第2話 軽薄好色家・五厘凪
「やあ涼しい涼しい。クーラーがあるんはやっぱりええねぇ。最高やねぇ。武原せんせは何にするん?いつものクリィム餡蜜かい?」
比較的小綺麗な飲食店が犇めく95階の、奥まった通路に入口を持つ餡蜜屋。1歩外を出れば屋号や落書きや看板等で雑多な景観であるにもかかわらず、店内は店主のこだわりか、旧日本を思わせる内装に統一されている。うぐいす色の壁紙に木製の黒い机。天井近くや窓枠には美しい梅があしらわれた欄間。大きな窓からは燦燦と光が取り込まれているにもかかわらず暑さを感じない。相変わらず良い店だ、と武原は供された冷やに口をつけながら思う。勿論、子供のようにはしゃいで品書きを捲る五厘は視界の端に追いやって、だ。
「…そのつもりだがね、貴女は程々にしてくれたまえよ。甘い物が好きだと言った五厘先生と初めてこの店に来た時のこと、私は忘れまい。机いっぱいの甘味、甘味、甘味!甘いものなら無限にはいるだと嘯いて、片端から平らげてゆくのはまあ壮観ではあったがね、それを私の財布でやられるのは流石に溜まったものではないよ」
当時の様を鮮明に思い出した武原は、はあとひとつ溜息をつく。そんな武原を笑った五厘は、ひらりと手を挙げて女給のひとりを呼んだ。はあい、何に致しましょう、という鈴を転がすような声の主がぱたぱたとやって来たのを武原はちらりと見て、クリィム餡蜜を1つ、と注文を淡々と告げる。
「武原せんせ、昼餉はまだ食べてへんねやろ?食事はよろしいんか?」
「要らん。どうせ餡蜜で腹一杯になる」
「ふうん。相変わらず少食でいらっしゃる。…お姉ちゃん、私みたらし団子とお抹茶のセット。あと黒蜜パフェーとうずら、あんかけのきしめん。」
「…話を聞いていたか?」
「だから抑えたやん?」
「……」
以上で、ようさん頼んでごめんなぁ?
媚びるような甘い声で五厘が女給にそう言い、武原はハンドバックから酷く呆れたような様子で煙草を取り出す。
「せーんせ。眉間の皺、深なってんで。直して直して。…なーあ、そないけちけちせんだってええやん?…知ってるでぇ、こないだ出しはった『遠雷』、えらい売れ行きええらしやん?贔屓の店の女の子も読んでやったわ、お陰で話が弾む弾む!いやあ武原先生様々やね、よっ、武原屋!」
ぱふぱふ!と白シャツの袖を叩き合わせておどける五厘に、その話の下俗さに、いい加減目眩がしてくるな、と武原は思う。指摘されたからというわけではないが、兎角頭痛がするような心地がして、武原はその眼鏡を外して目頭を指で軽く揉んだ。
「…成程?話が弾んだ…ということは、貴女も読んで下さったということかな。是非感想を頂きたいものだが」
多少これくらいの灸は饐えてもバチは当たるまいと、武原が意図を含ませてそう言うと、案の定、五厘は不意にすとん、と表情を落とした。これだよこれ、こういうものが私は見たかったのだよ、と武原はその様子にほくそ笑む。へらりとした軟派女の皮なんかなんべん見たところで面白くもなんともないのだから。もっと執着を…複雑怪奇極まる人間の感情を、私に見せてくれないと困る。断筆したんよ、もう私に物語は書けへんから、だなんて!そんなことよく言えたものだ、そんな顔をしておいて。
さて五厘の方といえば、ううむと大仰に首を捻って、胸ポケットから取り出した煙草を咥える。そんな短い間に彼女は元の顔を取り繕ってしまったので、つまらんな、と武原は白い煙を吐く。
「感想。はて感想ときたか。…私が他人の書き物に意見を述べるんがとんと苦手と来ているのは知ってはるんに、意地悪なおひとやね。まあ八つ時のお礼に少し述べさせてもらうんやったら…」
ぽわ、と口から輪のように白い煙を吐き出して、五厘がその切れあがった三白眼を細める。
「まず、相も変わらず武原せんせの文は情念がえろう濃いなあ思たね。こだわり所やもんな…なんてゆうん、恋?執着?憧憬?羨望…そうゆうんを区別させんおどろおどろしさは相変わらずええな思うよ。ほんでもって最後、男の手紙が女の所へとどかへんのが良かった。フィクションの辻褄合わせが私は大嫌いやからね」
