に、ぼんやりと光り出し、そしてそれはまるで影灯篭のように、そこでかつてあった事件を映し出したのだ。
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