第8話 蓼食うカウンセラ・濡羽熨斗目

いつも過ごしている階層よりも、幾らか高い場所に、彼女は住んでいる。治安はよく、広い建屋も多い。全体的に小ぎれいで、たしか南本医療品販売本舗という大店がこのあたりの縄張りにしていたはずだった。秩序、という概念でしかないそれが、なんだか香り立つような階層。五厘はここに来るといつも、なんだか寄る辺ないような気持ちになった。


落ち着いた色の看板が犇めく通路をぬけて、階層の1番外側へ。右に曲がって、3番目の家。(おっと、通り道に廃水がない。水回りが整備されているところは少ないから、いつも驚いてしまう。)


カラン、と玄関の呼び鈴の紐を引っ張って、彼女が出てくるのを待つ。街灯が消えかかっているのをぼんやりと眺めていると、扉が開いた。


「凪ちゃん。また金の無心かい?この間渡した分はどうしちゃったのさ」


ショートボブの黒い髪に、ひと房青い差し色。細身の体に白衣を羽織って、濡羽熨斗目が呆れたようにそう言う。けれども、早朝にいきなり玄関の戸を叩かれた側にしては、あまりにもそれは熱っぽい口ぶりだ。まるで、予定調和のような交合。


「ごめんやん熨斗目せんせい。ちゅーしたるからゆるしたってえ」


くん、と五厘が玄関で濡羽の首筋に鼻先を寄せる。恋人がするようなそれに、甘やかすような声音で持ってと制止する。そうして懸命なる読者なら分かろうが、当然2人は恋人などでは、ない。


「女の子を買ってきた帰りだろう?ごめん被るよ」


いつもの戯言はおやめと、苦笑してそう言った濡羽は、部屋の中に五厘を手招く。


「いけず。……ほんとはしてほしいくせに」

「……なーぎちゃん。やめなさい」

「はあい」


五厘にとって、そこは勝手知ったる家だった。白とベージュを基調とした居間兼仕事場のソファに転がって、彼女はくん、と漂っていた薬のようなにおいをかぐ。そうしてんん、と1つ伸びをして、お水飲みたい、とわがままを言った。

はいはい。濡羽は台所で言われた通りに水を汲んで、五厘に渡しやる。


「誰か来とったん」

「昨日の夜だよ。近所の悪ガキがね、ケガをしたっていうもんだから」

「またお医者さんみたいなことしとる、ふふ」

「しょうがないだろう。私はカウンセラだって何度も言ってるのに、このあたりの人はみんな医者だって信じちゃってるんだから。」

「あはは。まあそうっぽいもんね、熨斗目せんせ」


よいしょ、と濡羽がソファの端に腰を下ろす。そうすると転がっていた五厘が彼女の細い膝の上に乗り上げて、ふふんとひとつ笑った。まるで猫みたいに。けれどそれがもっと厄介ないきものだとしっている濡羽は、深くため息をつく。


「今日はどんなお願い事?凪ちゃん」

「なあ、前の薬効けへんようになってんけど。もっといいのないん」


深爪を弄りながら、五厘はそう呻く。確かに彼女の顔にはいつも、うっすらと隈が刻まれているが、今日は尚のこと濃いようだった。


「あることにはあるがね、眠れないのは凪ちゃんの生活リズムのせいじゃないのかな?どうせ夜遊びして、朝方に眠って、昼も過ぎたころに目を覚ますんだろう?」

「見てきたかのようにゆーやん。お医者様は怖いわあ」

「あなたのことなら大抵わかるさ」

「すけべ」

「あなたほどじゃない」

「あはは、否定せーへん」

「まあ、貴女をここに招き入れてる時点でね。兎角、それ以上強い薬がほしいのなら、もう少し寝る時間を早めてからにしてくれる?……心配しているんだよ、あなたを」

「いややわ」


心配なんて。目を閉じて、すり、と体を濡羽に寄せる。くったりと体を預けて、それは全幅の信頼というよりも、もっと怠惰で投げやりなものだ。いくらかの沈黙の後、五厘は目を閉じたまま、口を開いた。


「……翠が死んでん」

「ああ、気に入ってた娼館の子」

「あと数日で大金持ちの優しい男に身請けしてもらえんねん、ゆうてよろこんどった」

「……殺されたのか」

「せや、……なんかに巻き込まれたんやわ。最近、死相の出た人をよお見る」


死相。

それは五厘の持つ、不幸な力だった。

もうすぐ死ぬ人間の首に、赤いロープの痕が見えるのだと言う。それを知った時、ああだから彼女は人と会う時、まず初めに首元あたりに視線をやるのかと思った。


彼女が言うにはその力は、最愛の人間の死を、何年もかけて看取ることで手に入れたらしかった。それは彼女の心をぎしぎしと蝕んでいて、まるで呪いのようだと濡羽は思う。せめて心くらい和らげてやりたいと思っているが、それがどんなに難しいかもよく、知っていた。



「それで武原先生をせっついたのか。うまくいくと思うかい?」

「さあ?知らん。でもなんやこの事件……先生は好きそや、おもてん」

「作家の勘かい」

「もーやめたから、元作家の勘。やさしやろ?作家せんせにネタ提供してんねん」

「そんな優しいものか?だって凪ちゃん、ただ───武原先生の新作が読みたいだけだろう」


そういうと、あはは!と子供のように五厘は笑った。


「そうともいう」

「好きだねえ、武原先生のことが。そんなに面白い?」

「おもろいよお。……え、なあちょっと。とろうとしてへん?」

「とらないさ。凪ちゃんのだろう?盗人みたいな言い草はよしてくれ」

「でもつまみ食いはするんやろ」

「あはは、どうかな。するかも。」


私も面白い人間は大好きだからね。

そろそろお友達くらいにはなってもいいかなって、思ってたんだ。


猫にするみたいに五厘を撫でながら、濡羽はそう目を細め、楽しそうにくすくすと笑ったのだった。




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九龍偏屈作家譚〈渾渾沌沌の街の人間模様を、好奇心のまま暴くから巻き込まれるんですよ!?〉 具屋 @pantsumusya

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