第5話 永く生きるもの・一角満龍
脂ぎった空気が流れる82階。旧中華エリアの料理屋が犇めく所謂チャイナタウン。エリアごとにその土地、民族ごとの特色はあるとしても、特にこの82階はそれが色濃い。夜の街はあちらこちらでじゅうじゅうと餃子の焼ける音、大量の蒸籠が蒸し上げられている屋台。涼し気な愛玉子(オーギョーチ)がガラスの鉢で売られており、飲食の階というイメージが誰しもにある。
満龍くん、とやらに呼び出されたのはその階である。武原は基本的に少食であるのでこの階で食事をすることはないし、そも油の匂いの強いフロアで歩き回ることを装いの観点から良しとはしない。そう、つまりは来ることのなかった場所である。人を避けるのの精一杯、ほとほと疲れ果てた武原は、勝手知ったるとでも言うように雑踏をすりぬける籾谷を追うので手一杯だ。
人混みをぬけ、屋台と屋台の隙間をぬけ、提灯をそっと脇によせ、お世辞にも綺麗とは言い難い建造物の暗い隙間を縫って、そろそろこれは帰り道がわからなくなるぞ、と武原の気持ちが焦りだしたころ、指定されたという場所に着いた。
「…飯店、味醂上手…?」
建物と建物の間に挟まるようにしてある小さな店だ。ダクトからはごうごうと煙が吹き出しており、こころなしか焦げのような香りが風に乗って漂う。戸の上に掲げられた看板を読み上げた武原に、籾谷はころころとわらってみせた。
「そうそう、ここですここです。ご飯はねー、その……けっこう微妙、なんですけど、……この階では1番面白いお店なんで、安心して下さって良いですよ!」
ガラガラ、と薄汚れた引き戸を開けると、香ばしいよいかおりと、胡麻油の香りがふわと流れ出す。籾谷の背中越しにこじんまりとした店内を伺えば、白熱電球に照らされた店内の奥に、1人の黒髪の男性が大量の酒瓶と共に机を陣取っているのが見えた。
「あっいたいた!満龍くんお久しぶりですねえ」
「おお!籾谷先生じゃねえか。息災にしてたか?…全く、相も変わらず他人の用事のある時にしか連絡してきやがらねえ。恩人がいのないお人だ」
「恩人だなんて言い過ぎです。私はやりたいことをしているだけなんですから〜」
籾谷が青年に近づいてゆく背を追う。
朱と紫のオッドアイをもつ、酷く美しい男。見透かすような憐れむようなまなざしは、油ぎって下俗的なこの店とはひどく乖離している。ふと、武原が不躾に見つめていたのが分かったのだろう。オッドアイの彼が武原の方を見遣り、ふんと鼻をひとつ鳴らす。用ってのはお前か?そういう顔だ。
「なるほど?貴方が例の満龍くん、とやらですかな。」
そう声をかけると彼はその美し切れ長の瞳を驚いたように大きく見開き、呵呵大笑とばかりに笑ってみせた。
「…わははは!この俺を対面にして尚そのような名で呼びかけるとはまあ恐れ入った!…お嬢さんよう、九龍に住んでおきながら一角の名を知らんということはまさかないだろう?」
一角。嗚呼と武原は気が付く。籾谷先生はいつも肝心な事を言わないな、と内心溜息をつき、こちらを煽るように笑う美丈夫に言葉を返す。
「一角?…というと成程。あなたがあの龍の一族の方であらせられたか。もちろん存じ上げておりますとも。先の人類どもが侵した大罪、神々への離反、倫理喪われし所業の忌み子!人と龍のキメラ、永くを生きるもの…ふふ、そんな存在であるあなたが、今やこの九龍で一大派閥となっている一角教の教祖だなんて…は、ほとほと皮肉なはなしでございますな!」
「…おい籾谷。こいつ失礼じゃね?」
「いやあこんな人なんですよ。ごめんなさいね」
あらあらふふふと笑って籾谷は彼の隣の席に腰を下ろす。座席は円卓だ。このまま彼女の隣に座れば自然と自身は一角の正面となる。このような───ひとを見下し慣れた不遜な瞳の持ち主の目の前に座るというのはいささか荷が重くはあるが、まあしかして突っ立っていてもらちはあかぬまい。武原も籾谷をならい、少し油感のある椅子に腰を下ろした。
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