その言い草に武原は呵呵と笑い、窓の外を見遣る。日差しは明るく、遠くには少し離れた街の同階が見えた。ごちゃごちゃと人々の住む部屋、そのヴェランダとトタンの屋根が規則性もなく積み上げられている。白い煙が上がっているのは露店か。あとで夕飯を探しに行っても良い、とぼんやり思う。木々が茂る区画も薄ら見え、子供らが走り回っていのが見えた。平和な午後だ、と思う。好きでもないが嫌いでもない。人が生活を営んでいる、それその事実だけで、武原は興味深いと思う質だ。
「…ふん、創造した想像の世界での奇縁すら貴女に言わせれば『辻褄合わせ』か。まるで潔癖だ。この世の全ての不誠実に対して誠実だ。全く奥ゆかしいことだな、貴女の下半身と違って」
おまたせしました、お先にクリィム餡蜜と黒蜜パフェーです、と可愛らしい声が頭上から降る。女給の彼女が近づいてくるのを見越して武原が自身の私生活を揶揄したのだと気付いた五厘が、苦笑で顔を歪ませながら、ありがとうなあとそつなく答えた。
「…太陽はまだ頭の上やで武原せんせ。そないなこと聞かれてもうたら、ここの女の子らぁに口聞いてもらわれへんようなるからやめぇ」
灰皿に煙草を押し付け、持ち替えた長いパフェー用の匙でざくざくと底に敷きつめられた米菓子をつつきながら、五厘は苦言を呈した。もちろん武原はそんなもの何処吹く風と言うように意に介さない。なんならより笑みを深くして、その目を細める。
「ふん!そんなものは自業自得だ。先月私が1人でここに来た時、帰り際女給の彼女に言われたことをお教えしようか?『凪さんとお付き合いされているんですか?そうでないなら、もう凪さんに近づかないでください』…はは!貴女と私が?その目は節穴か、虫唾が走るわと言ってやろうかと思ったが、それも芸がない。だから───ふふ、」
あむ、と冷たい寒天を餡子と一緒に口に含む。溶けかけたアイスクリイムがまろやかに甘く餡子を包み、口の中で溶ける。やはりここの甘味は美味いな、と武原は独りごちる。
「……あっははは、嘘やろ?はぁー…だから今日は敢えて私とここへ?いたいけな彼女に見せつけて嗤う為に?本当に悪いお人や!」
「何を言う?悪いのは貴女ひとりだろう。…まあ生憎、例の彼女は今日は居ないようだがな。ああつまらん、つまらんね。きっと見応えのある修羅場になった」
そう言ってのけると、五厘はううん、と唸るような声を上げた。彼女が言い淀む内容にろくなことはないと知っているから、少し怪訝な顔で武原は五厘を見遣る。
「……それなんやけどね、武原せんせ」
「なんだ?」
「実は最近、連絡が取られへんのや。雪ちゃん…ああ、せんせが揶揄いはった子ぉやけど。ほんでまあ、それだけやないねんな。おれへんくなってんねよ。何人も。身寄りのあらへん女の子らばっかり」
「………ふうん?それがどうした。まあない話ではあるまいだろう、ここ九龍街では。人身売買に麻薬取引、信者の自決に自警団の報復…そんなものは在り来りだ。日常だ、平凡だ。そんなことは五厘先生、貴女の方こそ承知しているのでは?」
話しながらもあくまでパフェーから顔をあげない五厘に、続きを促す。
「…そらあ買いかぶりや。せんせの思う程、私は悪い子ぉちゃうよ。」
五厘の伏せた赤い目が、午後の光を透かしてちりちりと耀く。いつになく下がった彼女の声のトーンに、これはもしかして面白いものが見れるのではなかろうか?と少しの期待が武原に過ぎる。
「…本題があるのだろう。私は回りくどい言い回しは好きだがね、内容をはぐらかす懇願は嫌いだ。さあ、早く口を割り給えよ。この私に何を吹っ掛けたいのだ、五厘先生。この貸しは高くつくぞ?」
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